黄昏の章

すべて不完全なるもの

─ 1 ─

 ──ああ、やっぱり。
 玄関の引き戸に手を掛けると、何の抵抗もなく開いた。
 千暁は深々とため息を付く。
 どうしてこの人はこんなに無防備なのだろう。
「ごめんください」
 案の定、返事は無い。けれど、すぐに上がらなかったのは、久方ぶりの来訪だからではなく、明らかに人の気配がしたからだった。
 しばらく、無言のまま佇んでいると、
「上がったら」
 不機嫌にも聞こえる低い声が、奥からした。

◇ ◆ ◇

 推薦入試の結果が出始め、受験の空気が濃密さを増し始めると、馴染んだはずの教室内も、千暁にとっては酷く居心地の悪い場所となり始めた。
 静電気を帯びたドアノブに触った時のような、意志に関係のない攻撃性がそこら中に溜まっているのだ。過敏な神経には、慎重に膜を掛けてあるにもかかわらず、時にはそれを引き破って千暁の感覚を苛む。昼休みは中庭の片隅にある、園芸部の廃止と共にうち捨てられた、本来なら立ち入り禁止の温室に避難し、放課後は逃げるがごとくに教室を後にするようになった自分が、クラスメイトに不審がられることに気など回せなかった。
「宇野ー、ちょっとこれ、教えてくれー」
 放課後、一目散に教室を出ていこうとした千暁を、浅沼の声が捕まえた。その手には、志望大学別の問題集がある。
「悪い。勘弁して」
「じゃあ、明日はー?」
 珍しく、しつこく引き下がられて、千暁は表情を取り繕わなかった。
「……武川にでも聞いてくれよ。あいつ、数学得意だろ」
「えー、武川はヤだよ。口より先に手が出んだもん」
 確かに、懇切丁寧に教えるタイプじゃないなとは千暁も思う。だからといって、情に絆されてやる筋合いなど無い。とにかく、この場所からは一刻も早く離れたかった。
「じゃあ、担任にでも聞きに行けよ」
 担任の池田は数学教諭だ。気さくな性格で、面倒見も悪くないから生徒からの受けも良い。特に、三十前の見目の良い男ということで、女子生徒からの人気は絶大なものがある。
「女子がたかってて、ゆっくり聞けねーよ」
 砂糖菓子にたかる蟻じゃあるまいし、聞かれたら袋だたきに遭うぞ。
 胸の内でつっこみつつ、苛立ちを出来るだけ押さえて嘆息した。
 自分以上に、浅沼が苛立っているのは感じていた。このところ、めっきり付き合いが悪くなったことを不審に思っているのは間違いなかった。
「ほんと、悪いけど」
 なけなしの自制心で、申し訳無さそうな苦笑いを浮かべてそういうと、今度こそ千暁はその場から逃げ出した。

 中学三年生の、受験シーズンに入った時もこんな感じだった。
 あの頃は、綾人が同じクラスにいたからだろうか、ここまで神経がささくれることも無かったのだが。
 自宅に帰り着くと、纏わりついた穢れを振り払うかのように制服を脱ぎ捨てた。気が緩んだせいか激しさを増した頭痛に絶えかねて、ベッドに身体を投げ出すように横になり、そのまま気を失うように眠りに落ちるのも、ここ数日は習慣のようなものだ。三十分ほどして、ふわりと意識が浮かび上がる頃には、その頭痛が納まっているのがささやかな救いだった。
 ごそごそと枕元の目覚まし時計を引き寄せると、午後三時。
 有り得ない時刻を見て、そろそろ電池の替え時だったことを思い出した。
「ちょっと駅前まで出て来る」
 台所に立つ多佳子の背中にそう告げると、
「それなら、ついでにお豆腐とみりん買って来てくれる? お豆腐は永津家さんの木綿ね」
 と、ちゃっかり千円札一枚と共にお使いを言い渡された。
 道すがら、ふと思い立って、千暁は携帯電話の電源を入れた。
 校則では、携帯電話の持ち込みは認めていても、校内での使用は禁止されていて、原則電源を切っておかねばならない。とはいえ休み時間にはメールのチェックややりとりをしている生徒がほとんどだったりするのだが、千暁の場合、下手をすると友人や多佳子に指摘されるまで忘れていたりする。それでも、習慣とは恐ろしいもので、最低限の持ち物として財布とセットにはなっているのだった。
 ディスプレイ画面に、千暁からの着信履歴があった。
 先日、約束すっぽかしの件は、受験終了後に昼食と映画をワンセット奢ることで手打ちになっていた。何をどう紗夜から聞いたのかは確かめるすべもないが、重ねて問い質されることもなく、責めがましいことも口にしないでくれていることに、千暁は心底安堵していた。
 いつまでも根に持つ性格でもないことは、よく知っていたから、いまさら蒸し返すような用件ではないだろうと思うものの、これまで平日なら夜遅くにしかなかった着信が、こんな夕方の中途半端な時間にあったことが、ふとその気持ちを揺らがせた
 時間は、ほんの数分前。
 こういうのを、虫の知らせ?
 いや、それだと不吉な感じだから、予感とか因果とか以心伝心とか……などと、埒も無いことをごちゃごちゃ考えながらコールバックすると、呼び出し音一回半で相手が出た。
「もしもーし」
『あ、千暁、良かった』
「どした?」
『夕月さんち、知ってる?』
「はあ?」
 思いも寄らない用件に、やや調子はずれな声で答えた千暁は、何故、綾人がこんなことを聞いてくるのか混乱していた。少し考えれば、紗夜が話したのだろうと思い至れただろうが、残念ながら、夕月の名を聞いただけで、少しばかり千暁は感情も思考も乱されていた。
『駅で待ち合わせしてるんだけど、来ないんだよ』
「電話してみれば?」
『夕月さんち、電話ないんだってさ。基本的に、連絡は郵便らしいし』
 今時どんな家だ。ってか、手紙とか届くのか、あの家。
『でさー、家まで届けようかなって思うんだけど、住所だけじゃ分かんないし、千暁なら知ってるかなと思ってさ』
「知ってるけど、今から?」
『明日は俺、出掛けてる時間ないんだよ』
 母親から買い物を頼まれていることもあるし、夜にあの道を辿るのは、わざわざ狐狸に騙されに行くような心地がする。
「……預かろうか。明日でよければ、俺が届けるよ」
『ほんと? 助かるー』
 心底、ほっとしたような声音に、
「今、駅に向かってるんだけど、何処にいる?」
 そんな応えを返しながら。
 もう一度あの家を尋ねる、正当な理由を千暁は手に入れたのだった。

