黄昏の章

青の領域

─5─

 今日日の住宅事情を鑑みれば、随分と広く贅沢な家ではあったけれど、あの重々しい門から想像されるような、年月に培われた風格や威厳というものは余りなく、多少裕福な農家といった風情だった。もっとも、農家の多いこの地域にあって、鳴海家が農業を営んだことは無いのだが。
「祖父は寄り合い、住み込みの世話人も、久しぶりにお友達と会うとかで出掛けてしまって、退屈していたのよ」
 そう言って、紗夜は手ずから入れた緑茶を薦めた。
 通されたのは、縁側からの陽射しでちょうど良い室温になっている座敷で、床の間には、先ほどまで紗夜の腕の中にあった花々が生けられていた。
 正面の紗夜は、そうしていると優しげで、か弱げにすら見えた。白く丸い頬を縁取るのは、緩やかなクセのある髪で、品のいいお嬢さんという言葉がしっくりとくる。
 緑茶に添えられた羊羹は、やはり堀辺屋のものだろうかなどと思考がずれるのは、まだ覚悟が固まりきっていないのだろうかと、不意に不安になった。
「何から話しましょうか」
 紗夜に促されて、ジーンズのポケットに入れてあるナイフを意識する。
 あの日と同じ事を繰り返さないように、自戒の為に持ってきていた。
「禁忌の、理由を」
「あら、そっちからなの」
 意外そうに紗夜が何度か瞬きを繰り返した。本気で驚いたらしい。
「それは後でいいよ」
 苦笑じみたものが口の端に浮かび、顔が強張るほどの緊張していた事に千暁はようやく気付いた。ゆっくりと、肩の力が抜けてゆく。
「大した理由じゃないから、先に話しておくわ。綾人の父方の祖父と、私の祖父が兄弟なのよ。又従兄弟ということね。念の為に言っておくと、祖父は入り婿だから、綾人自身は鳴海家とは何の関わりもないわ。だからこそ鳴海家の財産管理を任せる為に、ここで勉強してもらっているの」
「どうしてわざわざ……」
「代々、鳴海家ではそうしているからよ。血縁だけで財布を握っていると碌なことにならないもの」
 こんな地方の片田舎で細々と暮らしてはいるが、名の知れた大企業の株主でもあり、資産は相当なものだ。生憎それを千暁は知らなかったから、身内で遺産争いでもあって懲りる事があったのだろうと勝手に想像した。
「余計な詮索をされるのも困るから、一応、私の家庭教師と言う名目も付けてあるけれど、そんな余計なことはさせてないわ。受験生だしね。しきたりでは、十分な知識を得たらこの家に従属することになっているけど、そこまで縛り付けるつもりはないわ」
 そこで、くすっと微笑むと、
「でも、せっかく籠の鳥になってくれる覚悟してくれてるみたいだから、それは内緒よ」
 と、勝手に千暁を共犯者に引き摺り込んだ。
 一体いつ本題に入るのだと言わんばかりの、千暁の剣呑な視線を受け流して、二切れ目の羊羹を口にし、ゆっくりと緑茶で喉を潤してから、紗夜は再び口を開いた。
「これは、おとぎ話だと思ってくれていいわ」

◇ ◆ ◇

「私たちの先祖は、山間部で細々と田畑を耕し、命を繋いでいたの。いわゆる権力者たちが争い事を始めるたびに、奪われ踏みにじられながらね。
 ある日、行き倒れた旅人を六人助けた。とても貧しい村だったから、一度に六人の世話をするのはとても大変だったのに、村人たちはみんなで彼らの面倒をみた。
 貴重な薬草を与え、滋養のあるものを食べさせて、一度は元気になった彼らは、しばらく恩返しとばかりに村人たちの仕事を手伝っていたけれど、やがて病に伏せるようになり、ひとり、またひとりと亡くなっていった。最後のひとりになった旅人は病の床で村人に言ったの。『ここまでしてくれた親切に報いたい。どうか力をもらってくれませんか』と。その為に、自分の血を飲んで欲しいと言われて、村人たちはさすがに気味悪がって、旅人に避けるようになった。献身的に世話をしていた娘は、旅人に懇願されて、ほんのひとしずく、その血を舐めた。
 それから三日間、高熱にうなされて、それみたことかと村人たちには呆れられたけれど、元気になった娘は、変わり易い山の天気を確実に読み、滅多に見つからない薬草を容易く見付けたりできるようになったの。
 それを知った若者のひとりが旅人の血を舐めると、やはり三日ほど高熱を出した後、とても早く走れるようになって、これまで麓の里まで降りるのに半日掛かっていたのに、半日で二往復出来るようになった。
 別の若者は、山で遭った熊を素手で倒すことが出来るようになり、別の若者は、遠くの声を聞く事が出来るようになった。
 歳を重ねた者は、やはり気味悪がったけれど、村の若者たちは、つぎつぎと旅人から不思議な力を授けてもらうようになって、病の床にあった旅人は亡くなるまでの短い間、とても大切にされたわ。
 誰ともなく、あの旅人たちは、神様だったに違いないと言うようになって、小さな祠を建てて、欠かす事無く供物が捧げられるようになったの。それだけ、村が豊かになっていったという事ね。
 時折やってくる旅人を丁重にもてなし、どんな人でも温かく迎え入れたから、少しずつ村も大きくなっていった。どうしてよそ者を大切にしたかは、分かるわよね。やはり先祖たちも人の生気を必要としたのよ。とまれ、力も、生まれて来る子供たちに受け継がれて、このまま穏やかな暮らしが続くかと思われた。
 どこから噂を聞きつけたのか、ある日、その地方のいわゆる権力者から使者がきた。たくさんの報酬を払うから、その不可思議な力をもって、自分に仕えろと。豊かな町の暮らしに憧れを持ち始めていた若者たちの何人かは、その使者について村を離れて行き、戦で手柄を立てた。
 噂は広がり、近隣の権力者たちが村人たちの力を欲し、いつしか村は寂れていった。けれど、村人たちは互いに敵同士になって戦場で相見えることになってしまった。
 そうなってから、やっと、自分たちを守るための力を戦で使う事の愚かさに気付いたのよ。
 でも、権力者たちが、今更村人を手放すわけも無く、逃げ出しても追っ手が掛かり、その力を使う事を拒絶しても、誰かの手に渡すまいと、牢に閉じ込めた。やがて酷い飢餓感に襲われて、狂ったように暴れ始めた彼らは、ほとんどが殺されたわ。でも、ほんの僅かな数だけど、それを乗り越えて彼らに従う者もいたし……力を手に入れようとした者に身籠らされた者もいた。
 そして、村自体も、もう力を持たぬ人たちしか残っていなかったのに、皆殺しにされ、焼き払われてしまった。
 生き延びたのは、僅か数人。彼らに庇護の手を差し伸べたのは、戦をする連中ではなくて、商人だった。彼らも結局は村人の力が欲しかったのだけどね。
 でも、生き延びる為に、生き残った数人はその商人の世話になり、ひとりは商人の妻になった。彼女は旅人から最初に力を貰った娘の孫にあたるわ。彼女は、簡単に自分の血筋を絶やす訳にはいかなかったのよ。
 彼女は、祖母が旅人と交わした約束を護らねばならなかったから」

◇ ◆ ◇

 ふうっと、いったん息を付くと、紗夜はお茶を入れ直して来ると言って座を立った。
 ──言われるまでもなく、おとぎ話じゃないか。
 手つかずだったからか、下げられなかった茶碗の中身を一息に飲み干した。
 とうに冷めていたが、ほど良い苦みと、ほのかな甘みが口に広がった。



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