黄昏の章

あるはずのない場所

─ 2 ─

 あの日──
 約一週間の入院生活から解放されて、久しぶりに登校した帰り道は、雨上がりのせいか、山梔子の甘い香りがきつく漂っていた。
 梅雨明けを間近にして、重く湿る空気がまとわりつく肌を、その気配がかすめていったのは、その道すがらでのことだ。
 そんな不用心な事をするような連中ではない。
 常に、影のように密やかに在る者たちだと、聞かされていた。
 傷も完全には癒えていない状態で、その気配を追うのは危険だと、頭の何処かでは警鐘が鳴っていたけれど、沸き上がる衝動に従った。
 もしそれが、何らかの意図であったとしたら、それはそれでひとつの契機だろうと。
 生まれ育った土地は、子供の頃から近所の遊び仲間たちと探検し尽くしたと思っていたが、住宅地を縫うように続く細い道は、やがて見知らぬ竹林に続いていた。
 さわさわと葉擦れの音が囁く中を抜けた先にあったのは、数十年の年を経た平屋の家屋だった。
 気配の主は、窓を開け放した縁側に面した部屋で眠っていた。
 身体に掛けるものもなく、畳の上に弛緩した身体が投げ出されていたのは、少し身体を休めようと思っただけなのか。
 やや大きめのTシャツの襟ぐりからすんなりと伸びる首は水鳥を思わせ、広がる黒髪に、無防備に晒された喉の白さが映えていた。
 それは、まさに契機だった。
 普段感じることもない畳の堅さを意識しながら、千暁はゆっくりと近付き、その傍らにかがみ込んだ。
 片手でも握りつぶせてしまいそうな首を両手で包むように触れ、指先に感じたのは、微かな脈動。
 自分の手が、やや震えていることに気付いてはいたけれど、そのまま力を込めた。
 指先がやわらかな皮膚に埋もれていく。
「……っ」
 息苦しさに目を覚ましたのか、微かなうめき声とともに、目蓋が開いた。
 更に力を込めたのは、すぐさま強い抵抗があるかと思ったからだったのだが、僅かに身じろぎしただけで、その手から逃れようとはまるでしなかった。
 おかしなことに、驚いた様子さえ無く。
 ──なぜ、微笑う?
 苦しくないわけがない。
 顔を歪め、口許は明らかに空気を求めているのに。
 それは、掌の中の小鳥を殺そうとしているような感覚だった。
 ──こんな者の存在は、許せない。
 心臓の鼓動が耳に痛いほどうるさいのは、その思いが強いからだと、まるで言い訳のように考えた。
  シャツの裾を引っ張られている感覚に、現実感が甦って。
 すがるようにそれを握る手は、関節が真っ白になっていた。それが、ひと時の苦しみに耐える為なのだと確信したのは、その瞳に沈む、昏い光を見てしまったからかも知れない。もしくは待ち焦がれた瞬間の訪れに、安堵しているような、歪な闇を。
 その手がことりと畳に落ちた時、全身に走った震えは、歓喜に近い安堵のはずだった。
 ようやく、ひとつの軛から解放されたのだと──

