黄昏の章

青の領域

─8─

 まるで、紗夜の感情に呼応したかのように、空は俄に暗雲が立ち込め、空気に湿った匂いが混じり始めた。
 がたがたと、ガラス窓が風に揺さぶられて悲鳴を上げる。
 天から地までが裂けたかと思うほどの雷鳴が轟いて、空気が震えた。
 ほぼ同時に、叩き付けるような雨音が周囲を包み込み、不意に外界と隔絶させられたような錯覚が、異様な緊張状態を破ったようだった。
 紗夜の剣幕に押されて、身動きが取れなかった千暁は、ようやく立ち上がった。
 傘も無しでは、いや、傘があっても出て行くには躊躇われる荒天の中に頓着することなく出て行こうとした千暁の背中を、憮然とした声が引き止めた。
「ちょっと。夕立の最中に追い出すほど、人でなしじゃないわよ」
 鬼女もかくやと思われるほどの怒気は去り、やや蓮っ葉な、それでいて品の良さも窺わせるという
「……後で、綾人に怒られるのはごめんだわ」
 いかにも渋々と、不本意であるというのを全面に押し出しながら、紗夜は再度、緑茶を出した。
 ぬるめのお湯で、じっくりと淹れられたそれは、甘かった。舌に残る爽やかな余韻と、ふっくりとした香りが、気持ちを落ち着かせてくれる。
 つんと澄ました横顔に、思い切って尋ねた。
「夕月は……解者は、鳴海家とどう関わってるんだ?」
「共存関係」
 端的すぎて分からないと、言外に責めがましく睨むと、紗夜は小さく息を吐いた。
 そして、面倒くさそうに口を開く。
「住処と生活費を提供してるのよ。彼らも、この世界にいる限り、霞を食べて行きていく訳にはいかないから」
 それで話を切り上げたがっているのは分かっていたけれど、敢えて、千暁は無言でその先を促した。
「代わりに、鳴海家の当主だけは狩らないという約束が結ばれてる」
「なんだ、それ」
「勘違いしないでね。もともと鳴海家の当主が彼らの狩りの対象になることは、まず有り得ない。監視者をわざわざ消すなんて莫迦なマネを解者たちはしないわ。でも、鳴海も宇野も……消えて困ることはないのよ。
 ああ、そこで、一般論はいらないわよ。どっかの離島で孤立して生きている訳じゃないんだから、いなくなれば心配する人も悲しむ人もいるでしょうけどね、世界とやらにとっては、むしろ不安材料なだけって意味だから」
 外は、まだ激しい雨が地を叩いている。まるで雨の檻の中にいるような感覚は、身体が浮遊しているような奇妙な不安定さがあった。
「不安材料は最初から排除してしまえばいいという解者がいないでもないの」
「だから、取引した、と」
「そういうことね」
 憮然としながらも、紗夜は肯定した。
「そもそも、解者って、何なんだ?」
「知らないわよ。夕月にでも聞いてみたら?」
「『多重世界が壊れない為のシステム』、だってさ」
「だったら、そうなんでしょ」
 口先で適当にあしらわれているようで、いや、実際そうなのかも知れないが、むっとして紗夜を睨め付けると、
「鳴海家だって解者について大して知っている訳じゃない。共存関係といってもね」
 本当に、そうなのかどうかは計りかねたが、それ以上話す気がないのは明かで、話しの矛先を千暁は自分から変えた。
「……どうして、宇野家は、鳴海家と袂を分かった?」
「聞いてないの?」
 それは、虚を突かれたのだろう、きょとんとした顔で、紗夜はまじまじと千暁の顔を見つめた。
「聞く前に、祖父も父も死んだんだよ」
 とりあえず静まっている事が蒸し返されそうなひと言ではあったけれど、紗夜はその点についてはほぼ反応を示さなかった。
「商人に救われた娘が、最初にしたのは、権力者の元で生き延びた者たちの粛正。二度と権力者に阿(おもね)らないことを誓った者だけは、保護したけれど」
「その子孫が、宇野家ってことか」
「そういうこと。そして何度も誓いは破られた。その度に鳴海家の当主は手を下した。仲良くなりようが無いわね」
 紗夜は、細く息をついた。座卓に頬杖をついて、さして見えもしない窓の外を眺める
「でも、互いに相容れないのは、多分、旅人との約束を丸ごと飲み込めるか否かなのよ」
 千暁は、『たかがそんな約束』と言った。
 鳴海家の者にとって、どんな重きがあるのか、分かりたくもない。
「……鳴海家の連中は、その約束を破ったら、おとなしく殺されるのか」
「まさか。でも、否定はしない。その意味を分かってくれる」
 もう、互いに口は開かなかった。聞きたい事、聞くべき事はまだあったのかも知れないが。
 例えば、宇野家はどういう意味で、どうやって鳴海家に護られてきたのだとか。
 でも、もう紗夜は何も話さないだろう。そんな気がしていたし、それは半ば確信だった。
 音と光を伴った派手な空のショーは、さして長くもない沈黙のうちに終幕を迎えた。
 雨足が弱まり、暇する時を見つけて千暁は立ち上がった。
「傘はいらないわね」
 玄関を開けると、射し始めた薄日を反射して光る雨粒がぱらぱら舞っているだけで、駅まで歩くうちに、それも上がりそうだった。
「さようなら」
 いちばん綺麗な笑みを見せる紗夜に、千暁は軽く会釈を返すことしか出来なかった。

