黄昏の章

あるはずのない場所

─ 1 ─

 ──ああ、またか。
 玄関の引き戸に手を掛けると、何の抵抗もなく開いた。
 千暁(ちあき)は深々とため息を付く。
 用心が悪いからカギくらい掛けて下さいと何度も言っているのに。
「ごめんください」
 案の定、返事は無い。連日最高気温が三十五度を越え、熱帯夜も既に十日以上続いているのでは、おそらくすっかりばてて、午睡でも貪っているに違いない。
 ──まったく、知らねーぞ、何があっても。
 胸の内で呟きながら、
「お邪魔します」
 と律儀に言い置いて、千暁は家に上がった。
 家中の窓が開け放たれているのだろう、エアコンなどは無いはずだが、その割には涼やかだった。年月に磨き込まれた廊下の木の感触が裸足に心地よい。
 二間続きの和室の方を覗くと、普段は無造作にくくっている髪を畳の上に散らし、タオルケットを胸に抱え込むような格好で眠る夕月(ゆづき)の姿があった。やはり夏バテ気味なのだろう、その横顔はやや青ざめて見える。
「夕月?」
 一応、声は掛けてみたが、返事はない。穏やかな呼吸と気配で、狸寝入りではないらしいことは分かるが、この不用心さに千暁は眉を顰めた。
 とはいえ起こすのも忍びなく、勝手知ったる台所で、まず手土産を冷凍庫に納めてから、代わりとばかりに良く冷えた麦茶をグラスに満たして、縁側の、ちょうどよしずで影になった場所に腰を降ろした。
 帆布製のカバンには、受験生たる身としてはその夏にこなさなければならない課題が入っている。庭木の微かな葉擦れの音は耳に心地よく、冷房の効いた部屋でこなすより効率が良さそうだ。
 割合大ざっぱな手入れしかしてなさそうな庭には、高く背を伸ばした数本の向日葵、赤々とした紅葉葵、既にしおれた朝顔、真っ白な鉄砲百合が野辺のように無造作に咲いている。
 数学の問題集を立てた膝の上に開いたまま、千暁はその庭を眺めるのは習慣になっていた。
 水出しではなく寝る前に薬缶で煮出し、一晩冷ましてから、朝、冷蔵庫に入れているという麦茶は、千暁のお気に入りだ。その香ばしさを知って、二度とペットボトルに詰まった同名の飲み物を口にしようとは思わないほどに。それを知ってか、冷蔵庫に麦茶が切れていたことは無いが、レトロな花火の模様が描かれたガラスのピッチャーは夕月のお気に入りらしく、絶対に割らないようにと釘を刺されている。
 入って来る風を感じながら麦茶を口にしていると、常になく気分が落ち着く。いくら静かで冷房が効いていても、人の気配に満ちた図書館や、夏休み中は解放されている高校の学習室では得られない時間だ。
 まだ夕月は来訪者に気付くことなく、無防備に眠り続けている。初めてこの家に足を踏み入れた時も、そんな風に眠っていた。
 あの時は──。
 千暁は自分の両の手のひらをじっと見つめ、軽く頭を横に振った。
 もとより、宇野家の、それも当主である千暁が、解者(かいじゃ)である夕月と、こんな穏やかな距離感で接していることの方がおかしいのだ。
 ──そう、はじめから、この関係は何処か間違っている。
 余計なことを考えまいとするように、千暁は、問題集に目を落とした。