 翌日。
 昨日の帰り際のことを思うと、なんとなくばつの悪さを感じながら教室に入ると、浅沼は予想外な表情で、「よ」と片手を上げ、席に着いた千暁ににじり寄って来た。
「宇野もさー、水臭いよなあ」
 一体何の話かと怪訝な顔を向けると、浅沼はさらに顔をにやけさせた。
「言ってくれればさー、俺も引き止めたりしなかったんだぞ」
 全然話が見えない。
 あれから、酒の肴を得たサラリーマンよろしく、教室内で千暁に関する討論会が行なわれていたなど、本人には知る由もない。
 概ね、受験を控えてナーバスになっているんだろう、という妥当なところに落ち着きかけていたところに、「彼女がいるんじゃないか」などと誰かが言い出し、それが妙に信憑性を帯びはじめ、いつのまにやら「いるに違いない」になり、「今、なかなか会えなかったりして、いらついているんだ」という結論に納まったことなど。
 そして、そんな間抜けた話で緊張感が解れたのか、その朝の教室の雰囲気は、とても和やかなものに変わっていた。
「なー、やっぱ可愛い?」
「写メねーの?」
「何処のガッコ?」
「もしかしてS女?」
「まさか女子大生か?」
 後ろから千暁を軽く羽交い締めにした宮下と、机の上に組んだ腕に顎を載せた浅沼は、まるで双子のように似た表情で、矢継ぎ早に質問を飛ばした。それを興味津々の態でクラスメイトが様子を窺っている。
 居心地悪いことこの上ない。
「さっきから、話が見えない」
 憮然として千暁は宮下の腕を引き剥がした。
「別にさー、隠すことないじゃん」
「だから何を」
「いるんだろ、彼女」
「はあ?」
 昨日から、質問に驚かされているばかりな気がして、千暁は深々と溜め息を付いた。
 離れた席で、内心はともかく、面白くも無さそうな顔をして単語帳をめくる武川に、こいつらをなんとかしろ、と目線で訴えたところで、軽く口の端を上げてやり過ごされた。
「なー、いいじゃん、どんな娘だよ?」
 真正面で、期待に目をきらきらさせている浅沼に、お前、受験は大丈夫なのかと問いたい気持ちをとりあえず横に置いて。
「どこからそんな話が出てきてんの」
 まずは、誤解を解く方に手を付けた。
「だってさあ、昼休みは忽然と姿消すし、放課後は速攻帰るしさー」
「あのな、俺だってそろそろ焦ってんだよ、受験まで二ヶ月無いんだぞ?」
 浅沼の顔から、にやけた表情がぼろりと落ちて、尻尾どころか耳まで垂らした犬の如き風情に、
「つまり、影でこそこそと、ひとり、受験勉強に没頭していたと?」
 明らかに肩を落として、宮下が簡潔にまとめた。
「人聞きの悪い言い方すんな」
 何故か、教室内のテンションが、一気に下がった。
「じゃあさあ、今日は」
「今日は駄目。約束がある」
 ぴしゃりとはね除けると、ほんの数秒前までの項垂れた様子は何処へ行ったのか、浅沼は勢い込んで千暁に迫った。
「何、やっぱり彼女?」
 その言葉に、ざわりと教室内が色めき立つ。
「違う、届け物頼まれてんの」
「とかいっちゃってさー、絶対女だろーっ!」
 どう聞いても、自棄の八つ当たりなのだが、やや千暁が戸惑いを見せたのが格好の餌食になる羽目になってしまった。
 千暁にしてみれば、届ける相手の性別は曲がりなりにも女性であったし、いろいろ気になることは山積していて、ただの知人とも言いかねる部分もあって、口籠ったに過ぎないにしろ、気晴らしのネタに事欠いたクラスメイトたちの、格好の標的になったのである。



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