黄昏の章

青の領域

─3─

 およそひと月ぶりに見た夕月は、ただでさえ細かった身体が、更に尖ってしまったように見えた。羽織ったデニムシャツの上からも、肩の細さが分かるくらいで、痛々しいほどだった。
 既に時計の針は午前一時を指している。
 いつもなら、どんなに気に掛かることがあっても、集中さえしてしまえば余所事を考えずに済むのに、その日ばかりはテキストを繰る手が滞りがちだった。文字を目で追っても、頭の中に入って来ない。
 諦めたように千暁が手を離したシャープペンが、ノートの上に転がった。
 ──ただの偶然なんだろう、な。
 そうは思うものの、駅という人が集まる場所に綾人と夕月がいた、というだけのことが、酷く気に掛かる。
 あれから、何もしていない。深い淵を前に竦んでしまっているかのように、動く事が出来ない。
 夏休みが終わると同時に日常が戻り、繰り返される。
 友人たちと他愛も無い話に興じ、あっという間に来るだろう受験シーズンに向けて余念無く備える。それは、今の時期の過ごし方としては、とても、正しい。
 とりあえず、インフルエンザに掛かるとか、急性虫垂炎で入院するとか、事故で病院に運ばれるとか、考えたくないが身内に不幸があるとか、そういう不測の事態でも無い限りは、志望大学に合格して上京するだろう。
 だから、早く決着を、と焦っていた。
 結果、あの暴挙だ。何も得るモノもなく、あの時、何を望んでいたのか、今ではもう自分でも分からなかった。
 ──一体どんな結末を、願っていたのだろう?
 いつもよりは早いが、集中出来ない以上はさっさと勉強は切り上げる事にして、ベッドに潜り込んだ。
 何度も寝返りを打ち、何処かへ雲隠れしていた眠りが訪れた時には、空はもう白み始めていた。

 偶然が二度重なれば、必然──かも知れない。
 いつの間にか夕方には肌寒いくらいの風が吹くようになり、夏の名残も消えかけた頃、千暁は再び夕月を見かけた。
 場所は、先日と同じ駅の構内。学校帰りに本屋に寄った時のことだった。その背中を千暁が認識するのと、つと足を止めた夕月が振り返るのとどちらが早かっただろうか。
 目が合った時、ほんの一瞬の事ではあったが、再会の気まずさではない、何か失敗を見咎められたかのような顔が浮かび、すぐに、口の端だけを上げた微笑に取って代わられた。そして、雑踏の中に紛れて行ってしまった。
 追いかけようと思わなかった訳ではない。ただ、追いかけるにはその足を停める思いが重すぎた。
 あれから、何もしようとせず、放棄しきっていた千暁には、声を掛ける事すらどうしていいか分からなかったのだ。あの家を訪れようにも、また拒絶されるかも知れず、言葉を交わすなら、この機会を逃すべきでないことは分かっていた。でも、いざ正面に立って、なんと言えばいいのか、ただ立ち竦む以外のことが想像出来なかった。
 余りの情けなさに、溜め息は知らず深いものになった。
 このままでは、果てしもなく落ち込んでしまいそうで、甘いものでも勝手帰ろうと駅裏に回ると、今度は綾人の姿があった。手には、千暁が行くつもりだった堀辺屋の包みがある。名物商品の葛きりはもう売り切れてしまっているだろうが、その他にも羊羹なども不動の人気がある。
 ──なんだろう?
 もしかすると、千暁が知らなかっただけで、夕月は夕方に決まって駅にまで出ているのかも知れないし、綾人もまめに家に顔を見せているのかも知れない。二人が一緒にいるところを見た訳でもあるまいし、関連づける要因など、無いと言ってよかった。
 それでも。
 千暁はすっと壁際に身を寄せて綾人から隠れると、その後をそっと追ったのだった。

 そこから、少し大きめのターミナル駅に出て、別の私鉄に乗り換えた。ちょうど帰りの通勤ラッシュにあたっていたから、同じ車両に乗っていても綾人に気付かれる心配は無さそうだったが、逆に降りる時を見逃してしまわないように千暁は神経を尖らせていた。
 学校帰りの女子高生たちの姦しい声が、いつの間に止んでいた。
 だんだんと、暑くもないのに汗が滲んで来る。
 ──どうして。
 千暁がその路線を辿るのは二度目。あの日以来の事だが、忘れようも無い。既に日は落ちていて、窓から見える風景はまるで違い、闇の中を進んでいるかのようではあったが。
 いつから雲が出始めていたのか、やがて、電車の窓ガラスが水滴に濡れ始めた。
 電車の走行音で、雨音はまるで聞こえないのに、酷く静まり返っているような気がした。
 暗闇の中を電車は進んでゆく。
 ひとつ駅を減る毎に乗客は減り、車両を移ろうかどうか迷ったが、ヘタに動く方が目立ちそうで、千暁は空いた座席に腰を降ろした。
 綾人が降りたのは、ターミナル駅から八つ目の駅だった。
 いつかの日に、千暁も降りた駅であるだろうことを、千暁はもう確信していた。
 もう二つ先の急行が止まる駅まで行き、引き返すつもりでいたから、横目でその背を見送る。
 電車が動き始め、踏切を過ぎるとき、改札から出てきた綾人の姿が見えた。外灯にどうにか見えるその表情は、酷く驚いているようなのが気になって、その視線の先に目をやった。
 綾人に向かって、傘を差し出す少女を見て、胸には思いの外強い衝撃はあったにしろ、驚きはしなかった。
 とうに、気配は感じていた。
 紗夜がそこにいることを。
 電車に揺られながら、千暁は夕月に会いたいと思った。


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