黄昏の章

あるはずのない場所

─ 4 ─

 その日、夕月の家を訪れた千暁を出迎えたのは、ざるに盛られた茹でたての玉蜀黍だった。
 今にも弾けそうに、つやつやと黄金に輝くそれに、当然のように麦茶のグラスを添えられて。
「じゃあ、遠慮なく」
 がぶりと歯を立てると、まだ熱い果汁が口の中に流れ込んできた。
 とうにそれを見越されていたのか、すぐ脇に用意されていたティッシュで慌てて口許を拭った。
「あっまいですね」
 ほんの数坪の小さな畑が家の裏にあり、そこで採れたもの初めて供されたのは確か枝豆だった。その時も、こんなに美味しいものだったかと驚いたものだが、この玉蜀黍の甘みは、未知の領域に近かった。
「玉蜀黍はねー、もいだら、すぐ茹でないと美味しくないんだよ」
 見事なほど、芯から実だけをきれいに齧り取りながら、夕月は言う。
 採れたて茹でたての玉蜀黍。香ばしい麦茶。
 素朴で当たり前で、それでいてこれほど上等な夏のおやつもないだろう。
「……解者って、なんなんです?」
 そう問わずにいられなかったのは、日常に飲み込まれない為だったかも知れない。
「統率者みたいな者に言わせれば、多重世界が壊れない為のシステムだそうだよ。そのシステムに則って動く者の呼び名でもある」
 何でも無いことのようにそう言うと、夕月は薄皮も残さず、きれいに食べきった芯を、ぽいと盆の上に放った。
「宇野や鳴海は……壊す要因だと?」
「そうとも言えるけど、狩るのは宇野や鳴海ばかりでもないし、人にも限らない」
「じゃあ、誰を、何を狩るんです?」
「さあ。ただ、見える縺れを解し、糺すのが解者の役割。時には、これから起きる事柄を起きないようにすることもあるし、ただ見守るだけのこともあるし」
「まるで、神の使いですね」
 皮肉たっぷりの言葉にもまるで動ずることなく、
「そんなものに会ったことないけどね」
 余裕たっぷりの微笑をちらと向けて、立ち上がった夕月は、床脇棚に置いてあった本を手に取ると、石畳で涼をとる猫よろしく、畳の上に腹這った。千暁も、玉蜀黍を食べ終えると、いつものように問題集を開く。そうして、いつもの午後の時間が流れ始めた。

 午後の光が赤みを帯び始めた頃。
 そろそろ暇する時間だった。
 いつの間にか、開いた本の上に置いた手を枕に、夕月は眠っていた。掛けっぱなしの眼鏡がずれて落ちそうになっている。まるで背中を丸めて午睡を貪る猫のようで、細い肩と肩甲骨の尖りがTシャツ越しに透けて見えた。
 千暁は食器を片付けると、夕月の肩を揺すった。
「俺、帰りますけど、戸締まりはきちんとしてくださいね」
 まだ寝ぼけているのか、のろのろと身を起こした夕月から応えはなかった。
 小さくため息をついて向けた背に、
「さよなら」
 微かだが、明確な言葉が投げかけられた。
 表に出ると、間もなく日暮れだというのに、むせかえるような熱気が空気に満ちていた。窓を開け放っているだけで、通り抜ける風で涼やかだった部屋の中が嘘のようだった。
  
