黄昏の章

桜降る日に

─ prologue ─

 その桜並木は、地方の小都市を貫く川沿いに延々続いている。
 菜の花が揺れる土手を、蒲公英や空の欠片のようなイヌフグリの花、白詰草などが彩り、その向こうには蓮華草の赤紫色に染まる田圃がのどかに広がっていた。
 高校への通学途中にあるそこは、どんなときでも、紗夜(さや)だけものだった。
 彼女の私有地というわけではない。ただ、紗夜以外に訪れる者が何故かいないだけだ。
 上流にある市街地では、毎年恒例の桜祭りが催され、夜店も出て賑やかしい。少し下流に行けば、見事な桜の古木を中心に花見を楽しむ人の姿も多く、いつの間にか花見会場となっている。
 おそらくそこは、誰からも忘れられた場所なのだろう。
 始業式を終えた教室では、友人同士連れだって、桜祭りに行く話に花が咲いていた。彼女も、当たり前のように誘われはしたのだが、祖父の体調を理由に断り、ここに立ち寄って時を過ごしている。
 祖父のせいで、友人たちと遊びに出掛けられないと拗ねてのことでも、家に帰るのを厭ってのことでもない。ただ、一人になりたいだけだった。
 盛りを過ぎ、風が枝を揺らす度に、花びらがこぼれて散ってゆく。
 時折、不安を呼び起こすようなざわめきを、強い風が運んでくる。並木の桜樹が、まるで生き物のように体を震わせているかのよう。菜の花の群れに体を埋もれさせて、彼女は自分で自分の肩を抱いて、空を見上げた。
 春の空は、檻を思わせる。
 生きとし生けるものが目覚め、光にも力強さがみなぎっているというのに、薄いベールを掛けたような澄み切らない空の青に、閉塞感を感じてしまうのだ。
 ……?
 気配を感じて、紗夜は振り向いた。
 土手の上に立つ人影に、見覚えはない。スプリングコートに細身のパンツ、風に乱されている髪。上から下まで黒ずくめで、性別をすぐには判断しかねた。
 けれども、その正体を、紗夜ははっきりと感じていた。ぎりっと奥歯を噛む音で、緊張していることを自覚した彼女の表情は、常になく険しくなっていた。
 紗夜の視線を感じてか、その黒ずくめは、挨拶代わりに軽く手を挙げ、土手に降りてきた。
 近くで見れば、繊細な顔の作りやほっそりとした首は、明らかに少女のものだ。年の頃は紗夜と同じくらいだろうか。つり気味の目が、顔の印象をきつくしているが、とりあえず友好的といえる笑みを浮かべている。
「あなた、虚人(うつろびと)、でしょう?」
 立ち上がった紗夜の顔は、青ざめ、言葉も、折からの風にかき消されそうな細さで、震えていないのが不思議なくらいだ。
 それはまるで、幽霊でも見たかのようだったが、彼女の姿は普通にそこに在り、地に影を落としており、不審な点を見付ける事は、少なくとも普通の人間には出来そうにない。
 すっと黒ずくめの少女が腕を横に伸ばした。
 その手の中にはどこから現れたものか、およそ死神くらいしか使い手のなさそうな大鎌が握られていた。事も無げに刃で空を切り、持ち手を変える。
 この世の者ではない虚人の中でも、彼女は──。
「……同族殺しの猟犬……」
 愉快な呼ばれ方でもあるまいに、邪気の無い笑みを返されて、逆にひるんでしまった事を見透かされまいと、紗夜は堅くこぶしを握り締めた。
 この世に、というよりは、どの世界にも属さない『虚人』という存在がある。その中でも、武器を手にしている者を紗夜の一族は皮肉を込めて『猟犬』などと呼ぶこともあるけれど、彼らは自分たちの事を『解者(かいじゃ)』と呼称する。