 雲が切れてゆく。
 まだ夕方というのは早い時刻だが、既に西の空は橙色を帯びて、夜が降りてくるのを待っている。
 今更のように、携帯電話の電源を入れると、スクロールするのも面倒なほど、綾人からの着信記録が残っていた。
 意外なことに、自宅の方へは連絡を入れなかったらしく、多佳子からの着信履歴は無かった。
 既に母親と確執めいたものはなかったにせよ、未だ心配性なところな抜けきっていないから、それは有り難い。
 ポケットの中に忍ばせたナイフをぎゅっと握りしめる。
 もう、これは必要ないのだ。
 少なくとも、誰かを傷つけるような役割を担うことはもう無い。
 駅のホームで電車を待っていると、反対側のホームに電車が滑り込んできた。出掛けるにも帰宅するにも中途半端な時間のせいか、乗り降りする客は少ない。その中に、謝らねばならない人物の姿を見つけて、千暁は携帯電話を取り出した。
『何やってんだよ、ケイタイ繋がんないし!』
 開口一番、怒鳴られた。
「ごめん、ちょっと、いろいろあって」
『いろいろって何』
 声には常にない険が含まれていて、さすがに冷や汗が流れる。
 踏切の警報音が鳴り始めた。そろそろ、千暁が乗る電車が到着する時間が迫っていた。
「今度話すよ」
『今、話せ』
 向かい側のホームで立ち止まっている背中を見るまでもなく、心の底から怒っているのが良く分かる。
 なんと説明しようか惑っていると、先に痺れを切らしたらしい綾人が、彼らしからぬ苛ついた調子で言葉を重ねた。
『あのなあ、また中学ん時みたいに、ぶっ倒れてたりとかしてないかって、すっごい心配したんだぞ?』
「悪い」
『悪いじゃねーよ。さっさと説明しろよ』
「話を聞きに行ってたんだ、その、父の事というか……」
『約束すっぽかして? それ、連絡も入れられないような状況?』
 いつものなら矛先を納めてくれるだろう言葉を織り交ぜても、余程頭に来ているのか、綾人の舌峰は鋭いままだった。
 なんと話すべきなのだろう?
 紗夜が千暁のことを、宇野家のことを綾人に話しているとは思えなかった。もしかすると、鳴海家のことすら話していないのかも知れない。
 折良くというべきか、電車がホームに入って来た。
 ひとつ息をついて。
 千暁は手っ取り早く、卑怯くさい手を選んだ。
「紗夜……さんに、聞いて。さっきまで、彼女と話をしてたんだ」
『え?』
「今日は、ほんと悪かった」
『千暁、お前、今どこにいるんだ?』
 ようやく、綾人が振り向いた。
 怒りと驚きが半々のような複雑な顔をしていて、思わず笑いながら、千暁は電車の中から手を振った。
 今度、埋め合わせに映画でもおごろう。
 その前にいろいろ問いつめられるだろうが、言い訳はゆっくり考えれば良い。
 もう宇野だの鳴海だのの件で、頭を悩ます必要はないのだから。
 そう、全ては愚かとしか言いようのない、空回りだったのだと思い知った今、何もすべき事はない。
 納得など出来はしない。でも、これまで鳴海家の当主が、何度となく理解されないことにもどかしい思いを繰り返してきたのだろうことを知って、これ以上何かしようと考えるのは、子供が駄々をこねるのと同じ事だ。
 文句を直に言い損ねて悔しそうな綾人の姿が遠ざかってゆくのを見ながら、自身の間抜けた復讐の幕が下りたことを感じていた。

(了)


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