黄昏の章

あるはずのない場所

─ 5 ─

 目が覚めた時、酷く喉が渇いていた。
 更に頭痛も増していたが、どうやら雨に濡れたせいで風邪をひいたらしい。軽く咳き込んだだけで、酷く喉が痛んだ。
 既に朝というには遅い時間で、水を飲みに行こうと、のろのろと身体を起こしたのを見計らったようなタイミングで、多佳子が部屋に入ってきた。
 その手にあったミネラルウォーターを、グラスに移さずにペットボトルからそのまま飲んでも、珍しく何も言われなかった。
「いくら揺すっても起きなくて、びっくりしたわよ」
 夕飯時に、何度階下から読んでも返事が無く、部屋まで起こしに行って、発熱に気付いたのだという。
 頭の下に、タオルを巻かれたゴム製の氷枕を見付けて、千暁はなんとも面映い気持ちになった。
 子供の頃は、元気で健康な割に、熱はしょっちゅう出していて、その氷枕の世話に度々なっていた事を思い出したからだ。
「ご飯食べる?」
 そう問う多佳子は、真夏とはいえ、病人にはやはり定番であろうおじやの土鍋を載せたトレイを手にしている。
 喉が痛くて、こくりと頷いて見せると同時に、ささやかに腹が鳴った。
 前日、夕飯を食べていなかったこともあって、熱で口が不味くなっている割には、おじやをぺろりと平らげたあと、多佳子に言われるまま熱を測ると、しっかり三十八度六分もあった。食後というのを差し引いても、低い値ではない。
「お医者さん行く?」
 ゆっくりと首を横に振ると、
「じゃあ、今日はちゃんと寝てなさい」
 物心付いた時からどころか、生まれたときから筋金入りの医者嫌いの息子の返答など、とうに予想していたのだろう。小言の追加は無かった。
 さすがにすぐには眠れないと思っていたのに、身体は要求していたのだろう、あっさりと眠りは訪れた。
 おそらく、昼食時にも多佳子は様子を見に来たに違いないが、起こさなかったのか千暁が起きなかったのか、目が覚めた時には、既に夕方なっていた。まだ熱が下がりきらない身体が重くて、起きる気になれず、千暁はぼんやりと天井を眺めていた。
 母親が気を利かせて、風通しは良くされていたが、それでも暑いものは暑い。汗でじっとりと湿った寝間着代わりのTシャツの気持ち悪さに負けて、のろのろと身体を起こした。
 シャワーを浴びに階下に降りると、出汁の良い匂いがしていた。
「あら、起きたの」
「ちょっと汗流して来る」
 着替えを抱えた千暁の背中に、多佳子は言葉を重ねた。
「お夕飯、どうする?」
「いらない。腹減ってない」
 それ以上、ごちゃごちゃ言われたくなくて、千暁は浴室に逃げ込んだ。
 とりあえず汗を流して、洗い立ての衣服に着替えると、怠いなりにさっぱりした気分になる事ができた。台所を素通りして、部屋に戻ろうとした千暁は、
「お夕飯はどうするの?」
 先刻と同じ言葉を言われて、苛立ちを隠せなかった。
「いらないって言っただろ」
 千暁の外見は、『おっとり』という言葉を具現化したような母親ではなく、怜悧な冷たさを感じさせる父親に似ていた。が、それを周囲が感じるのは、こうして千暁が感情を露骨に面に出すときだけであることを、他ならぬ本人だけが知らない。
 学校では優等生で通っており、幼い頃から、同級生たちに比べて、落ち着いて見えたこともあって、穏やかな人だと思われているし、千暁自身も自分をそういう人間だと思っている節があった。
「食べたくないのは分かるけど、空っぽの胃に風邪薬は良くないでしょう」
 ことんと食卓に置かれたのは、ほうれん草と蒲鉾の彩りがきれいな煮麺が盛られたお椀だった。
「それ食べて、風邪薬飲んだら、また寝なさい」
 それ以上は何も言わず、何か用でもあるのか多佳子は二階に上がってしまった。
 台所にぽつんと残されて、なんとも居心地の悪い気分で、箸を手にした。
 どうせなら冷や素麺の方が良かったなどと思いながら、暖かい煮麺をすすっていると、結局、子供の頃から何にも変わってない事に気付かされる。
 母親は暫くすると台所に戻ってきた。
「お替わり欲しかったら、まだあるわよ」
「もう、ごちそうさま」
「そう? グレープフルーツ剥いてあるけどどうする?」
「……食べる」
 そうやって、口当たりの良いものに釣られて、ご飯をきちんと食べさせられるところまで変わってないのかと思うと、千暁はなんだか可笑しくなった。
 風邪薬を飲んだ後、しばらく居間でうだうだしているつもりが、病人はさっさと寝なさいと追い立てられて、ほろ苦い気分を味わうことになった。
 シーツとタオルケットが、清潔で気持ち良いものに替えられていたので。

