黄昏の章

あるはずのない場所

─ 6 ─

 朝食のあと、食卓でのんびりと食後のお茶をするる千暁に、多佳子はちらと怪訝な目を向けた。
 いつもなら、「ごちそうさま」とさっさと自室に引き上げて、昼食護は、それこそ逃げるように出掛けてしまうというのに。
 どんな気紛れを起こしたことやらと、目の端に笑みを浮かべて、そのまま食器を洗い続けた。
 それを知ってか知らずか、千暁は何となく居心地の悪さを感じながら、生前の篤史のように、新聞を広げて見たりする。一応、受験生たるもの、時事に関して疎かにする訳にはいかない、という理由ではない。もちろん、新聞に一通り目を通すのは、小学生の頃からの習慣ではあるけれども、単に、手持ち無沙汰だったのである。
 今更、罪滅ぼしでもあるまいし、母親とコミュニケーションをとろうとか思っている訳ではないが、いつものように、殊更距離を取ることは出来なかった。
 午前中いっぱいは、場所を居間に移して、新聞を隅から隅まで読み尽くし、午後は、うだるような暑さを扇風機で慰め程度に散らした自室で、学校から出されている課題に取り組み、気晴らしに駅前の本屋に出掛ける。
 そんな夏休みとしては当たり前の生活を続けているうちに、篤史の新盆を迎えた。宇野家に代々墓はなく、菩提寺の納骨堂に骨を納めている。千暁たちも例に漏れず、早々に納骨も済ませた。
 わざわざ当主を決めるような家ではあるが、不思議と、法要だのなんだのということが無い。篤史の妹一家がお盆を前にやって来て、手を合わせていったが、その程度のことだ。むしろ、遊びに来る口実になっている。
 お正月に、一同が顔を合わせるのが通例となっているけれど、その数も、十年前に比べれば半分に減っている。家というよりは屋敷というほうが相応しい本家を、篤史が研究費用にするべく売ってしまえたのも、それが理由のひとつだろう。その集会をこの家で行なえるのなら、無駄に維持費の掛かる無人の家など無用の長物以外、何物でもない。
「千暁、葛きりあるけど食べない?」
 午後三時になると、階下からおやつの誘いがあるのも、日常化していた。
 あれほど母親を疎んでいた理由が、分からなくなるほどに、穏やかな状態が保たれている。
「あ、堀辺屋の葛きり……」
「さっき、都築さんに会ってね、貰ったのよ」
 いつから、誰がそう言い出したのかはともかく、なつめ屋のみたらし団子、辻屋の上用饅頭、堀辺屋の葛きりは、幻の和菓子などと呼ばれている。人気商品である事は間違いなく、午前中で売り切れてしまう事も少なくない事は確かだ。
「それにしても、綾人君も大変ねえ。親戚の家庭教師、してるんですって?」
 家庭教師?
 疑問が喉から出そうになったが、葛きりと一緒に飲み込んだ。
 つるりとしたのどごしも、きな粉の香ばしさも、上品な甘さの黒蜜も絶品で、一瞬何の話をしているのか忘れそうになって、こっそり焦る。
 親戚の世話をしているというだけで、家庭教師などとは聞いていない。だいたい、受験を控えた高校三年生に、そんな事をさせるのも不自然な話だとは思わないのだろうかと、ふと浮かんだ疑問はすぐに解消された。
「大学も、このままエスカレーターで上がれそうとはおっしゃってたけど、病気がちの子の面倒を見るなんて、なかなか出来る事じゃないわ」
 ──ああ、そういうことか。
 綾人の通っている私立高校は、下は中学から上は大学院まである。ふざけた事に、抽選に当たらないと、中・高校の入試が受けられないという、一風変わった面を持っていた。それでも、県内きっての高偏差値を誇るのだから、応募する生徒のレベルが分かるというものだ。
「そんな、ねえ、そんな子に懐かれちゃったら、なかなか帰るなんて言えないでしょうし」
 世間話をしていると、話題がいつの間にか子供の事になっているのはよくあることで。
 綾人の姿を余りに見かけなければ、良からぬ噂が立っても不思議ではない、近隣との関係が密な土地柄だ。だから、先に手を打っているのかもしれないが、そんな作り話をしてまで一人息子を親戚に預けてしまう都築家の事情など、千暁には理解出来ない。
「たまには愚痴でも聞いて上げなさいよ」
「女子じゃないんだから……」
 思わず反論すると、多佳子は葛きりの器を持った手を食卓に降ろして、大げさなほど溜め息をついた。
「全く男の子っていうのは薄情ねえ」
 ……言いがかりである。
 とはいえ、反論する訳にも行かず、千暁は小さく肩をすくめた。