 その翌々日のこと。
 おかしいな。
 そう思ったのは無理も無い。
 初めて訪れた時から、夕月の家への道筋を違えた事などなかったし、そもそも千暁は方向音痴などではない。
 それなのに、竹林を抜けると、もとの小路に出てしまうのだ。他に道は無く、結局堂々巡りで、かれこれ同じ道を三度も通っている。
 そのあたりは行き止まりの道も多く、他所から来た者には迷路に近いが、幼い頃から、こっそり他人の敷地に入り込んだりまでして、探検し尽くしている千暁には、庭みたいな場所のはずなのに。
 もともと、あの場所など、無かったのかもしれない。
 ふと、そんな考えが頭を過った。
 酷暑とまで言われ、狂気を誘うような夏の熱に浮かされて、現実逃避も甚だしい夢でも見ていたのだと思う方が、余程現実的な気がしたのだ。
 さっきまで吹いていた熱い風が、いつの間にか冷たくなっていた。
 天気予報の通り、雷雲が迫っているからなのだろう。
 雲に遮られて、いつもの照りつける陽射しが無いとはいえ、じりじりと滲んでいた汗が引き始めている。
 雨が降り始める前に、どこか屋根のある場所へ行きたかったが、生憎図書館は休館日だ。駅方面に出て、ショッピングセンターで時間を無駄に潰す愚を犯す気にもなれない。多少、懐は痛むけれど、ファミレスかファーストフードに行くかと逡巡している間にも風は強くなり、雲行きはますます怪しくなってきた。
 東の空に暗雲を切り裂くような稲光が走り、遠雷が低く轟く。
 すぐ際の竹林が、風に嬲られ悲鳴を上げるかのようにざわめいていて、それが、酷く癇に障った。
 そこを抜けた先に、夕月の家はあるはずなのだ。
 勘違いのはずは無いという確信はある。
 一度覚えてしまえば滅多な事で見失う事もない、あの独特の気配も感じているのに。
 ──今も、だ。
 それが、いつもに比べて不鮮明なのは、多分、この雷雲のせいだった。何がどう作用しているかなど分からなかったが、圧倒的な自然の力を前にすると、普段、いくら鈍らせ遮断しているつもりでも、無意識にこの感覚に頼っているのだと思い知る。
 それを、『ズルだ』と厭っていたのは随分と幼い頃のことで、今では、それも個性だと割り切ってはいた。おそらく、災害時には役立たずなこの力は、人智を超えた危機に際しては自分も他者と平等なのだと。とはいえ、こんな形で感覚を揺さぶられる不快に慣れるわけもない。
 このまま外にいたら、経験上、嘔吐するほどの頭痛に襲われることは分かっていた。既にその予兆も感じているから、一刻も早く、屋内に避難すべきだった。
 痛みに変ずる直前の鈍い痺れを振り払うように、軽く頭を振った。
 ──この目で、耳で、確かめればいい。
 千暁は、通い慣れたはずの小路ではなく、竹林の中へ入って行った。

