黄昏の章

すべて不完全なるもの

─ 10 ─

 きついお灸を据えられて、それでも夕飯までたかってから、マサヤとシンは帰っていった。
 二人には帰るべき家と迎えてくれる家族がそれぞれにいるのだと聞いて、千暁は奇妙な気がしたが、夕月のような解者の方が珍しいのだという。
 そして、夕月はその日から鳴海家の客となった。
 マサヤとシンを叩き出すように見送ってすぐに、倒れたのだ。
 食事もほとんど喉を通らず、一日の半分以上を眠って過ごす。医者などに診せても無駄だというのを押し切って、先日、紗夜の祖父が入院した先の病院へ連れて行き、あれやこれやと検査を受けさせたが、重度の貧血と内臓機能の低下が数値として分かっただけだった。点滴を受けさせれば、その場はそれなりの回復を見せるのだが、拒食に近い小食が改善されなければ、根本的な解決にはならないと医者には告げられている。
 もし夕月の食欲が回復したとしても、なんの解決にもならないことを、紗夜も夕月も口にしようとはしない。
 受験生という立場もあって、毎日とは行かなかったが、二度と顔を見せるなと言われた紗夜の自宅へ、千暁は足繁く通っている。
 夏頃の状況なら、それも叶わなかったかも知れないが、最近はカルチャースクールにも通うようになって、交友関係が広がったせいか、多佳子はあまり千暁の行動に口うるさくなくなっていた。どうせ、春になれば上京して、滅多に帰ってこなくなるのだから、と笑っている。ぐずぐずと言われるよりはましだが、そういう突き放され方に、やや寂しいものを感じずにはいられない。
 そうこうしているうちに、季節は初冬を迎えていた。
 どんよりとした雲が空を覆い、朝からどことなく陰鬱なその土曜日、千暁は午前中から鳴海家を訪れた。土、日曜日は、もう当たり前のことになっていて、多佳子などは昼食の面倒が無くていいなどと言う始末だ。
 いったん目覚めたものの、すぐに眠りに落ちたきり、夕月は朝食も昼食も採らずに安らかな寝息を立てている。
「昨日、点滴を受けさせに病院には行ってるのよ。入院を勧められてるんだけどね」
 紗夜はひっそりと溜息を落とす。
「何処で間違ったのかしら」
 私立高校に通う綾人は、土曜日も登校していて、まだ戻ってきていない。
 千暁は千暁で、座卓に問題集を広げて、すっかり受験勉強モードに入っていて、相槌ひとつ返すでもない。
 聞いていようがいまいが、紗夜は気にしていないようだった。
「あの二人のことは、笑い話になったからいいけど……、もし、そうでなかったら」
 はたりと言葉が途切れた。先を促すように千暁はノートから顔を上げたが、紗夜は頬杖をついて、ぼんやりと庭の方を見ていた。
「……そうでなかったら、忠告を聞かなかったあなたが悪いって思ったわね、きっと」
 少し人の悪い微笑で、紗夜は千暁に顔を向けた。
 もし、さんざん言われた「関わるな」という言葉の真意を、最初からちゃんと汲み取れていたら、何か変わっただろうか。
 千暁は、埒もないことだと、その「if」を念頭から追い払った。

 面倒な数式と格闘している間に、夕月は目覚めていたらしい。ようやく解を導き出して、思い切り伸びをすると、襖の向こうから話し声が聞こえてきた。
「ずーっと、ひとりで逝くんだって、思ってた。そういう未来しか視えなかったから」
 紗夜の声は少しだけ苦みを滲ませているのに、どこか甘い響きを持っていた。
「かの人たちの願いは叶うっていうのに、そんな寂しい最期は嫌だなって。ただそれだけだったの」
 小さな溜め息と、微かな吐息の気配がした。
「祖母のお葬式の時にね、大人たちが忙しかったから、代わりにあたしの面倒を見てくれた、ただそれだけの縁なの。数ヶ月の時間を貰うだけのつもりだったのよ。
 でも、あともう少しって望んじゃうの。夕月が帰れないのも、千暁が絡んでくることもおかしいって、分かってて」
 ぷつりと声が途切れた。しばしの静寂の後、
「違うよ。紗夜は『縺れ』させてなんかいなかった。ごめん。私が、あの莫迦どもを御せなくて」
 掠れた細い声が、苦しげに答えた。
「あの二人のことは不可抗力ってものよ」
 叱る鋭さと労る優しさを兼ね備えた響きは、少女のものというより母のようだ。
「……無事で良かった」
「そうね。結果オーライだわ」
「……でも、千暁にはやっぱり申し訳ないこと、した」
「何故?」
「私も、寂しさを埋めようとしたんだ」
「おんなじね、あたしと」
 くすっと笑った声の色は、年相応の少女のもので。
 聞かれているとは二人は思いもしていないからこそ、そんな会話をしているのだろう。千暁は居たたまれない気持ちになって、今更のように息を潜めて再び問題集に目を落とした。
 それでも、一度途切れた集中力は中々取り戻せない。
「あとは、夕月が帰るだけね」
「もういいの?」
「うん。もっと、終わったーって達成感とか、あるのかなって思ってたけど、胸の中で何かがすとんって落ちるだけなのね」
 紗夜がくすくすと笑い声を立てた。
「ほら、『波』の音が聞こえてる」
 言葉としては知っているのに、意味のわからない言葉がまた出てきて、千暁はしみじみ切なくなる。受験対策用問題集みたいに、鳴海家宇野家に関する用語集でも欲しいところだった。
「……帰りたくないな」
「だめよ」
「……そうだよね、もう、ヒトじゃないしね」
 夕月は自嘲気味に呟く。
「そうじゃなくって。このままだと、身体が持たないわ」
「……このまま消えられたらいいんだけどな。だって面倒だよ。また虚界に戻って、また真界に来て、同じ時間なのに違う世界を、延々と巡り続ける。
 解者が消滅を恐れるのは、多分、刷り込みなんだよ。こんな気の狂いそうな時間の中で、自ら死を選んだりしないように、っていう。だから、あいつらも、あんな莫迦なことをする」
 それはまるで言い訳のようだった。
 あの時も,まるで抵抗しなかった。あの昏い光を思い出すと、心臓を掴まれたような心地になる。
「夕月?」
「消えたい。……大切過ぎて、もう側にいられない」
 握りしめた手の指先が冷たくなっていた。
 これ以上、聞いていて良いのか悪いのか千暁には分からなかった。それは道徳的な意味での是非ではなく、自分にとって。
 その肩を、ぽん、と叩かれて振り返ると、帰宅したばかりらしい、まだ制服姿の綾人が、立てた人差し指を唇にあて、手招きをした。