 なるべく、余計なことを考えないように、数式だの英単語だの歴史年表だのと角突き合わせていたおかげか、学校に提出が義務づけられている課題は、予定よりも早く終わった。だからといって、受験が済んだ訳ではないので、本屋で予備校が出版している大学別の問題集を見繕って来ていた。
 志望大学は地元に無い。余程の不運でもない限りは、来春は上京して一人暮らしを始める予定になっている。まだ、多佳子には話していないが、そのままそちらに根付くつもりでいた。
 だから。
 ──早く、決着をつけておかなくては。
 夕焼けが空を彩る頃になっているというのに、ほとんど解いた跡の無い問題集に、千暁は突っ伏した。
 一度、頭が冷えてしまうと、再び動き出す事は、酷く難しいことに思えた。
 それでも、宇野の血に連なる者、例えば従妹の美弥だとかが、自分と同じような思いを味わうようなことにはなって欲しくない。それは、代々の当主もそう思っていたに違いなのに、叶わないという事は、鳴海家の方に聞く耳が無いのか。
 篤史は、鳴海家の事はおろか、宇野家の事ですらほとんど話さなかったから、千暁の持つ知識は、幼少時に祖父から聞いたものだけである。その祖父も、多くを語らぬうちに彼岸の人となって久しい。
 自身の持つ歴史を語る者の無い家など、滅んでいるに等しいのだろう。
 そう思う気持ちもある。
 その引導を渡したのは、実質、父親であろうことも薄々感じてはいた。
 幾ら無駄な維持費がかかるとはいえ、本家の家屋を売ってしまうくらいなら、他に手放してもいい土地はあったのだ。
 それなのに、こうして当主として≠ネどと嘯き、当然の責務だと称して、実質は復讐以外の何ものでもない事を行なおうとしているのは、ただの、悪あがきなのかも知れない。
 その夜、久々に夢にうなされたのは、そんなことを考えていたせいだろう。

