黄昏の章

すべて不完全なるもの

─ 6 ─

 結局のところ、無知であるという状態から脱却するのは、容易な事ではないのだと千暁は思う。
 早々に床に就いた割には、寝付きは悪かったし、夢こそ見なかったが、起き抜けの気分は何やら消化不良をそのまま持ち越したような不快さだった。
 そんな千暁を嘲笑うかのように、天気は快晴。蒼穹の深さに自分の小ささを思い知らされているようで溜め息が出る。
 うだうだとしていても、受験勉強に差し障るだけだし、ここは追い込みシーズンに心置きなく突入する為にも、気になる事はさっさと解決しておくに限る。
 などと言い訳をして、千暁は再び訪れるつもりなど、全くなかった場所へ向かっていた。
 すなわち、鳴海家へ。

 以前と同じ座敷に通された。
 違うのは、紗夜の隣に綾人がいる事だ。
「……なんか、へんな感じだね」
「だな」
 向かい合って照れたように茶を啜る二人は、呆れたような眼差しをちらと送る紗夜に、
「お見合いじゃあるまいし」
 と呟かれて、仲良く同時に咽せた。
 こんな穏やかな時間を、ここで過ごせる日が来るなど、考えたこともなかった。先日訪れたときでさえ、二度とこの家の敷居を跨ぐこともないのだろうと思っていたくらいだ。
 それがどうだろう。別の高校に通い始めてから縁遠くなりつつあった幼なじみを交えて、年寄りよろしく、千暁持参の土産、夏目屋のみたらし団子を齧りながら、のどかにお茶を楽しんでいる。その時間を惜しむ気持ちを抑えて、踏ん切りを付ける為に小さく息を吐いた。来訪の目的はそんな時間を壊すようなものだと分かっていたから、惜しめば惜しむほど、話が切り出せなくなる。
「昨日、電話のすぐ後にへんな二人組が来た」
「マサヤとシンのこと?」
 へんな二人組、で通じるのも、やや哀れな気がしないでもない。しかも紗夜の方も端的にそういう認識を持っているように見えた。
「そんな名前だった。中学生くらいで」
「あいつらも解者よ」
 ただそれだけを口にするだけでげんなりした様子に、どうやら、場を弁えない愉快な性質はここでも存分に発揮された事が窺えて、初めて通じ合うものを得たような気がしたことに、千暁は思わず苦笑を漏らした。
「みたいだね」
「で、あの二人の用件は何だったの?」
 けれど、投げやりな口調の割には、そのまま笑い話の種に出来るような軽さがない。尤もそんなことをする気は千暁の方にも元より無かったが。
「それがよく分からないんだ。夕月とちょっとケンカになって、それを横から煽って、勝手に突っかかって来て、最後は夕月に締められて、泣いて帰ってった」
 その表情は、少しばかり見物だったかも知れない。
 唖然とした顔で紗夜は、何度か瞬きを繰り返し、何か言おうとして諦めたようだった。直ぐには返す言葉が見つからなかったらしい。おそらく何も分かっていないだろう綾人が、横で笑いを堪えていた。
 事実を簡潔に並べると間抜け極まりないが、詳細に話してもその度合いに変わりはないし、さほど重要なこととも思えない。ただ、紗夜がわざわざ自分の携帯電話を当てにしてまで夕月と早急に連絡を取ろうとした事と、彼らが無関係と言う気がしなかった。
「……夕月がケンカしたの、あなたと?」
「は?」
 よもや紗夜が引っ掛かっていたところがそこだとは露ほども思っておらず、今度は千暁の方が絶句する番だった。
「そう、夕月が……」
 意味深な呟きに、千暁は慌てた。明後日の方向に想像を廻らされそうで怖い。
「いや、ケンカっていうか、昨日の電話の内容をしつこく尋ねたら、逆鱗に触れたみたいで」
「電話の?」
「そう。鳴海の事にも解者の事にも関わるなって、半分キレてた。最初から蚊帳の外だとか、俺には酷いこと言っておいて」
 軽く握った拳を唇に当てて、紗夜は何か考え込んでいるようだった。僅かに寄った眉間のしわは、さほど深刻さを感じさせないが、青白い光が陽炎のように立ち上り始めたのが見えて、事態は想像以上に悪いことを千暁に予感させる。
「昨日の電話は……あの愉快な二人組がここへ挨拶に来た事を知らせたのと……、」

「今日、マサヤとシンが挨拶に来たの。相変わらず図々しいわ。せっかく綾人が買って来てくれた堀辺屋の羊羹、一本ぺろりと食べてったのよ。しかも、楽しみにとっておいた秋限定の特上栗羊羹! 挙げ句にとっておきの玉露まで要求して、いったい何様だっていうのよ、まったく。だいたい、奴らがくると碌な事がないわ。それに……何か企んでる?」
『分からない。ただ、昨日、突然来た』
「そう。ねえ、あいつら、虚界へ送り返せない? 邪魔よ」
『うん、でも、無理だ』
「もしかしたら、だけど、拙い事になりつつあるのかも知れない。それをあの二人に嗅ぎ付けられたんじゃ」
『やっぱり、そう思う?』
「ええ。だって、おかしいでしょう、まだ、幕が降ろせないなんて。だけど、ちゃんと降ろしてみせる。だから」
『分かってる。邪魔をするなら、許さない』
「……ありがと。ごめん。ちょっと不安だったの。ねえ、携帯電話持つ気は……ないわよね」
『うん。それじゃ』

