黄昏の章

あるはずのない場所

─ 8 ─

 手の震えが納まるまで、千暁はベッドに座って、じっと祈りを捧げるように俯いていた。
   やがて、いつものように握りしめていたものを元の場所に仕舞うと、何事も無かったかのようにカーテンを開けた。
 こぼれ落ちる光は眩しく、また、うんざりするような暑さの一日を思わせる。それでも網戸から入ってくる空気は、ほんの僅か、涼やかだ。
 炎暑はまだ続きそうだが、夏休みの終わりが見え始めている。
 かれこれ、十日ほどあの家を訪れていなかった。
 あれほど毎日のように通っていた日々が、幻のように遠い。
 残念ながら、あの家も夕月も、幻だったのだと思い込めるほど、千暁の頭はお目出度く出来てはいなかったので、『逃げた』という事実が、じわりと胸の奥で重みを増していた。

 いくら具にバリエーションがあろうと、そろそろ飽きが来た冷やそうめんの昼食を済ませた後、「出掛けてきます」とだけ多佳子に告げて、千暁は出掛けた。
 特にあてがあるでもなく、本屋とCDショップでも冷やかそうかというくらいのつもりだから、携帯電話と財布をカーゴパンツのポケットに突っ込んだだけの、身軽な格好だ。
 近隣住民には『駅前の本屋』と呼ばれている本屋は、正確には橋本書房という。もとは、そのあたりの子供の溜まり場になっているような、小さな町の本屋だった。今では駅ビルのワンフロアを占めており、品揃えも郊外の大型書店と遜色ない。一通り見て回って、問題集と一緒に文庫本を二冊買った。ちなみにCDショップの方はチェーン店だ。試聴機に貼られた『故障中』の貼紙を見て素通りした。まだ夏の最中だというのに、既に前哨戦が始まっているバーゲンの傍らで、店頭に並び始めた秋物の服をざっと眺めて、帰路に付く。
 少し遠回りにはなるが、市を東西に貫く高速道路下に作られた散策路は、高校からの帰り道にもたまに使っている。所々に植物棚とその下に花崗岩で出来たベンチが設えられ、道の両脇を彩る季節の花も、冬をひと時を除けば途切れることがない。どちらかといえば、女性や高齢者の散歩道として好まれそうな環境だが、千暁も刺激された神経を宥めてくれる風情が気に入っていた。
 ただ、その道を殊更選ぶのは、それだけではなく、もう一度、あの道を辿ろうとしてはいたのだ。
 ──もう、感じ取れない。
 夕月の気配は、ある日を境に、完全に断たれてしまっていた。
 何度か、訪ねてみようと思うたびに、その気配の存在があるうちは大丈夫だと思い込んでいたのだろう。そのうちに、もう少し自分の気持ちが落ち着いたらと言い訳をしているうちに、ふっつりと。
 それは、言外の拒絶のようで、避けていたのは自分の方にも関わらず、千暁は気持ちが波立つのを抑えられない。あの場から逃げ出したのは自分の癖に、それが千暁を頑なにさせ、再びあの家を訪れる事を阻んでいた。
 そんな日を数日繰り返して。
 熱い空気に紛れて肌を掠めていったのは、ほんの僅かの日々の間にすっかり馴染んでしまったその気配に間違いなかった。
 走り出したいような気持ちを鎮め、殊更ゆっくりと歩を進めた。
「……こんなところで、何してるんですか」
 四角く切られただけの、石のベンチの上に、農家のおじさんが被っていそうなつば広の麦わら帽子を被った夕月が座っていた。
「散歩の途中だよ」
 ──何をぬけぬけと。
 怒りを覚えたのは、どす黒い感情からではなく、その目の下にある隈のせいだろう。
 凌霄花の咲き乱れる植物棚の下だから、直射日光こそ避けられても、暑いものは暑い。体力を毟り取られるような、アスファルトの上よりはマシというだけだ。