◇ ◆ ◇

 父親が倒れたのは、冬の冷たさの中に、春の陽射しが感じられるようになった頃、もう少し即物的には、三学期の期末テスト前の事だった。その電話は、世界史の出題範囲の広さにうんざりしながら、サブテキストを捲っていた時だったことまで覚えている。
 多佳子とともにタクシーで病院に駆けつけたが、意識のない篤史とは一言も言葉を交わせぬまま、看取る事となってしまった。
 休みもなく、帰宅するのも週の半分ほどという生活を数ヶ月ほど続けていたこともあって、過労による突然死とかなんとか、医師から説明を受けたような気はするが、定かではない。
 ──鳴海家のしわざだ。
 その思いが、胸を占めていたからだ。
 何故そう思ったのか、それが確信になっていたのかは分からない。強いて言うなら、互いに流れる血の囁き、だろうか。
 通夜を、葬儀を、初七日を済ませ、四十九日を目前にして、向かったのは鳴海本家だった。
 私鉄を乗り継いで、一時間足らずの距離。
 県道から外れ、車一台がようやく通れるような細い道を辿った先に、その家はあった。
 唐突に現れたのは、長い時間そのものが染み込んでいるかのような飴色をした木の門。
 日没までにはまだ間があるはずだったが、その閉塞感のある路地の果てだからだろうか、既に日の落ちた後のような昏い雰囲気に満ちていた。
 千暁は意を決して、その重い門を開いた。
 田舎にしては、さほど広くもない庭の向こう、帰宅したばかりなのか、玄関のカギを開けようとしているセーラー服の少女の後ろ姿が見えた。襟に白い二本線、スカーフは濃い臙脂。その辺りでは、それなりの進学率を誇る県立高校の制服だ。
 小柄で、か弱そうな姿は、見る者によっては庇護欲をかき立てられるかも知れない。
 人の気配を感じたのか、振り向いた彼女は、千暁の姿を認めるなり、
「お客を招いた覚えは無いのだけど」
 おっとりとした口調で言った。
「鳴海紗夜(なるみさや)……」
 眉を顰めたのは、おそらくは、あからさまな千暁の敵意を感じたからではなく、名前を呼び捨てにされた無礼ゆえ、のようだ。
 歳若く、その肩に重責を負っているようには見えなくとも、さすが鳴海家の当主と言うべきかも知れない。
「何の用?」
「それはあんたが一番分かっているだろう」
 握りしめた千暁の声も拳も、怒りに震えていた。その様子に気付かぬのか、
「まどろこしい事は嫌い。分かっているなら尋ねたりしないわ」
 と、紗夜は小さく肩をすくめた。
「何を空とぼけて……、父を殺しておいて!」
 千暁の剣幕に気圧されることなく、紗夜はほんの僅かの間、記憶を糸をたぐる。そして納得したように、何度か小さく頷いた。
「なるほど、宇野を殺すのは鳴海、ということね」
 紗夜は、つ、と顎を上げた。
「ええ、私が殺したわ、宇野の莫迦者を一人」
 自分よりも頭ひとつ小さい紗夜から見下ろされているような威圧感に、千暁は奥歯を噛みしめて、言葉を絞り出した。
「何故だ? 父が何をしたっ……?」
 今にも飛びかかりそうな猛獣のごとき様子の千暁から目を逸らす事なく、
「あなたの父親は、禁忌を犯した」
女子高生とは思えぬ重い口調で、紗夜は言い切った。
「禁忌?」
「鳴海だろうと宇野だろうと、決して犯してはならない禁忌は、ただひとつ。『己が内なる螺旋を秘せよ』。あなたも宇野を継ぐ者なら、忘れてはいけない」
 千暁にとってそれは、父親からではなく、祖父から聞いた覚えのある言葉だった。幼稚園に通い始めて、他人との接触が増え、どこか人と違うと自覚を持ち始めた頃のことだ。その意味を自分なりに理解したのは中学生に上がった頃だろうか。要するに、宇野の血筋は少しばかり特殊なのだろうと。
「大学で大人しくしていればいいものを」
 大学で準教授をしていた千暁の父親は、来月から製薬会社の研究室に勤めることになっていた。さほど世渡りがうまいわけでもなく、出世欲も人並みにどうにかある程度。そんなしがない男が、破格の待遇で研究室に迎えられるのか、千暁自身、疑問に思わなかったわけではない。そして、自分の能力を過大にも過小にも評価することの無かった父親が、嬉々としてその話にのったことにも。
「本当に、なんて愚か。ただひとつの禁忌すら守れないとは」
 侮蔑さえも含む溜め息に込められた意味を、千暁は正確に理解した。
 ──なんて、単純なことだったんだろう。
 それまで気付かなかった自分を蹴り飛ばしたいような気分だった。
 内なる螺旋、など、これ以上分かり易い隠喩もない。
 そういえば、宇野家に連なる者は概ね武闘派と言うべきか、運動能力に優れた者は多かったけれど、学者肌は父親だけだったことを今更のように思い出した。
 ──父は、宇野の遺伝子を研究していたのか。
 千暁は、父親が遺伝子工学の研究者であるという認識しか無く、その研究内容など知らなかった。家庭では研究の話は一切しなかったし、忙しない朝食の時に顔を合わせるのが精々で、休日ですら父親とゆっくり話をした記憶がないのだから、無理からぬことかも知れない。
「だからって、殺されなきゃいけない理由になんかならないだろっ……」
「決して破られてはならない約束を踏みにじったのだから、命で贖うのは当然の事だわ」
 喉の奥からなんとか絞り出した千暁の言葉を、紗夜は何の哀れみも無く斬った。
 何故それが禁忌なのか。破られてはならない約束とは何なのか、知るべくもない千暁には、傲慢な本家の無情さだけが、痛みとなって襲い掛かった。
 千暁は制服のポケットに忍ばせていた折り畳みナイフを思わず掴んでいた。
「何が当然の事だよ!」
 鋭く研ぎ澄まされた刃を紗夜に向けて振りかざした。
 代々の宇野家の当主は、どうしてさっさとこうしなかったのか。
 千暁を見つめる紗夜に、動ずる様子は無かった。
 その静かさに、そのまま振り下ろすことをほんの僅かためらいを感じた事が、全てを決した。



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