 翌朝、千暁は空腹で目が覚めた。
 思い切り伸びをして、固まった筋肉と関節をほぐしていると、熱がすっかり下がっているのが分かる。
 カーテンを開けるまでもなく、朝から良く晴れていて、既に気温も情け容赦なく上がってきている。
 取り合えず顔を洗って階下に降りると、いつもと変わらない光景がある。
「熱下がったみたいね」
「……うん」
 高熱を出しても、大概、一日か二日、ぐっすり眠ればすっかり回復するのも、実は子供の頃から変わっていない。だから、それを見越してだろう、いつも通りの朝食が用意されていた。
 ご飯のお替わりまでする健啖ぶりを発揮して、もう身体は大丈夫だとアピールも虚しく、多佳子は頑として千暁の外出を認めなかった。
「あのねえ、千暁。あなた、一昨日どんな顔して帰ってきたのか、分かってるの?」
 常に無い怒りを含んだ声だった。洗濯物を干している背中にまで、それはにじみ出ていて、口答えを許さないものがあった。
「これまで、どんなに調子が悪くたって、あんな顔して帰ってきたのは……」
 ぱん、と音を立ててシーツの皺を伸ばし、ピンチで固定すると、多佳子は盛大な溜め息をついた。
「とにかく、今日ぐらいは家にいなさい」
 そして、それきり黙ってしまった。
 手際よく洗濯物を干して行くのを、居間の掃き出し窓から眺めながら、千暁はようやく認めた。
 多佳子が異常なほど神経質になったのは、篤史の死がきっかけではあったけれども、それを更にエスカレートさせたのは、他ならぬ自分自身だったことを。

 千暁が、問答無用で多佳子に病院に連れて行かれたのは、八重桜も散った晩春の夜だった。
 連絡も無く門限以降に帰ってきたかと思えば、こそこそ洗面台で頭に水を掛けて血を洗い流していたのだから無理もない。
 側頭部を六針縫った後、両腕に重度の打撲があることと肋骨の骨折が判明し、頭を打っている以上きちんと調べてもらわなくてはと多佳子大騒ぎしたことで、事は大きくなってしまった。
 しかしながら、検査入院だけの予定が、翌日、原因不明の高熱が出たことで、結局一週間も病院の住人になる羽目に至ったのである。
 その間、本当に階段から落ちた怪我なのかと、何度か医師には問われた。おそらく彼らが想像しているだろう、喧嘩が理由では無かったし、事実は自分の方が不味い立場にあった。
 けれど、本当の事を話さなかったのは、ささやかな自尊心からであって、決して刑事事件になることを畏れての事ではなかった。
 あまり愉快でない回想は、多佳子の声に遮られた。
「千暁、そんなところでぼーっとしてるんなら、あと干しておいてくれる?」
「いいけど、なんで」
「ちょっと買い物行ってくるわ。午後からだと、また暑くなりそうだもの」
 千暁と入れ違いで家の中に上がると、しわはちゃんと伸ばすのよ、と言いおいて、多佳子は出掛けてしまった。
 エプロンを外してつば広の帽子を被っただけの格好だから、おおかた近所のスーパーだろう。それなら、ついでになつめ屋の団子を頼めばよかったなどと思いながら、タオルケットを干した。柔軟剤の香りがほのかに漂う。
 名も知らぬ庭木が数本植わっているだけの、さして広くはない庭は、多佳子がこまめに草取りをしていて、きちんとはしていたが、殺風景な気がした。
 華やかなのは、玄関先を飾るコンテナの寄せ植えで、常に目にも鮮やかな色彩が溢れている。春の頃は枯れ果てていたことを思い出すと、帰宅するたびに家が荒んでいるような気がしたのはそのせいかと、何か胸にすとんと落ちるものがあった。
 洗濯物を干し終えて、掃き出し窓の桟に腰を降ろすと、千暁は改めて庭を見回した。
 道路に面した駐車スペースから一段上がり、そこから沓脱石まで緑の芝生の中を飛石が続く。車から大きな荷物を運び入れる時は便利なようで、足を取られて危ない目に遭うことの方が多いような気がして、いつも邪魔だなと思っていたことを、ふと思い出した。隣家との境にあるブロック塀の際に植えられている木々など、意識して眺めた事など無く、花が咲くのか実が成るのかも知らない。
 ──そういえば、あの庭は……季節に満ちている。
 ふと、夕月の家の庭を思い、重ねた。
 朝顔だとか、向日葵だとか。
 ──多分、あの青い花も。
 どれくらいぼんやりと過ごしていたのか、玄関先から
「千暁、手伝ってちょうだい!」
 という多佳子の声で我に帰った。
 玄関まで飛んで行くと、多佳子が框にへたり込むようにして座っている。
「何、どうしたの」
「なんとなくね、買っちゃったのよ」
 そりゃあ、へたりもするだろう、丸々とよく肥えた水瓜が一玉、三和土に鎮座ましましていた。その上、千暁の為にだろう、アイソトニック飲料の大きなペットボトルまである。
「電話してくれれば迎えに行ったのに」
「莫迦ねえ、病み上がりの息子にそんなこと頼めるもんですか」
 汗を拭いながら、多佳子は笑った。
「とりあえず、台所に運ぶよ」
「お願いね」
 よくもまあ、これだけのものを、たった徒歩五分とはいえ、持って歩いて来れたものだと千暁は感心しながら、荷物一式を運び終えると、まだ玄関先でへばっている多佳子に、冷たい水を渡した。
「あら、ありがと。気が利くわねえ」
 まるで十代の少女のように喉を鳴らして飲む様子に、千暁は愕然とする。
 はあ、と満足げな溜め息の後、千暁を見上げた。
「お昼は冷やし中華にするわね。おやつは、なつめ屋さんのお団子よ」
 久方ぶりに、真正面から多佳子と向き合って、ゆっくりと胸に沸き上がってきたのは。
 ──母は、こんな顔をして笑う人だった……
 罪悪感だった。



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