「文句を言ったの。あいつら、堀辺屋の羊羹を一本ぺろりと食べてったのよ。しかも特上栗羊羹。帰った後に、辻屋のお饅頭まで無くなってたし。手癖が悪いったら」
「お茶と菓子のたかり行脚でもしてんのか、あいつらは」
 紗夜の言葉が嘘ではないにせよ、肝心な事は口にしなかった事に気付いていて、千暁は言葉を合わせた。
 それに、食べ物の恨みを強調するのも、分からないでもない。堀辺屋の特上栗羊羹も、辻屋の饅頭も、美味いのだ。そういえば最近食べてないし、今日の帰りがけに買おう、などと千暁の思考を脱線させるくらいに。
「紗夜さん、俺、そろそろ」
 そう言って、綾人が腰を上げた。
「ああ、そうね、おじいちゃんの事、お願い」
「はい。じゃあ、千暁、また」
 綾人はほとんど音も立てずに座敷を出て行った。それはもう身に付いたもので、いつの間にそんな所作を覚えたのかと、千暁を驚かせると同時に、ほんの半年余りの時間の重さを感じさせた。
「……祖父がちょっと寝込んでいてね。そろそろお医者様の往診があるのよ」
「あ、悪い、そんな時に来たりして。また出直すよ、来週にでも」
「いいの。もしかすると、来週の方が拙いかも知れないし」
「でも」
「それに、時間が無いと言うなら、こちらの方が切羽詰まっていると思うわ」
 きっぱりと言われて、立ち上がりかけていた千暁は、再び座布団の上に腰を降ろした。
 目の前にいる少女が、不意に小さく見えた。
 外見的には、紗夜は女子の平均から見ても小柄だし、顔立ちも大人びているでもない。おそらくは鳴海を背負っているという自負が、歳にそぐわぬ落ち着きとしたたかさを感じさせるのだろう。
 けれど、唯一の身内らしい祖父の体調を慮る彼女は、年相応の無力な少女でしかないのかもしれない。
「正直に言うとね、あなたにはもう関わって欲しくない。解者の言葉を借りれば、縺れ始めてるから」
 座卓の上に肘をつき、組んだ両手に顎を載せて、紗夜は千暁から視線を逸らしていた。
「縺れ始めてる……?」
「『旅人』の話、覚えてる?」
「……天下の受験生の記憶力をなめるなよ?」
 そう茶化したのは、記憶の有無よりも、あの話を信用したかどうかを問われたことに気付いたからだ。
 それに応えたのだろう、紗夜は薄く笑った。
「彼らが望んだのは、そこに在ることを許して欲しい、というだけのことで、この能力も体質もおまけなのよ。ほんの片隅で密やかに息づくことだけを望んで、それは、ゆっくりと時間を掛けて叶おうとしている。余程の偶然が重ならなければ、まだしばらくは、この体質は受け継がれるにせよ、能力が発露することはもうない。それがどういう事か分かる?」
「鳴海家も宇野家も、もう必要ない──」
 はた、と千暁に疑念が浮かんでひやりとした。
「それは、解者とも縁が切れるってこと、だよな」
 紗夜はこくりと頷いた。
「だから、約束が反故にされるかもしれない」
「でも、経済的に援助してるんだろ、鳴海家は」
「それが抑止力になると思えるほど、甘やかな関係だとは思ってないわ」
 あの二人が、鳴海家と手を組んだのは『空白期間』があったからだと言っていたことを思い出して、紗夜の言葉が悲観的過ぎるものではないことを千暁は悟った。
 つまり紗夜の身はもう保証されないということだ。以前の千暁ならば、因果応報だとでも嘲笑えたかもしれないが、
「最初からその心配をしていた訳じゃないし、その為に夕月と友達になったんでもない。でも、幕は、あたしの手で降ろしたいのよ。だから、これ以上、関わらないで。縺れの要因を一つでも遠ざけたいの」
「俺が、そんなに邪魔?」
「そういうことじゃ……いえ、そういうことになるわね」
「……綾人とも縁を切れって?」
 ぱっと紗夜は顔を上げると首を横に振った。彼女らしからぬ忙しない仕草だった。
「そんなことは言わないわ。こんなことに巻き込んで申し訳なく思ってる」
 他人の気配には聡くても、感情には疎い事を自覚している千暁にも、紗夜にとって綾人がどんな存在なのか、理解できた気がした。それをわざわざ口にするほど無粋ではなかったけれど。
「夕月とは? 会わない方が良い?」
 その小さな肩が強張るのを見ても、千暁はしっかりと紗夜を見据えていた。まるで、いつもと立場が逆転していた。
「……どうせ、すぐに二度と会えなくなるわ」
「知ってる」
「解者と深く関わろうなんて、するものじゃない」
「そうだな」
 小さく息を付くと、紗夜はぎゅっと目を瞑った。
「綾人を、家に帰すわ。それなら、いいでしょう?」



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