 それを紗夜は知っていたし、どう聞いても悪意を含んだ呼び方を好んでもいない。彼らは、時の流れの澱みを清め、運命の糸の縺れを解くために存在しているのだと祖母から聞かされてきたからだ。
 だから、紗夜が嫌悪を現したのは、彼らが『縺者(れんじゃ)』と呼ぶ存在を狩り、喰らうことに対してではないし、狩りの獲物になる者が、紗夜の一族の血筋に連なるものからも出ていることでもない。ややこしいことに、鳴海家は解者とは共存の関係にあるという煩わしさを厭ってのことでもない。
 同じ解者を殺し、本来はつがいのようにふたり一組で動く彼らの中で、唯一単独行の解者がいると──その者は、古めかしい大鎌をふるうのだと聞いたのはいつのことだったか。
「手を出さないで。鳴海(なるみ)家のことは、あたしが、決着を付けるの」
 紗夜は、自分よりも十センチほど上背のある少女を正面から睨み付けた。
 目の端に映る大鎌が、自分に向けて振るわれるとは微塵も思っていないような強気さで。
 それに気圧された訳でもないだろうが、少女が柄を掴んでいた手を離すと同時に、大鎌の姿は跡形もなく消えた。
「私は、傍観者になりに来た」
「……解者が傍観者?」
 思ってもいない言葉に、声が少し裏返った。
「鳴海家が、運命の糸を絡ます原因になることは多いけれど、必ずそうなるとは限らない。そしてあなたは、自分で決着を付けると言う。それなら、私は傍観者になるだけだ」
 吹き抜ける風の冷たさは、冬の名残。夕方からは、春の嵐になるという天気予報は外れそうにない。うるさいほどの桜並木のざわめきが周囲に立ちはだかって、まるでその場所に閉じこめられたかののうな錯覚に陥らせる。
「でも、もし私が事を納められなかったら……」
「それは、考える必要のないこと。あなたは、必ずきちんと事を納めるし、それを私は見届けるよ」
 ぱたりと風がやむ。
 降ってくる花びらに誘われて紗夜は空を見上げた、僅かの間に、黒ずくめの少女の姿は消えていた。
 白昼夢ではない証拠に、草の上に足跡が残っている。
 再び吹き付けた冷たい風に、紗夜は体を震わせた。


 自宅に帰ると、朝方は風邪気味だといって寝ていた祖父の英二が、夕飯の支度に取りかかっていた。
「寝てなくて良いの?」
「ああ」
 もともと口数は少なく、過度な無茶をする人でもない。顔色もさほど悪くないところを見ると、昼間眠ったことで、体調はある程度回復したのだろう。痩せぎすだがかくしゃくとした姿は、七十を幾らか過ぎた歳には見えず、普段から健康な人ではある。
「着替えたらすぐ手伝うから」
「……出掛けないのか」
 二階に上がろうと階段に足をかけた紗夜の背中に、英二は手を止めることなく尋ねた。
「どうして?」
「今日から桜祭りだろう」
 市の方針なのか、市民がお祭り好きなのか、基本的には四月第一週の金曜日から日曜日まで開催される桜祭りは、遡れば江戸時代初期から行われていたらしい。特に桜が見事なのは川沿いにある丘で、元は、その中腹にある神社の祭事だったのだという。それが、いつの間にやら花見がメインのお祭りとなってしまったのは、実はさほど古い話でもない。
「そんなの毎年やってるし、人混み、好きじゃないもの」
「そうか」
「そうよ」
 殊更、祖父の体調を気遣った訳ではなかった。
 子供の頃は、祖父母に連れられて出かけた事もあるし、中学生の時はクラスメートたちと一緒に夜店を回った。確かに楽しいひと時であるけれど、それを無邪気に享受する時期を、紗夜はもう越してしまっていた。
 いつもより、いささか早い夕食の後、片づけは紗夜に任せて、英二は先に休むと部屋に引き上げた。