「来てたの」
 いかにも起き抜けな掠れた声がしたのは、午後の光がやや黄みがかり始めた頃、その日にこなす予定の半分を終える手前だった。
「麦茶、いただいてます」
 相変わらず律儀だね、と夕月はくすりと笑う。勝手にしてて良いよと言ってるのに、と。
「アイスクリーム食べませんか」
 返事を聞く前に千暁は腰を上げた。
「チョコマーブルある?」
「もちろん」
「じゃ、食べる」
 そう言って、すぐに目を閉じるところを見ると、体調は良くは無いらしい。
 いい加減見慣れてはいるが、冷蔵庫の中には、見事なほど、まともな食料は無い。ゼリータイプの栄養機能食品に、作り置きの麦茶、スポーツ飲料、野菜ジュースなど飲むものばかりだ。
 少しはまともな物を食べないと……。
 千暁はその日、何度目かのため息を深々と付いた。
 食事に誘ったこともあったが、外でご飯を食べることは嫌いだと一蹴されている。かといって器用さを自認していても、したことのない料理の腕は振るえない。それに、おやつ関連の差し入れは歓迎する反面、食事への干渉を夕月は嫌った。
「ビスケット、勝手に持って来ちゃいましたよ」
 既に買って知ったる他人の台所、盆の上には、この暑いのに急須と茶碗まで載せていた。
「ありがと、アイス乗っけて食べると美味しいよね」
 ようやく夕月は体を起こし、タオルケットを畳むと、脇に置いてあった眼鏡を掛けた。
 途端、アイスを盛ったガラスの器を受け取りながら、軽い抗議をする。
「これ、ちょっと多くない?」
「どうせ朝から何も食べてないんでしょう。それくらい食べてください」
 きっぱりと千暁は言い切った。その為に、わざわざ一パイントカップで買って来ているのだから当然だ。
「小姑」
 小さく肩をすくめて、ぼそっと呟くと、夕月はアイスを口に運んだ。
 大方、起き抜けに野菜ジュースくらい飲んだ、とか言いたかったのだろう。それでは食事にならないと千暁が切り返して以来、無駄な口答えをしないあたり、減らず口を叩く割に、舌戦は苦手のようだった。
「それにしても、窓は開けっ放しだわ玄関は施錠してないわ、不用心ですよ、何度も言ってますけど」
「大丈夫だって」
 へらっと言い切るが、身なりのラフさはともかく、見た目は華奢な少女なのだ。うっかり昼寝中に変質者が庭を覗いて、良からぬ事をしでかさないとは限らないだろうと千暁は心配しているのだが、本人の方に自覚はまるで無いらしい。
「その自信はどこから来るんでしょうね」
「こんなところ来るの、あんたぐらいだし。ねえ?」
 最後の念押しに含みを感じて、千暁の抹茶アイスをすくう手が一瞬止まった。
「嫌な言い方しますね」
「分かってるくせに」
 さらりと夕月は言ってのける。
 千暁の噛み締めた奥歯が、ぎりっと嫌な音を立てた。
 そうやって、過日のことを揚げつらわれても仕方が無いのは自覚している。だからといって、言葉遊びのネタにされて不愉快にならない訳ではないのだ。
 それに、まだ、何の決着もついてはいない。
 剣呑な沈黙がしばし続いた後、
「……悪い。巫山戯過ぎた」
 先に降参の意を表したのは夕月の方だった。
 大して悪いとも思っていなさそうな口調でそう言い、目を伏せた。
 ビスケットに山盛りのアイスクリームを載せて、ばくりと齧りつく様子は、いつもと変わりなく、むしろふてぶてしいくらいだ。
 それでも、「お互い様です」と、水に流す事を千暁は了承する。
 ──何を畏れているのだろう?
 言葉を交わすとき、静電気に似たものが夕月の肌に纏い付くことを、いつも不思議に思っていた。それが敵意や警戒心であるならば、納得も出来るのだが。
 ちらと千暁に目を向けた夕月から、それが霧散していくのを見て、何故か千暁はほっとした。
 物心付いた頃からとはいえ、感覚の鋭敏さは、時に自身をも酷く緊張させる。だから、薄い膜を掛けたように感覚を鈍らせて日常を送るのが習慣化しているにも関わらず、夕月といると、ふとした瞬間、その膜が剥がれ、神経が剥き出しになる。
 幼い頃はかくれんぼや宝探しが得意だったり、大人に怒られそうな時、早々に逃げ出せたりとか、事は単純で楽しかった。受け取る情報量が他者より多いということは、その分、無邪気な子供時代が短い事も意味していた。
 ──これをケンカに応用する事まで覚えたことは、あまり良い顔をしなかったな。
 地味な学究の徒として、如才なく生きていくことを至上とするようなタイプだった父親を思い出して、千暁は軽く目を閉じた。
 互いに牽制し合うだけの時期は、もう失われたことを、改めて胸に刻む。
 宇野家の新たな当主として成すべき事は、鳴海家との決着をつけることだと決めたのは千暁自身だ。そんなきれいごとではなく、端的に復讐というべきかも知れないという自覚はある。
 だからこそ、解者の介入など許せるものではなかったのだ。

