黄昏の章

青の領域

─6─

「年寄りは話が長いって言うけど」
 座敷には、ふわりとオリエンタルな花の香りが漂っていた。つい先ほど紗夜が淹れた紅茶の香りだ。
「結局、昔話っていうのは長くなってしまうものなのよね」
 さっきまではかしこまって正座していたくせに、既に座布団の上で横座りになっている紗夜は、まるで友人の相対しているようなくだけた雰囲気になっていた。言葉遣いも多少ぞんざいになっているのに、それでもお嬢様然とした感じが全く変わらないのは、ある意味大したものだと、千暁はどうでもいい事に感心しまった。
 新たにクッキーの盛られた皿も座卓に並べられたが、とりあえず千暁は今更ながら羊羹に手を付けた。紅茶ともあながち悪い組み合わせではない。ただ、紗夜の方が、何やら不本意そうな顔をしていた。
「で、旅人と交わした約束、ってのは?」
 やっぱり堀辺屋の羊羹だなと思いつつ、特に確認する事でもなかったから、千暁は話の先を促した。

◇ ◆ ◇

「商人の妻となった娘は、旅人の孫でもあった、なんて事はさすがになかったけれど、そう、旅人に一番近しかった娘は、血を分け与えた者たちの行く末を見守る事を頼まれていたの。
 旅人の正体は、もちろん神様なんかじゃなかった。
 新しい故郷を求めて旅をしていた移民者というのが、多分、一番近い。でも、その願いを叶える前に彼らは次々と亡くなってしまったから、最後のひとりは、どうにかして自分の血を残したかった。
 ああ、だったら子供を作れば良かったのになんて言わないでね。それは多分不可能な事だったから。
 旅人は、世話になったお礼として力を授けた、ってことになっているけど、血を飲ませる事で、寄生させたの、自分の一部を村人たちに。
 どうして、あなたの父親が亡くならなければならなかったか、分かってきたかしら。
 それを、知られたくないのよ。
 大したことじゃないと思うかも知れないけれど、それは、旅人との約束なの。
 あの貧しく虐げられるばかりの日々の中、村人はいつも力を欲していたことを、旅人は知っていた。力を与える代わりに、代償を求めたからって、責められる事じゃないわよね。
 やがて、戦の波に呑まれて村人たちが散り散りになることも、与えた力が助けになって生き延びる事も予見していて……寄生させた自分の一部が子々孫々に受け継がれ、広く拡散していくことを、自分たちがこの世界に根付いた証にしたかった。
『己が内なる螺旋を秘せよ』ってね、遺伝子の暗喩でもあるんだろうけど、ねじり合わされたもう一つの存在である旅人の事でもあるのよ。
 村人たちを騙した事を、旅人は知られたくなかったのね。
 唯一、最初から最後まで親身になってくれていた娘にだけは真実を打ち明けて、共犯者になってもらった」
 淡々と話しているようで、その胸の内に複雑な葛藤があるのは、見える訳でも聞こえる訳でもない、強いて言うなら肌で感じる空気から伝わって来る。口を挟むタイミングがあっても、千暁は黙って次の言葉を待った。
「……どうしてその力を得たかだとか、旅人のことだとか、村人たちは外の人間には決して話そうとしなかった。
 旅人から力を与えられるとき、約束したからよ。
 でも、世代が移り始め、時の権力者に仕える者が増えてゆくに従って、口を滑らす者が現れるようになった。
 神様に力を授けてもらったのだと聞けば、その神に会いたがるのも道理。村の粗末な祠に幾人も訪れるようになり、やがてご利益が無いと悟って、それが絶えた頃、口を滑らせた者は命を落とした。
 そうして、旅人との約束を破ると死が訪れるのだと、皆、口を固く閉ざすようになったわ。それでも、知りたがる者は後を断たないのだから、どうしたって秘密を漏らす者はいる。
 それを監視し断罪するのが、娘の血筋に課されたことなのよ」

◇ ◆ ◇

 それは、ドライアイスに撫でられたような感覚だった。
 胸の中で得体の知れない感情が荒れ狂っているようで、静かに冷たく凪いでもいた。
「その程度の事で、父は死ななければならなかったのか」
 ぎり、っと奥歯が鳴った。
 どんな大層な理由かと思っていれば、たかだか、そんな理由。
 先祖との約束。
 それが、一体なんだと言うのか。
「そんな理由で、お前たちは同族を殺してきた……?」
 呟きにも聞こえるその声に、紗夜はまるで聞き分けのない子供に向けるような顔を向け、
「そうよ」
 と、こともなげに答える。
 千暁は、きりきりと神経を引き千切りそうな感情を、どうにか抑えていた。ポケットに忍ばせたナイフに手を伸ばさないのは、ぎりぎりの理性だ。
「そんな約束を破った事くらいで……」
 千暁は理解出来ないと首を振った。
 対する紗夜の方は、その歳に似合わない諦念を底に沈めた目で、千暁を見詰めている。
「やっぱり、あなたも宇野家の人間なのね。いつだってそう。約束を破っておきながら、そうやって怒りを向けるのよ」
 声は、互いに静かだった。
 薄い皮膚の下で、荒れ狂っているものを微塵も感じさせないくらいに。
「私の曾祖母は、禁忌を犯した鳴海家の人間に殺されたわ。いわゆる千里眼を持っていた当主を殺されては、追って処分する事が出来なくて、三十年余り手をこまねいていた間に、最悪な利用のされ方をした。その始末だって、やっと付いたばかりだわ」
 現在進行形で、問題を抱えているのだと言われても、千暁には何も分からない。だから、愚かしいほど不用意な事を口にしたとしても、仕方が無かったのかも知れない。
「鳴海の事情なんか知った事じゃない。父は、ただ自分の血を研究対象にしようとしていただけじゃないか。それがいったい、」
「まだそんなこと言っているの? あなたの父親は、献体として買われたことに、まだ気付いていなかっただなんて、なんてお目出度い……」
 蔑みに満ちた言葉に、千暁の身体は強張った。
 某私立大学の準教授だった篤史が、外資系の大手製薬会社の研究室に迎え入れられることになっていたことに、千暁は大した関心を持っていなかったのだ。ただ、周囲には随分と華やかな変化に見えるそれが、鳴海を刺激したのだという意識しかなかったと言っていい。
 自分の浅慮に、羞恥と怒りが綯い交ぜになって、千暁は言うべき言葉を失った。
「いい? いつだって私たちは、いつの時代も利用されようとしてきたのよ。あの忌々しい連中だって いっその事始末してしまえたらって、何度思った事か……!」
 穏やかで、のほほんとしたお嬢さんの風情が、炎のような苛烈な怒りと哀しみを身から放ち、鬼女のような様相になっていた。けれど、その姿は薔薇色のヴェールを幾重にも纏って見え、場違いなことに、千暁は一瞬見惚れるほどだった。
「……やっぱり、宇野家の者に話したところで時間の無駄なのよ。これまで宇野の名が出ないように護ってきて、最後の最後まで分かってもらえない事の虚しさなんか、あなたには分からない!」
 言葉を叩き付けて、紗夜は立ち上がった。
「帰って! 早く出て行って! 二度と顔を見せないで!」


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