◇ ◆ ◇

 夢見の悪さで、寝起きの気分は酷く悪かった。
 どうせ見るなら、空を飛ぶとか見た事も無い世界を旅するとか、いっそ恐竜に襲われるとかのほうが、現実をリピートするよりはるかにマシだと千暁は思う。指先に残る生々しい感覚に、朝から既に30度を越えようかという気温の中で、寒気を感じた。
 夢の残滓を振り払うように、顔を洗って階下に降りると、既に朝食の匂いが漂っていた。
「おはよう」
 にこやかに、千暁の母である多佳子は笑う。
「おはよーございます」
 朝の挨拶が丁寧なのは、おっとりとした多佳子(たかこ)に比べて、父親の篤史(あつし)が行儀にうるさい質だった名残だ。もっとも、父親の目の届く範囲に限られていたから、そういった堅苦しさは朝に限られているのだが。
 食卓には、炊きたてのご飯、みそ汁、出し巻き卵にほうれん草のおひたしが並んでいた。
 和食なのは、篤史の嗜好だが、いなくなった今もそれは変わる事が無い。
 きちんと両手を合わせて「いただきます」と言ってから、食事に手をつける習慣も、今更変わり様も無い。
「ねえ、千暁、今日も出かけるの?」
「図書館の方がはかどるから」
「そんなに勉強、大変?」
 決して責めがましい口調ではない。穏やかな笑みに気遣いを添えていた。
「受験生が今、気を抜いてる訳にはいかないよ」
 千暁も孝行息子よろしく、模範的な言葉を返す。
 夏休みに入って、そんな会話が日常化していた。
 本当なら、午前中からさっさと出かけてしまいたいところなのだが、さすがに昼食代がばかにならないから、出掛けるのは午後からだ。それに、夕方には帰宅するとはいえ、丸一日逃げ出してしまうのは、さすがに罪悪感を感じる。
 篤史が亡くなってしばらくの間、家事すら手に着かないほど自失していた多佳子に元気が出て来たのは割と最近の事だ。  千暁が入院するほどの怪我をしたこともきっかけになったのだろうが、一時期は、帰宅が少しでも遅くなったりしただけで、半狂乱になって近所を探し回ったり、休日に出かけると一時間毎に携帯電話に連絡を入るような有様だった。最近は治まっているとはいえ、まだ、危うさは抜けきっていない。
 そんな状態の多佳子と、四六時中顔を突き合わせているのは、ただひたすらに苦痛だ。
 受験生という身分を盾に、図書館か高校の学習室で勉強をする為だと言えば、さすがに反対はされなかった。去年までは、自室にエアコンが欲しいとさんざんごねていたが、今年はそれを言い出す気にもならない。
 とはいえ。
 夏休みの市立図書館などというものは、文化施設と言うよりも、近隣住民の為の避暑地だ。
 学習室は朝から並ばなければ席を確保出来ない。閲覧室は、近所の子供たちの遊戯室になってしまう日の方が多いくらいだ。やんちゃ坊主も一人二人ならともかく、それが徒党を組んでいては、図書館員もなす術が無いらしい。
 高校の学習室に二、三日通っては見たものの、いつの間にか誰彼なく質問される羽目になって、自分の勉強どころではなくなってしまった。だいたい、休みだというのに制服を着なくてはならないのが鬱陶しい。
 だから、夕月の家に通っているのだ──というのが、言い訳なのは、とうに分かっていた。
 それを認める気にはなれなかったけれども。

 携帯電話に着信があったのは、朝食の後、自室の掃除をしていた時だった。
 仲のいい友人のほとんどは、予備校の夏期講習のはずだしと怪訝に思って携帯電話のフリップを開くと、表示されていたのは幼なじみの名前だった。
『久しぶり。今日さー、空いてる?』
 ほんのひと月かそこらぶりなだけなのに、中学までは、当たり前のように毎日つるんでいたその声が、酷く懐かしい気がした。
 互いに違う高校に入ってからは、たまに電話でのやりとりはあるものの、通学手段が電車と徒歩では時間も合わず、姿すら滅多に見かけなくなっていた。休日も部活や高校での友人との付き合いばかりで、最近会ったといえば、春先に篤史の葬儀の場でだ。
「空いてるよ。夏期講習、申し込み損ねたし」
『うわ、大丈夫? そんな迂闊さで』
「いいんだよ。気休めに行こうと思ってただけだから」
 半分冗談で、半分本気ではある。これまでの模試でも、A判定以外取った事はない。冗談で書いた某国立大学ですらB判定だ。けれど、申し込み損ねたのは、少しでも出掛けさせまいとした多佳子のささやかな妨害故だった。受講料の振込を忘れたのだ。おそらく意図的に。
 それを知ったのが夏休みに入る前日では、いまさら高校の夏期講習に申し込むことも出来なかった。鳴海の血を引かない多佳子は、それがどれほど千暁を焦らせたか理解する事は出来ないというより、する気がないとしか思えない。
 それを思い出して、知らず、眉根に皺が寄った。
「それより綾人(あやと)はどーなんだよ」
『俺のことはいいの。それよか、千暁、今、家?』
「うん。ちょうど掃除してた。綾人は?」
『えーと、……親戚の、家』
「法事か何か?」
『ちょっとね、いろいろあって。久しぶりに、会わない? 話したい事もあるし』
「いいけど、家はちょっと勘弁して」
 多佳子は綾人の来訪を、諸手を上げて歓迎はするだろうが、その分、余計な詮索をされるのが目に見えている。
『じゃあさ、外で昼飯食わない?』
「いいよ。いつものとこ?」
『そだね。えーと、一時間後ぐらいでいいかな』
「俺の方は全然」
『じゃ、また後で』
 何も変わった様子は無い。
 少なくとも、声音は。
 休みの日に、こんな電話があることも別に珍しくは無かったけれど、声の色が少しくすんでいたのは、多分、話したい事に関わるのだろう。
 そんな事を考えながら、千暁は掃除機を片付けて、出掛ける仕度を始めた。


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