「そういえばさ」
「は、はい?」
 不意の明るい声に、千暁の応えも、やや間抜けてしまった。
「いつまでそんな丁寧語で話してんの?」
 外見上、千暁と夕月は同年代か、むしろ千暁の方が年嵩に見える。けれど、千暁はいっそ他人行儀な程の言葉遣いをずっとしていた。実のところ、あまり自覚は無かった。
「さあ?」
「もしかして、妖怪並みに年上だとか思ってる?」
「……えーと」
 さすがにそこまでは思っていなかったが、うっかり千暁は口籠った。
 こうして、Tシャツにハーフパンツといった、ラフな格好をしている姿をしていると、気の置けない仲のクラスメート、もしくは生意気な後輩といった風情が無くもないし、そう錯覚しそうになることもある。
 けれど、解者というものに対して、歳を取らぬ化け物、という印象を拭う事は出来なかった。
「十七歳だよ、私は」
   いささか憮然として、夕月は言った。
「……年下?」
 同学年だとしても、既に千暁はその年の誕生日を迎えている。
「まあ、便宜上というか……解者になった歳でしかないけど」
 そこに、やや自嘲的な響きを聞き取って、千暁は夕月の顔をまじまじと見てしまった。
 ──あの目だ。一度だけ、夕月を上から見下ろした、あの時の。
 アイスクリームを口にしているからではなく、背中に冷たいものが伝った。
 あの時と同じ、薄闇の中で底知れぬ淵を覗いてしまったかのような感覚は、恐怖にも哀れみにも似て。
 そんなものを抱え込んで、平然と微笑う夕月に対して、対等な口が叩けなかった。
 こうして、ご飯をきちんと食べろと言われてむくれたり、満足そうにビスケットにアイスを載せて食べるさまは、確かに十七歳相応ではあるのだが。
 ──『解者になった歳』?
 ふと、その言葉が引っ掛かった。
 影の如く密やかに息づき、時を渡り、宇野と鳴海の一族を狩る者。
 宇野家には、解者に対する情報はその程度のものしかない。
 鳴海家当主は、禁忌を犯した者に容赦のない制裁を加えたが、それが禁忌である理由を話す事はなく、常人とは明らかに違う一族の体質についても語る事はなかった。その在り方に意義を唱え、反旗を翻さんとした傍流筆頭の宇野家が強く迫っても、代々の当主が抱えて来た秘密の一端すら明かされることは無かったと聞いていても、今ひとつ実感はない。
 宇野家にとって、それは酷く心許ないことであり、幼い頃から自らを強く律することを余儀なくさせていた。
「……『解者になった歳』って、どういう意味ですか」
「そのままの意味だよ。高校二年生の時に、解者になった」
「それって、」
 みっともなく声が掠れて、千暁はそれ以上の言葉を閉じた。
 対する夕月の方が、むしろあっけらかんと言葉を継いだ。
「元から、こんなイキモノだったわけじゃ、ないよ」
 屈託のない口調の割に、それ以上の問いを許さぬ拒絶があった。
 お茶は、既に飲み頃の温度になっていたのだろう、のんびりと夕月はお茶を啜る。
「やっぱり、他人に淹れてもらったお茶は美味しいね」
 にっこりと、彼女は笑った。



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