「……夕方ならいざ知らず、こんな暑い最中に散歩に出られるような体力が、あなたにあるわけ──」
 ないでしょう、だけをどうにか飲み込んで、千暁は顔を逸らした。つい一言文句を言いそうになるのは、既に癖になっていたようだ。
 正面にいるのは、いい加減、それ以外のバリエーションは持っていないのかと問いたい気もする、Tシャツにジーンズという格好に、今日はオプションで古くさい麦わら帽子付きの小娘だ。けれど、それは仮の姿に過ぎないことを、あの日、千暁は嫌というほど思い知った。
 ──コレは、人の形をした、人ならざるモノ。
 千暁の内心を察してか、夕月の顔に微苦笑が浮かんだ。
「あのねえ、いくら私でも、全く食べない訳じゃないんだよ? 散歩がてら買い物に出なきゃ死んじゃうよ」
 よいしょ、と若者らしからぬ掛け声と共に立ち上がり、夕月は随分と重そうなトートバッグを勢いよく持ち上げて肩に引っ掛けた。
「じゃあね」
 ばいばい、と小さく手を振って行こうとするその腕を、千暁は咄嗟に掴んでいた。分かってはいたが、親指と人差し指がくっつくほどの細さに、一度は込めた手の力が緩んだ。
「じゃあね、じゃないでしょう」
 これまで完璧に気配を断っていたくせに、唐突に姿を表しておいて、何も言わずに去られるのが、我慢ならなかった。
「……別にいいんだよ。顔、見たかっただけなんだから」
 夕月の表情は穏やかで、口許には薄く笑みさえ浮かべている。
 けれど、その腕を掴んだ手に伝わってくるのは、その表情とは遠くかけ離れていた。
 冷たく暗い水の底へ沈んでゆくような、怯え、哀しみ、微かな……怒り。
 いっそ、心の中まで読み取れてしまえば良いのにと、人よりは鋭く、でも中途半端なこの感覚がもどかしいと、千暁は初めて思った。
「もう、関わるな。私にも、鳴海にも」
 低い声でそう言うと、夕月は千暁の手を払った。
「何を勝手なこと言って」
「お前が、何をしてもしなくても、幕は降りるんだ」
 千暁の抗議は強い口調で言葉を引ったくられた。それは、解者≠フ声音になっていた。
 纏う空気もがらりと変わっている。
 いっそ、田舎娘そのものの格好が滑稽なほど、冷たく言い放たれたことで、頭に上りかけた血が引いた。
「幕が降りるって何だよ。俺だって、こんなことにはいい加減幕を降ろしたいんだ」
「どうやって幕を降ろす? 紗夜を殺すの?」
「あれは!」
 あまりに短絡過ぎた行動を恥じたところで今更だし、言い訳をするつもりもないが、それが唯一の方法だと未だ信じているとは思われたくはない。砂を噛むような思いで、
「あれは、俺が……間違ってた」
 その一言を口にした。
「それで? 今度は何をするの、何も知らない宇野の当主?」
 が、返って来た言葉は、想像以上に容赦が無かった。
 自分の手で、宇野家の当主として、何をすべきなのかを知るには、あまりにも情報が無さ過ぎた。
 ──どうしたらいい?
 祖父はとうに亡くなっているし、父親は何も語らぬまま逝ってしまった。数少ない親類たちが知っている事は千暁と五十歩百歩だ。本来なら鳴海家に知識を請うのも吝かではなかった。その死に関わってさえいなければ、たとえ年下の少女にであっても。
「忘れてしまえば良いよ、鳴海の事も解者の事も」
 不意に、優しい声で夕月は言った。
「在るはずのないものなんだから」
 ばいばい。
 手を振って、夕月は千暁に背を向けた。
 再度、腕を掴もうとした手は、空を切った。

「先に関わって来たのはそっちじゃないか……っ」
 その呟きに応える者は、もういなかった。
(了)


inserted by FC2 system