黄昏の章

青の領域

─1─

 夏休みが明けると同時に、実力テストが行なわれる。
 出題範囲は休み前に提示された課題からということで、提出が求められないのはそういう理由からだ。
 及第点に至らなかった場合、恐怖の補習が待っている。
 あと十日で学校祭が始まる日の帰りのHRで、個別の成績表が配られた。構内に漂う浮かれ気味の雰囲気に流されかけていた生徒たちの表情も、自ずと引き締まる。
 そろそろ誰もが受験勉強に本腰を入れ始めた時期ではあったが、千暁の順位はいつもと変わること無く、教室内の喧噪をぼんやりと眺めていた。
「宇野ー、俺、本気でやばいー」
 すぐ隣の席で、一年の時同じクラスになって以来、既に腐れ縁と化している浅沼康祐(あさぬまこうすけ)が机に突っ伏していた。
「本番まであと四ヶ月もあんだから、大丈夫だって」
 ぽんぽんと後頭部を軽く叩いてやると、前島は心底情け無さそうな面持ちで千暁を見上げた。さながらご飯を食べ損ねた犬のような風情に、思わず笑いを誘われる。
「宇野は推薦とんの?」
「地元の受ける気、無いから」
「そっか。うん、じゃあ、絶対地元の、受けんな。ライバルが増える」
 地元の公立大学以外は進学させないと、親から固く言い渡されている浅沼は、冗談でもない様子だ。
「そもそも受ける学部が違うだろ」
 千暁は苦笑いをもらした。
「とりあえず、今は、リレーの練習だあっ!」
 九月末に控えている、三学年を縦割りにした軍団対抗リレーは、体育祭のメインイベントだ。陸上部で短距離選手だったこともあって、浅沼はそのアンカーに選出されていた。
 妙に息巻いて教室を出てゆく浅沼を見送って、千暁は世界史用語集を閉じて席を立った。
「あ、宇野、ちょっと待った! 帰る前にさー、ちょっとこれ教えてくれぇ」
「どれー?」
 差し出された数学の問題集を覗き込んでいると、わらわらと数人が集まって来る。際限が無くなるので、その一問だけ懇切丁寧に説明をして、教室を後にした。
「さんきゅー、またなー」
 そんな声にひらひらと手を振り返して。
 こうして、当たり前のように、日常は戻って来ていた。
 賑やかなクラスメイトに囲まれている毎日は、千暁をとても安心させる。
 千暁の、というよりは彼の血脈に宿る体質は、すこし吸血鬼に似ているかも知れない。
 宇野の血に連なる者には、時々、常人には無い能力を持った者が生まれる。千暁もそうだ。鋭い感覚以外にも人より優れた反射神経を持っている。それらを隠す為に、幼い頃に祖父から武芸を一通り仕込まれた。お陰で、友人にケガをさせるようなことなどは無かったが、やたらと喧嘩に巻き込まれるというおまけが付いた。いっそその道を極めていたなら違ったのだろうが、外面は大人しい羊のくせに、牙と爪を隠している雰囲気が分かる人間には分かるらしかった。
 既に亡くなった千暁の伯父などは、反射神経は常人並みでも筋力が異常に高く、人を殺しかけたことすらあるという。概ね運動能力は皆高いのが共通しているとはいえ、宇野の血を引く者全てに、特異な力が表出するわけではない。にも関わらず、ほとんどの者が宇野独特の体質を受け継いでいた。
 それは第二次性徴を迎える頃に顕著に現れる。
 数日くらい前から、体調の変化、例えば幾ら食べても空腹感が満たされないとか気持ちが苛立つとかそいういった前兆が、後から思い返せばあるにはあるのだが、それは唐突に訪れた。
 強烈な飢餓感が。
 その日、千暁は綾人に付き添われて中学から帰って来た。脂汗を流しながら苦しむ様子に、多佳子は救急車を呼ぶところだったが当時は健在だった祖父の正行がそれをやんわりと止めた。
 端から見ている分には、正行はただ、冷めたくなっていた手足を揉み解し、強張った背中をマッサージしているだけで、その内、老齢を理由にそれを綾人に代わりにやらせていた。
 千暁の呼吸が穏やかになり、誰もがほっと安心して胸を撫で下ろしたのは、午後九時になろうかという頃だった。
 正行は、宇野家の遺伝病みたいなもので、篤史も子供の頃は何度かこういう状態になったことがあるが、大事に至ることはないと説明をした。事実、それは嘘ではない。
 ただ、本来なら、千暁の処置は篤史か多佳子がすべきことだった。
 速やかに、所謂、人の生気を与えてやれば、済むことだったのに。
 胃の腑を食い破りそうな衝動が常識の埒外にあると気付いて、それを抑え込もうとする千暁を、正行は周囲を欺き、上手く誘導して、癒したのである。
 日常生活の中で、ほんの僅かな他者との接触があれば充分な生気を得られること、成長期が終わる頃には、こんな苛烈な飢餓感に教われる心配はまずないことといったことを正行は改めて話した。
 もし、千暁が自分の感覚の鋭さに付いて正行に相談していなかったら、そんなことすら知らなかっただろう。そのくらい、篤史は家族に何も話していなかった。
 充分な生気を得て、翌朝にはすっかり復調していたものの、しばらくは怯えながらの毎日を送った。
 祖父の言葉通り、ほんの少し意識していれば、学校のような集団生活の場で、必要な生気を得るのに困ることは無い。運動部に所属していれば尚更で、綾人も気にしてか、千暁が怠そうにしていると、指先をこすったり揉んだりしてくれていたこともあって、ひと月もしないうちに、元の生活を取り戻していた。
 正行は亡くなったのもその頃だった。
 ようやく体質を受け入れ始めたばかりで、余裕など無かったとはいえ、宇野家のことについて何も聞けなかった事は、後々まで悔やむことになる。



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