黄昏の章

あるはずのない場所

─ 3 ─

 階下に降りると、多佳子は台所でシンクをきれいに磨き上げていた。
 専業主婦ということもあってか、もともと家事に手を抜くようなことはなく、半ば習慣化していることではあるけれど、以前よりも、神経質になっているような気はした。
 何かを一心不乱にする事で、余計なことを考えまいとするような、そんな気配がする。
「お昼、お素麺でいい?」
 すでにテーブルには、干し椎茸を水に浸した器が載っていた。
「さっき綾人から電話があってさ」
「あら、綾人君の分も用意する?」
「や、外で待ち合わせの約束だから」
「……そう」
 文句があるなら、言ってくれればいいのに。
 多佳子の背中を見て、いっそのことそう口にしてみようかと思わないでもない。けれど、それを見越したように、
「綾人君と会うのも久しぶりだものね。帰り、あんまり遅くなっちゃだめよ。都築さんとこも心配なさるから」
 などと言うのは、さすがに年の功というべきか。
 それ以上、会話をするのがいたたまれなくなって、千暁は早々に家を出た。
 中学生の頃は、二人してバスケットに夢中になっていて、綾人の方は、去年の夏まで続けていたようだが、千暁はすっかり帰宅部だ。身長が平均値で止まってしまったのは、断じてそのせいではない、と信じている。
 中天に差し掛かった太陽に灼かれて、住宅街のアスファルトは空気が揺らいでいた。しばし焼き魚の気分を味わい、幹線道路沿いの並木道の木陰に入ると、思わずほっと息をついた。
 待ち合わせの定食屋は、その先の路地を曲がってすぐのところだ。
 値段もボリュームも学生には優しいこともあって、試合の帰りに、部活の仲間としょっちゅうお世話になっていた。
 書店でしばらく時間をつぶしてから千暁は店に入った。夏休み中ということもあってか、いつもは学生で賑やかなのに、閑散としていた。綾人が来たのは、それから十分ほど経ってからだった。
 互いの手を軽く叩き合わせる挨拶も、身体た覚えていたのか無意識のうちにしていた。
 じわりと温かで力強いエナジーが染み込む感じが懐かしい。
「悪い。待った?」
「いや、俺が早く来ただけ」
 急いで来たのだろう、軽く息は上がり、拭った側から汗が流れていた。千暁と同様、和風焼き肉定食を注文して、セルフサービスの水を二杯、立て続けに飲み干して、ようやく一息ついたようだった。
「で、話って?」
 単刀直入に、切り出されるとは思っていなかったのか、綾人の目が泳ぐ。
 のれんをくぐってきた姿を見たとき、どうやら身長は追い越されたらしいなとは思ったけれど、先手を取られる事が苦手なあたりはまるで変わらない。
「……俺さ、親戚の家に今、住み込んでるんだ」
 そういえば、最近、姿すら見かけなかったなと今更思う。春先からこっち、それに気付く余裕すら無かった。だいたい、そんなことがあれば、綾人の母親が、真っ先に多佳子に話していそうなものだが、そんなことを聞いた覚えはまるでない。
「バイトか何か? 夏休みに余裕だな、おい」
「そんなような、もの、っていうか……、俺もよく分からない」
 千暁の嫌みを流して、ちょっと情けなさそうに綾人は微笑った。
「なんだそれ」
「いきなり親戚の家に住み込めって言われてさ。そこで、親戚の世話をしろって」
「ヘルパーのまねごとでもしてんの」
「似てるけど、違う。あんまり話すなって言われてるから、詳しい事は言えないんだけどさ、最終的には、そこの家の、遺産相続人になるらしいんだよ」
 いきなり、生臭い話になって、千暁は眉を顰めた。綾人も話しにくいのだろう、笑みが口許を歪ませている。確かに、そんな事まで絡むなら、簡単に話が流れて来ない事も頷けた。
「その代わりに、住み込みの家政婦さんになったってわけだ」
 さすがに、その言い方にはむっとしたらしく、あからさまに綾人は千暁を睨みつけた。
「あのね、俺がそうしたかったわけないだろ」