 葉擦れの音と降り出した雨音が混ざり合って、神経を逆撫でする騒がしさの中をどれほど進んだのか。こんなに奥行きがあるはずも無いのにと怪訝に感じながらも、千暁は竹林の奥を目指した。
 果たして、夕月はそこにいた。
 いつものような、Tシャツにハーフパンツといったラフな格好ではなく、漆黒でまとめられているせいか、スタンドカラーのノースリーブシャツに細身のパンツという出で立ちは改まった印象がして、初めて会った時を思い起こさせる。
 眼鏡という遮蔽物なく晒された目は、ややつり気味な事もあって、人を寄せ付けない鋭さを持っていた。それは、整った顔立ちをしていながら美形に見せない要因であるかも知れない。
 ピンと伸ばされたその背は緊張が張りつめ、感覚を解放しなくとも、周囲の空気が震えているのが分かる。
 夕月の正面には、微かに光る靄のようなものが、ぼんやりとした形に集積しつつあった。
 見ようによっては、ゆらりゆらりと立ち上がろうとする人のようでもある。
 徐に伸ばされた夕月の手には、いつのまに取り出したものか、物騒なものが握られていた。
 ──あんな傷痕、あっただろうか?
 左の肩から二の腕に掛けて、引き攣れた皮膚はおそらく傷を縫った痕だ。Tシャツの袖にちょうど隠れる部分であったからか、それまで気付いたことは無かった。
 日焼けの無い滑らかななばかりと思われた肌に覆われた腕が、すっと上がった。
 ほとんど予備動作も無く横薙ぎに払われたその刃は、確かにその人影擬きを捕らえはしたが、雲を斬る事が出来ないように、それもまた揺らいだだけだった。そして、数メートルの距離を保ったまま、夕月と対峙している。
 風に煽られて纏わりつく前髪を鬱陶しげにかきあげ、その手の大鎌を持ち直すと、夕月は一瞬の間に二、三歩の踏み込んで、今度は下から掬い上げるように人影擬きを薙ぎ払った。真っ二つに裂かれたのも僅かの間、千切れた部分はすぐに残った大きな部分と繋がり、人影擬きに戻った。
「面倒くさいな……」
 小さな呟きとともに、その手から放られた大鎌は、一瞬の後に霧散し、消え去った。
 代わりの得物でも取り出すのかと思えば、夕月はそのまま歩み寄り、無造作にその手で人影擬きを掴んだ。
 先刻まで気体に見えていたものが、夕月の手に掴まれた途端、それはぐにゃりとした軟体動物に似たものと化していた。持ち上げられたそれは、だらりと垂れ下がった本体を弱々しく蠢かせていたが、やがて夕月の手から上がった青い炎にすっぽりと包み込まれ、そのまま燃やし尽くされた。
 後に残ったのは、指先で摘める程度の、小さな紅い玉。
 それを夕月は食べた。
 まるで、桜桃でも口にするかのように、躊躇いも無く。
 ──これが、解者の、狩り?
 そもそも、解者が『何を』『何故』狩っているのかなど、千暁は知らない。
 だから、これが狩りなのかどうかすらも分からないのだ。
 すっかり濡れそぼった身体はすっかり冷えていたけれど、それが震えの理由でない事は、自身が一番よく分かっていた。
「雨が、降りそうだ」
 それなのに、夕月から発せられたのは、そんな言葉で。
 ゆっくりと振り返ったその顔は、千暁がそこに居たことは、とうに承知していたようだった。
 ぱらぱらと、葉が軽やかに鳴り始めた。
「ああ、降って来た。濡れる前に、行こう」
 ぽんと軽く腕に触れられただけなのに、千暁は思わずその手を振り払い、後ずさった。
 ──この存在は、何だ?
 それは、夕月に対して感じた、初めての恐怖だった。

◇ ◆ ◇

 その時、夕月がどんな表情をしていたのか、千暁は覚えていない。
 まるで逃げるように──いや、まさにその場から逃げ出したのだから。
 雷雨の中、家にたどり着いたときは、三和土に水溜まりができるほどびしょ濡れになっていた。母親に風呂場へ追い立てられ、思い切り熱めのシャワーを浴びて、ようやく我に帰ると言う有様だった。
 脳をぎりぎりと締め付けられているような痛みを厭わしく思わなかったのは、その苦痛に逃げ込むことが出来るからだと、自覚する愚かさに千暁は自嘲を零した。
 こんな天気の日は、きまって頭痛を訴える事を母親は承知している。台所のテーブルに、いつもの頭痛薬と水、そしてインスタントではあるけれど、温かなスープが用意してあった。
「ありがと」
 居間のソファで、再放送のミステリドラマを観ているその背にそう言って、程よく冷まされていたスープと薬を飲んだ。
「お夕飯まで寝てらっしゃい。髪はちゃんと乾かすのよ」
「うん」
 まだ何か言いたげな視線は、ここのところあからさまに息子に避けられていることを気にしてなのか、そのままテレビの方に戻された。
 なおざりにドライヤーで髪を乾かし、どさりとベッドに倒れ込むと、もう指一本すら動かす気にならなかった。薬のおかげで頭痛が和らいでくると、ようやく眠りの闇が降りてきて、そのままそれに従った。
 夢も見ない眠りだった。




inserted by FC2 system