黄昏の章

幕間

─ 2 ─

 夕立が去り、澄み渡った星空が広がったその晩、紗夜は深々と溜息をついていた。
 ──なんて面倒な置き土産をして行ったのだろう、彼は。

 久しぶりに自分の時間がとれた土曜日、友人と会いに行くと言って出掛けた綾人は、早々に帰って来るなり、
「千暁、来てたんですか」
 と、なにやら穏やかならぬ様子で紗夜に問いかけた。
「来てたわよ」
「千暁の父親のこと、何か知ってるんですか」
「知ってるわよ」
 食器を洗う手を止めること無く、紗夜は事も無げに答える。
 綾人が戸惑っているのは、振り向いてその表情を見なくても分かるが、積極的に話そうと言う気にはなれなかった。意図的に隠す気もなかったが。
「……夕月さんから、これ、預かってきました」
 食卓の上に、小さな紙袋を置き、黙ったままそこに佇む綾人の視線は、酷く苦かった。

 寄り合いから帰って来た祖父の英之は、風邪を引いたらしいと、夕食後、早々に床に付き、なんとなく気まずい空気の中、綾人も受験生ということもあって、自室に引き上げていった。
 静かな居間で、紗夜はぼんやりと庭を眺める。
 その庭で生る実は、解者の身体を癒すちからがある。先祖が虚界から流れ着いた種から育てたからだとは言われているけれど、それが本当かどうかは紗夜も知らない。
 山桃や夏茱萸が生っていた頃は、たびたびここを訪れていた夕月の足が、ぱたりと途絶えたのは夏の終わり頃だろうか。
 やっかいなことに、夕月の住まいには電話がない。当然携帯電話など持っていないし、本人はいらないと言う。秋茱萸が食べられる頃になっても音沙汰が無く、これは様子を見に行くべきかと思い倦ねていた時、簡潔に、赤い実を届けて欲しいとだけ書かれた葉書が届いた。
 どれだけ電話嫌いなのかと呆れつつ、紗夜も待ち合わせの場所と日時を書いただけの葉書で返信をした。
 会いたいのは山々だったが、数年前に誘拐未遂に遭って以来、紗夜は滅多なことではイレギュラーな外出をしない。自分のテリトリーだと感じられる場所ならばまだしも、夕月の住むあたりまで足を伸ばすことは、どうしても躊躇われて、綾人に届けてもらうことにしたのだった。
 そのついでに、両親の顔を見に行くなり友人に会ってくるなりすれば良いと思った。
 鳴海家の事情にかこつけて、綾人の人生に横槍を入れている自覚はある。  他にも適任者がいなかったわけではないから、わざわざ綾人を選んだのは紗夜の我が儘だ。
 幼い頃、父親が病で亡くなり、後を追うように他界した母親の葬儀で会ったことを、綾人は覚えていないようだった。同じ年頃の子供が他にいなかったこともあって、せわしい大人たちに放っておかれた二人は半日ほど一緒にいただけだから、当たり前のことなのかも知れない。
 ただそれだけのことで、鳴海家の事情に巻き込まれた綾人は、不運なのだろう。
 子供らしい、甘やかな思い出があるわけでもなく、ぼんやりと半日を過ごしたきり、会ったこともない少女の面倒を言いつけられるなど。
 けれど、ほとんど会話もなく、そう、慰めの言葉ひとつ無く、ただそばにいただけの少年だからこそ、今、そばにいてもらうに相応しい。
 このことについて話したことはないが、夕月はなんとなく事情を理解しているのか、綾人について尋ねられたことは一度もなかった。
 確証はなかったけれど、夕月が千暁と近しくしているような気はしていた。だから、運動能力に秀でる傾向の宇野らしくなく、やたらと気配に聡い千暁が、綾人の居場所を知るのはもっと早い時期だと思っていた。
 思いの外、遅い来訪。
 思っていた通りの、間抜けな決裂。
 何かを期待してしまったことに紗夜は自嘲する。
 今更、何を。
 紗夜は、掃き出し窓からふらりと庭に出た。
 まだ土はぬかるみを帯びていた。
 四季の星空のうち、紗夜は秋が一番好きだ。特に目立った星座などなく、漆黒の天鵞絨に銀砂を撒いたような空が。南の低い空には、秋の一つ星がぽつりと輝いていたりもするが、一等星にしては慎ましやかな光で好ましい。そのくせ、神話としては絢爛豪華な絵巻が広がっていたりするのだ。女神の怒りをかった王妃、その報いに岩にくくりつけられた姫、姫を食らわんとする化け鯨、姫を救いに天馬を駆り、全てを石に変える怪女の首を手にした英雄。
 星に手を伸ばす代わりに、残り少なくなった秋茱萸の実をひとつ採って口にした。
 夏茱萸の甘酸っぱさとはほど遠い、思った以上に渋さに、思わず顔を顰めた。
 こんなものを口にしてまで、ここに、真界に夕月を留まらせているのは、他ならぬ自分に違いなく、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
 夏が終わる頃には、全てが終わっているはずだった。
 何かが狂い始めている。
 それは、密やかに生まれてしまった望みのせいなのかも知れないと思うと、恐ろしさに身体が震え始めた。
「風邪引きますよ」
 ふわりと肩が暖かくなった。
「……ありがと」
 かたかたと震えているのは夜の冷気のせいではなかったけれど。肩に掛けられたストールを胸元に引き寄せると、少し震えが治まった気がした。
「さっきは、すみませんでした。責めがましいこと言って」
 ぼそりと綾人は言った。
「千暁が、聞けって、今日の待ち合わせに来なかった理由を」
 ぼつぼつと言葉を紡ぐ綾人は、ばつの悪そうな顔で、やや斜め下に視線を逸らせていた。
 ──なんて横着な。
 そこまで事情説明を丸投げされると、いっそ潔すぎて、呆れを通り越して笑いたくなった。
「鳴海家と宇野家は、ずいぶん昔からいがみ合っているから、そういうところ、あなたに見せたくなかったんでしょ」
 単に千暁が見栄っ張りなだけに聞こえなくもないが、あながち間違いでもないだろう。
「俺がここにいるの、いつ知ったんだろ……」
「夕月にでも聞いたんじゃないの」
 自分で言っておきながら、それは無いような気がした。
「え、あの二人、知り合いなんですか」
「たぶんね」
 当然の事ながら、解者は必要以上に他者と関わらない。怪我をさせたことを謝りには行ったようだが、千暁の持っていた解者の情報の少なさから考えると、それ以上の深入りをしているようには思えなかった。
「でも、駅で夕月さんと一緒のとこ見たって言ってたけど、何も言ってなかったですよ」
「……顔くらいは、知ってると思うけど」
 ──何しろ、入院の原因になったくらいだし。
 というひと言は飲み込んで、紗夜は軽く肩をすくめた。
 鳴海の当主は千里眼と言われていても、所詮この程度、赤の他人のことまでは分からない。
「せっかくルフナ茶をもらったことだし、チャイでも淹れるわ」
「あ、いいですね」
 綾人の応えに、紗夜は意外そうな目を向けた。これまでそんな反応を返された事などなかったから。
 一体どんな風の吹き回しかはともかく、美味しく飲めるのなら、それに越したことはない。
 ちらと銀砂の散る空を名残惜しげに眺めて、家の中に上がると、外が相当に冷えていたのか、とても暖かく感じられた。
 花のような香りのするミルクティーを用意して、
「少し、長い話になるけど──」
 紗夜は、綾人相手におとぎ話を語り始めた。

(了)


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