「あれはさ、あの人たちの懺悔みたいなものだから」
 一緒に庭先に出た綾人にそう言われて、千暁は結果として盗み聞きをしてしまったことを恥じた。
「綾人は、何処まで知ってる?」
「多分、ほとんど知らない。でもいいんだよ、それで」
 それは諦念ではなく。
 素直に現状を受け止めて、心からそう思っているようだった。
 ならば、千暁には離すべきことは無い。これからも何ひとつ変わることなく、幼馴染みで、友人でいるだけだ。
 一応,上着を着てはいたものの、外に長くいるのは向かない季節だ。指先がかじかんで、そろそろ家の中に入ろうかとした時、千暁は虚空を振り返った。
「どうした?」
「……波の音が」
「え?」
 千暁も耳をそばだてて、周囲をきょろきょろとしていたが、「何も聞こえない」と首を傾げた。どれほど耳を澄ましてみても、少し強くなり始めた風に嬲られる樹々のざわめきだけだ。
「聞こえるんだ」
 重かった雲は、北風に散らされて薄くなり、陽の光を透かして銀色に光っていた。
 ざざざ……と、その場で聞くはずもない波の音が、はっきりと聞こえ始めた。
 大気が揺らいで、何かが触れた。それはすぐに消え、また触れる。
 さながら打ち寄せる波のように。
 やがて、あたりにそれは満ちてゆく。
 見えているわけでも,皮膚で感じているわけでもない。おそらく聞こえていると思っている音ですら、耳で知覚しているわけではないのだろう。
 不審がっている綾人をよそに、千暁は家の中に駆け込んだ。
「夕月っ!」
 叱るような、諭すような声。
 そんな紗夜からも逃れようとしているのか、夕月は壁を背にして膝を抱えていた。
 幾度も幾度も、揺らぎが訪れる。
 これが、『波』なのだと千暁は無意識の領域で悟った。
 波に攫われる浜辺の流木のように、身体が何処かへ引き込まれてしまいそうな感覚に千暁は抗う。おそらくは,夕月もそうなのだろう、自分の身体を両腕で抱きしめ、見たことのない必死の形相をしていた。
 誘うように波は満ちる。
 心地の良いあたたかさにくるみこまれて、ふわりと身体が軽くなり、たゆたう。
「もう……」
 その呟きは余りに微かで、声にもなっていなかったかも知れない。
 ──ひとりはいやだ。
 でも、確かに千暁の耳には届いて。
 ほんの一瞬、視線が絡んだ。
 決意し、覚悟を決めるのは、それで充分だった。
 千暁は夕月の手を掴んだ。
「行こう」
「は……?」
 大きく見開かれた目が、千暁を見上げていた。
 夕月が帰るべき場所へ一緒に行くとは、恥ずかしくて口には出来なかったけれど、代わりに握った手に力を込めた。
「じゃ、そういうことで」
 別れの挨拶にしては、何とも締まらない言葉を向けられて、しばし呆然としていた紗夜は、それでも呆れたように肩を竦めて破顔すると、
「もう少し気の利いたことを言いなさいよ」
 と、憎まれ口を叩いた。
「ねえ?」
 傍らに立つ綾人も、笑っている。
 もう抗う必要はなかった。更に勢いを増して大気さえも揺らす波の訪いに、そのまま身を委ねると、密度を増した空気の中に身体が溶けていくようだった。
 夕月は必死で腕を振り払おうと藻掻いていたが、ただでさえ弱り切った身体は程なく、くたりと力尽きた。
 ひときわ大きな波が来た。空気が重くなり、身体に纏い付く。そのまま飲み込まれて、何処かへ運ばれていくのに任せた。
 行く先よりも、ただ夕月の手を離さないことだけを、千暁は考えていた。



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