 ふきんもきれいに洗って、台所の片づけを済ませると、テレビのニュース番組は終わって、バラエティ番組が始まっていた。チャンネルを変えてはみたものの、興味を引かれるものもない。テレビを切ってしまうと居間に静寂が落ち、いつの間に降り出したものか雨音がしていた。
 年が明けてから程なく買ったばかりの大型の液晶テレビは、目が悪くなってきた英二が、珍しく欲しがったものだ。ビデオラックを兼ねているテレビ台には、古い映画のDVDが何本かしまってある。一昨年、祖母の志津が亡くなってから、増えたもののひとつだ。趣味と言えば、裏の畑の手入れと、ぼんやりタバコを吸うことばかりかと思っていた紗夜には、意外なことだった。志津は癇癪持ちではあったが、基本的には夫に従う、古き良き妻という風情だったから、婿養子とはいえ、英二が志津に何か遠慮していたとは思っていなかったのだった。
 篠つく雨音ばかりでなく、風が鳴る音まで聞こえてくる。
 英二がヒーターを入れていたから感じなかっただけで、ずいぶんと冷え込んでいた。桜が開き始めてから、風邪を引かない方が不思議なほど不安定な陽気が続き、満開になるまでにも焦れったいほどだったのだが、ようやく満開になったのを見計らったような、春の嵐の来襲だった。

 翌朝、既に雨は上がって、光が射していた。
 夜が明けたばかりの空気は、冷たく、静謐だ。
 薄もやの中、紗夜はあの場所に向かった。
 昨夜の風に散らされて、昼前には、花見客にすっかり踏み荒らされてしまうだろう、並木道に降り積もった花びらの上には、まだ人の足跡は見あたらない。
 まさに桜色の絨毯に覆われた砂利道を、花びらに隠れた水たまりを避けながら、紗夜はゆっくりと歩いた。その一歩毎に花びらを踏みしめ、足の裏に伝わる、いつもと違うやわらかな感触を楽しむのは、ささやか贅沢だ。
 これほど散っても尚、まだ花は盛り、紅色の萼は、色に深みを与えるばかり。
 風が無くとも枝から花びらがこぼれてくる。
 暖かな黄色の細波にも見える菜の花の群れを見やれば、やはりそれは予想していた通りに。
「同族殺しの……」
 黒ずくめの人影が、昨日、紗夜が座っていた場所に佇んでいた。
 聞こえたとも思えぬ微かな声にもかかわらず、菜の花の中で、まるで、待ち人を迎えるような顔で、彼女は振り返った。
「その呼び方は、さすがに遠慮して欲しいよ」
 自嘲めいた顔でそういうと、軽く頭を振り、すぐに表情を変えた。
「昨日、名乗り損ねたのが良くなかったね。私は瀬尾夕月(せのおゆづき)。あなたは?」
 意外に人懐こい笑みを向けられて、紗夜は戸惑う。
 解者と鳴海家は、共生関係にありながら確執が無いとは言えない。鳴海家の者は、遠い昔から、彼らの狩りの対象にされてきているからだ。そして、自分が狩られる対象に成りうることを自覚していた。鳴海家の血筋には、不可思議な力を持つ者が時折生まれる。かつては、ほとんどの者がそうだったというが、血は薄まり、今では稀な存在となった。が、因子を持つ影響は残っており、それは鳴海家とその分家である宇野家との長い争いを終わらせてくれない。鳴海家が解者に手を貸していることも、それを助長しているのだが。
「あなた、何者」
 夕月の問いには答えず、拳を握りしめて、紗夜は声を絞り出した。
「ただの解者だよ、鳴海の当主」
「嘘」
 きついまなざしに、夕月はさすがに笑みを閉ざすと、
「……それもそうか」
 と、困ったように、軽く握った拳を口元にあてた。
 『同族殺しの猟犬』というのは、あくまで紗夜たちの側が与えた呼び名だ。真実かどうかは分からない。けれど真偽を判断する材料を、紗夜が持ち得るわけもない。
