黄昏の章

幕間

─ 1 ─

 夏が終わろうとしていた。
 もとより、夕月は暑さには弱かった。
 それは、解者となった今でも変わる事無く、ただ暑いというだけの事が、身体を酷く消耗させていた。
 それでも、この夏はまだマシだったのだ。
 無理に食事をしても、結局は後で消化器系を荒らすだけのことになってしまう体質の夕月にとって、千暁と一緒に食べるおやつは楽しみですらあったのだから。
 手土産だと菓子や果物などを貰うばかりでなく、時にはトウモロコシや枝豆を茹でておいたり、煮出した麦茶を切らさないようにしたり、かつてなく、楽しい夏でもあった。
 ──だから、ちゃんと終わらさなくては。
 自分から千暁に関わった事を、夕月はとうに後悔していた。
 いっそ、退屈しのぎの気紛れだとかであったなら、よかった。
 でも、千暁の訪問を許していたのは、心の弱さ故だ。その首に手を掛けられた時、まるで抵抗する気が起きなかったのも。
 ようやく得た居場所を、夕月は失くしたばかりで、何でもいいから縋るものが欲しかったのだと気が付かなければ、もうしばらくは楽しく夏を過ごすことが出来たのだろう。
 縁側の、いつも千暁が居た場所は、それまでは夕月の場所でもあった。よしずの影で、竹林を渡って来る風で涼を取りながら、い草の座布団の上で、うとうとするのも良し、文庫本を開くも良し。時間が有って無きが如しの解者の身としては、これ以上の場所はなかった。
 千暁に怪我をさせてしまったのは、本当に手違いだった。解者としての力を使えば、そんなことにはならなかっただろうに、大して自信もない体術で対抗したばかりに、手加減などまるで出来なかったし、飛石に足をとられなければ、頭を怪我することもなかったはずなのだ。
──そういえば、千暁にも『人狩り』なんて言われたなあ……。
 抱えた膝の上に顎を載せて、夕月は苦笑を漏らした。
 確かに、解者は人を狩る。
 世界の流れを止めるような存在であれば、人だろうとモノだろうと。それらを解者は『縺者』と呼び、自分たちは、縺れ≠解く¢カ在なのだと、誰に言い訳しているのだかはともかく、そういう答えを用意していた。
 正直なところ、獲物を狩る獣とさしたる違いはないと思っていない訳ではないが。
 実際、夕月は縺者を喰らう。どんな形であれ、身の中に取り込めば良いのだが、わざわざ生々しい方法を取っていた。お目にかかったことは無いが、他の解者はもっとスマートな方法をとるらしいが、夕月の知ったことではない。
 紗夜から、千暁が入院したと聞いて見舞いに行ったのは、罪悪感を拭う為だ。結果、あの頑さが気になって仕方なくなってしまった。その後、千暁が夕月の自宅へ辿り着いたのは、徒歩圏内に住んでいたからという理由では無くて、無意識に呼んでしまっていたのではないかと夕月は思っている。時空の特異点にあり、簡単に閉じられる場所だというのに、簡単に入り込んで来れたのだから。
 だから、殊更あの日は、強く場所を閉じた。
 あれから、程なく新学期が始まっただろうから、すんなりと日常に戻れているだろうと夕月は思う。夏休みという、日常から放り出された時期に、偶々千暁は逃げ場を求めていただけのことなのだから、と。
 それでも、やがて千暁は知ることになるのだ。
 穏やかな関係が築かれたかに見えていても、この正体を知れば、千暁は夕月を酷く詰るだろう。
 だから、早く関係を絶たねばならなかった。
 いずれは本人のいないところで罵られ憎まれるのだとしても、それを正面から受け止めるのは避けたかった。僅かな間でも、心穏やかで楽しかった日々の思い出が壊すことのないように。
 空は群青に、西の地平から橙が滲んで、明日の晴天を予感させる夕暮れ時で、そろそろ開け放した窓も閉めようかと、夕月は立ち上がった。とたんくらりと身体が傾ぐ。
 解者の住むところは、ここではない。多世界の狭間にある、気泡のような儚くて小さな空間の住人だ。そこを虚界と呼び、時空連続体としての世界を真界と呼んで区別していた。多世界を渡る『波』を潜り、真界の住人としての身体を再構築することで、解者は真界で存在していられる。とはいえ、所詮紛い物には違いない。だから解者は二人一組で行動し、身体に溜まる澱を互いに循環させ濾過する事で、体調を整えるのだが、独り者の夕月は、ただひたすらその身に澱を溜め続けることになる。
 それ故に、これまで真界に長居したことはなかったのだが、『波』をひとつ、やり過ごしてしまったのが、良くなかった。さほど頻繁でもないが、困るほど間遠でもなく『波』はやって来るものなのに、それが来ないのだ。
 いや、もし『波』が来たとしても、まだ帰るわけにはいかなかった。
 紗夜が、その幕を下ろすのを見届けるまでは。
 このままだと、どうなるのだろう?
 そういえば、聞いた事がなかったな、などと両手を膝について、ふらつく身体を支えながらそんな事を思った。
(了)


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