 険悪になりかけた空気は、二人の前に並べられた皿に払拭された。
 昼食というには、もう遅い時間で、ぎりぎり成長期にとどまっている空腹の二人にとって、目の前の栄養減摂取の方が、実の無い口喧嘩よりも余程大事だ。
 とはいえ、幼少のみぎりから、二人して綾人の母親から食事の作法を口煩く仕込まれていたこともあって、男子高校生にしては、上品な食べっぷりではあった。
 互いの皿がいっそ見事なくらい綺麗に空になったのを見計らって、千暁はグラスに氷水を足して、綾人の前に置いた。
 不機嫌そうにすら見える無表情のままではあっても、その意味を汲み取れないような仲ではない。
 苦笑しながらそれを受け取り、ぽつりと話し始めた綾人は、いつもの穏やかな口調を取り戻していた。
「やっぱさ、高校は卒業したいじゃん。公立だったら、バイトとかして、自力で卒業とか出来たかも知れないけど、私立じゃ無理。奨学金とれるような成績でもないし」
 いわゆる滑り止めに使われる私立ではなく、県下でも一、二位を争う高偏差値の私立高校で、一応上位三分の一から落ちた事はないらしいのだが。
「そこまで言われたんだ?」
「うん。言う事を聞かないなら、今すぐ高校辞めろってさ。父さんの勤務先の株、そこが結構持ってるみたいで」
「ヘヴィーだな」
 顔を歪めた千暁とは対照的に、綾人は、軽く笑ってみせた。
「でもさ、親戚の家も、そんなに悪くないよ。最初は、高校卒業したら、そのままそこで働けってことだったんだけど、そこから通うなら、大学にも行って良いってことになったし、学費もそこの家が出してくれるし。豪儀だぜ、私立の医学部でも構わないって言ってくれてるんだから」
「……ただの口約束なんじゃ?」
 ぴらぴらと綾人は手を振った。
「財産目録見せてもらった限りでは、大丈夫そうだよ。俺名義の預金通帳も渡されてるけど、結構な額、入ってるし。それに、その親戚の保険金の受け取り人、俺なんだ」
「……胡散臭いのを通り越して、犯罪めいてる気がしないでもないんだけど」
 結局、生臭い話はまとわりつくらしい。
 空になった皿が下げられて、代わりに綾人にはメロンフラッペが、千暁にはクリームあんみつが運ばれて来た。男二人で、こんなものを頼んで違和感がないのは、この店くらいだというのも、ここを待ち合わせにする理由のひとつだ。もっとも学生御用達ということもあって、男十数人で甘味を楽しむ姿はあまり珍しくない。そのむさ苦しい光景を、店主の奥さんがどう思っているかは謎だが。
「まあ、医学部に行って、医師免許もらったとしても、所詮、その家の管理人にならざるえないわけだからねえ」
「なんか、釈然としない話だな」
「だからさー、誰かに聞いて欲しかったんだよ」
 そういって、綾人は、緑のクラッシュドアイスを口に運び、思い切り顔を顰めた。どうやら、きーんと頭に来たらしい。
「今から、なんとかなんねーの?」
 こいつの将来の夢って、なんだったっけ。
 求肥を咀嚼しながら、千暁は綾人の表情を窺った。
 アメリカに渡ってNBAの選手になるだの、天才発明家になるだの、幼い日の他愛ない話でしか、そんなことを口にしたことはなかった。
 だいたい、高校生のうちから、明確に将来のビジョンを持っている者の方が少数派だろう。とにかく大学受験に向けて知識を詰め込み受験のテクニックを磨いて、全てはそれからという気がしないでもない。千暁自身は、結局は父親の影響なのだろうが、生物工学の研究職に就きたいと漠然と思っているだけに過ぎない。
「うーん、どうだろ、最初は、ふざけんなーっとか思ってたけどさ。こういうのもアリかなーって気がしてきてるし」
 それは、決して投げやりなものではなかった。
 こうして千暁に話している今、綾人の中では、もう決着のついている事なのだろう。おそらくは相当な葛藤を乗り越えて。
 なおさら、俺は話せないな。
 千暁は、胸の内で自嘲する。