「どこから伝わった話なんだろうね。おおかた、マサヤとシンあたりがしゃべったんだろうけれど……」
 独りごちて、夕月は軽くため息をついた。
「解者を殺したのは本当だし、組む相手もいないし……、確かに解者としては、不完全というか、規格外だよねぇ」
 内容にそぐわない、のんびりとした口調でそう言うと、軽く肩をすくめて、川面の方に向き直る。
 古くからこの地域の田畑を支えてきた川の流れは、きらきらと朝日を弾き、今ばかりは薄紅の欠片を載せてゆく。
「何故……仲間を殺したの」
 紗夜は精一杯の虚勢を張った。挑発になると分かっていて、その問いを発した。
 が、その背中に何の変化もない。
 耳元を過ぎゆく風の音が気持ちを苛立たせる。煩わしげに顔に掛かる髪を耳に引っかけた。
「仲間じゃ、ないよ」
 かすれた声が風に紛れた。
 仮面のような微笑を貼り付けた顔が振り返る。
 けれど、拳を握りしめていなければ、がたがたとみっともなく震えだしてしまいそうなほど冷たい夕月の目は、紗夜を正視しなかった。視線こそ向けられていても、瞳に映るのは、現在の風景ではないのだろう。
「私があいつらを殺したのは、まだ人間だった時のことだから」
「え……?」
 夕月が『あいつら』と呼んだモノは彼女と同じ解者に違いないのに、まるで別物のように、冷たく響いた。
「ここじゃない、別の世界でね、普通に、高校生だった」
 紗夜は、まじまじと夕月を見つめた。
 角や翼が生えているわけでもない。不可思議な武器を使うが、不可思議な力を持っているという点において、普通の人間でないのは、紗夜も同じ。だからといって、解者がもともと、普通に暮らしていた人間だったなど、聞いたことも考えたこともなかった。
 それでも、そこに立っているのは、紗夜と同じ年頃の、少女だ。
「どうして……」
「解者を殺したから」
 半ば混乱した紗夜の問いに、夕月は躊躇うことなく答える。
「……本当のところ、自分が何をしたのか、はっきりと覚えてるわけじゃないけど、あいつらを殺した償いをしなくてはならなかったし……そうせざる得なかった」
 瞳の冷たい光が消え、夕月は頭を垂れた。
 微笑っているのに、泣くのを我慢する子供のようにも見えるのは、あまりにのどかに揺れる菜の花のせいだろうか。
 一歩、踏み出していた
 風のなすがままに、髪を乱されているのが、あまりに頼りなく見える。
 彼女が解者であることよりも、何故か、自分に近しい存在のような気がしていた。
 躊躇いながらも、夕月の腕に触れようと手を伸ばして、
「きゃっ」
 場違いなほど、間抜けた悲鳴を上がった。
 何のことはない、雨に濡れた下草に足をとられたのだ。
 気付けば、しっかり体を支えてくれている夕月の驚いた顔が間近にあった。
「ありがと……」
「どういたしまして」
 しばらくは、やや呆然として顔を見合わせていた二人は、どちらからともなく笑い出した。
 同じクラスになったばかりの相手とのように、最初はぎこちなく、やがて、幼なじみのように、開けっぴろげに。
 ようやく笑いを納めて、紗夜はしっかりと夕月の顔を見た。
「私は、鳴海紗夜というの」
 腕を掴んでいた夕月の手が離れて、ふっと寒くなる。暖かな手を持つ存在なのだと、今更のように気付いた。
「見届けてね、夕月」
 やわらかな笑みの中で、決然とした光が瞳に宿っている。
 夕月は、うなずいた。
 ひときわ強い風が、吹き通り、花びらが降る。
 二人が見上げた空は、桜の時期にしては珍しい、澄み通った青色をしていた。



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