 決着どころか、何もかもが中途半端なままだ。
「おばさん、最近どう? 落ち着いた?」
 話して気が紛れたのか、がらりと話題が切り替わった。綾人は神経質そうな印象を持たれがちだが、割と大雑把で落ち込んでも気持ちの切り換えが早い。
「まあね。うるさいけど」
「おじさんが亡くなったの、急だったもんね」
 帰宅の途中で倒れ、そのまま意識を取り戻す事無く、死因は心不全。将来を嘱望されていた研究者の急逝。それが、篤史の死に対する周囲の認識だし、表向きの事実でもある。
 本当の事を知っているのは、おそらく千暁と鳴海家の当主くらいのものだろう。
「千暁は?」
「俺は最初から落ち着いてるよ。成績も落ちてねーし」
「そっちじゃなくて、入院したんだって?」
 家は近所で、母親同士も仲が良い。綾人が知っていて当たり前なのに、ぎくりとした。出来れば、避けて通りたい話題だ。
「ほんの一週間だよ。母さんが無駄に心配して、無理矢理入院してたようなもんだし」
「何やらかしたのさ」
 心配したというよりは、何かを探るような表情で、融けかけたフラッペを匙でかき回している。
「やらかした、って人聞き悪いな。ちょっと打ち所が悪くて、肋骨にヒビが入ったんだよ。あと、頭も怪我して縫ったから母さんが騒いで、CTだのMRIだの検査しまくることになってさ。医者の方が呆れてた」
 高熱がしばらく下がらなかった事は黙っておくことにした。
「ケンカ?」
 どうやら、懸念の方向はそちらにあるようで、千暁はわざとらしく偽悪的な苦笑をしてみせた。
 信用していない訳でなくとも、信頼していても、知られたくないことは、ある。
「……なんて聞いてる?」
「学校で階段から落ちた、って。でも千暁がそんな間抜けなわけないし」
 一番古い記憶に、しっかり登場するような相手には、生半可な作り話は通用しない。
 それは、お互い様ではあるのだが。
「おばさんには言うなよ」
「当然」
 話が筒抜けになって、あとで二人して叱られたなんていうのは、数えきれないほどだ。
 それだけ、幼い頃から二人して悪戯をやらかしてきたということに他ならない訳で、後ろ暗さも後ろめたさも、これまでは共有していたのだ。
 だから、誤摩化された振りをしてくれたのだろうと分かっていても、不誠実さは自分の方がはるかに上だという自認は、石を飲み込んだような気分にさせた。
「そういや、親戚のとこに住み込みって、いつから?」
「いや、六月からずっと」
「……まさか、一生って?」
「かもしんない」
 涼しい顔で、綾人は笑う。
「で、今、何処に住んでるんだよ」
「内緒。学校にも伝えてないしね。自宅から通ってる事になってる」
「親戚の意向?」
「まあね」
 それはおかしいだろうと、どうしてそんな縛られ方をしなくちゃいけないのかと、問い詰めたい衝動を、千暁は押さえ込んだ。
 綾人の感情は、それこそ凪の海のように落ち着いているというのに、何が言えよう? その内側に激しい海流が隠れているのだとしても、それは暴かれるべきものではない。
 定食屋を出てすぐ、綾人は思い切り伸びをした。
「あー、なんか、ちょっとすっきりした」
「何が」
「学校だと話せないからさ、こういうこと」
 たぶん、千暁の周辺が落ち着くのを、待っていたのだろう。
 入院の件も、自棄を起こしてケンカの売買をしたと誤解していたのかも知れない。
「愚痴ぐらい、いつでも聞いてやるよ」
 肩を並べていると、中学卒業の時点では、ほんの数ミリだった身長の差が、二年余りを経て、どうやら三センチほどになったらしいことを実感する。
 高校が分かれたように、この先の未来で、共有出来る時間はほとんど無くなってゆくのだろう。それでも、互いの居場所は変わらずそこにあることに、千暁はほんの少し、救われた。
 たとえそれが、錯覚だとしても。



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