黄昏の章
あるはずのない場所
─ 7 ─
はっと目が覚めて、反射的に千暁は身体を起こした。
寝間着代わりのTシャツが、汗でべっとりと背中に張り付いていて気持ちが悪い。顔に掛かる前髪をかきあげると、湿った手触りがした。
夜明けが近いのだろう、鳥のさえずりが聞こえていた。カーテンの向こうも薄明るい。
まだ起きるには早い時刻だが、もう一度眠る気にはなれなかった。
机の引き出しの奥からまるでお守りのようにそっと取り出して、両手で握りしめたのは、折り畳みナイフだ。
この夢を見ると、しばらく手の震えが止まらない。
いくら怒りに駆られたからといって、あれほど簡単にナイフを手にした自分が恐ろしかった。
けれど、後悔はしていない。
──そんな事、許されないだろう?
排除する方法がそれしか無いのならば、どんな手段であっても躊躇うなど。
あの日、鳴海紗夜を傷つけるつもりが全くなかったなどと言わない。そうでなければナイフなど忍ばせて行くはずも無い。だからといって、それを頼みにするつもりは毛頭なかった。が、易い挑発にまんまと乗ってしまったのは他ならぬ千暁だ。
そして、中途半端な覚悟が露見してしまった。
あの僅かなためらいが、なによりの証だ。
その後の事は、正直思い出したくない。
気が付いたときには、ナイフはたたき落とされていた。とっさに両腕で相手の蹴りを防ぐことが出来たのは、自慢出来る事ではないが、多分通常の八割増くらいはある喧嘩の経験値のおかげだろう。それでも、気配を欠片も感じなかった者の登場に、気は動転していた。
紗夜と千暁の間に入ったのは、千暁たちと同年代の少女だった。隙の無さに、手加減や躊躇する余裕はありそうにないが、背丈は少女にしては高いが、体付きは華奢で、体格的には確実に分があった。
こんな形で後手に回った事も初めてで、気ばかりが焦っていたのだと、今なら分かる。
少女の視線が千暁から外れた瞬間、一気に間合いを詰め、掌底で倒すつもりで腕を突き出した。だが、あっさりと交わされ、崩し掛けたバランスをとって態勢を立て直す前に、彼女の容赦ない回し蹴りが、千暁の胴に入っていた。
受け身を取り損ねた上に、飛石に足を取られて踏みとどまることが出来なかった。庭石で強かに頭を打ち、揺らいだ意識でさえも、肋にヒビが入ったことを千暁は悟った。呼吸が出来ないほどの痛みに、思わず咳き込むと、さらに強い痛みとなって全身を苛んだ。限度を越した苦痛は吐き気を伴うのだと、頭の片隅で酷く冷静にそんなことを感じていた。
「無駄なことは、やめよう。全ての幕を下ろす為に、紗夜は必要なのだから」
傍らに立った少女の言葉に、千暁の頭に血が上る。だが、反撃をする力が残っていたとしても、彼女にはまるで隙がない。
「一体……何者?」
ようやく絞り出した、微かな声。少女は、ゆっくりと千暁の落としたナイフを拾い上げた。ぱちん、と刃を畳み、掌で握り込む。そして、再び開かれたその手の中から、銀の光が粒子となって舞い上がって、消えてゆくのを見届けて、千暁の方に向き直り、真横に腕を伸ばした。
空の手に、『死神の鎌』としか呼びようのない大鎌が現れ、握られた。軽々とひと振りし、千暁の喉元に刃の背を突きつける。
──解者か!
どうして最初に気付かなかったのかと、千暁は歯噛みする。
明らかに違う空気を纏っているのに、紗夜もまた、常人にはない空気を纏っているから、分からなかったのだ。
「……人狩りが、どうして、鳴海を守るんだ……」
わざわざ、人聞きの悪い名称を口にしたのは、千暁なりの意地だったが、少女は意に介した様子は無かった。
「鳴海を守ったんじゃない。紗夜は友人なんだ。別にお前を狩る気もない」
少女がそう言うと、千暁のナイフと同じように、その手の中で光の粒子と化して、死神の大鎌は消え失せた。
「……病院に連れて行った方がいいわね」
完全に傍観者と化していた紗夜は、半ば呆れた様子でそう言った。
「傷害事件にされそうな気がするなあ……」
「それもそうね。宇野千暁、あなた、夕月の事、傷害で訴えたい?」
そのあたりのくだりは、怒りのあまり、「ふざけんな!」と捨て台詞を残したことくらいしか覚えていない。
電車の中で、奇異な目で見られていることに気付いて、頭を打ったところが切れていたことを知った。慌ててハンカチを当ててみると、自分でもぎょっとするほどの血が付いていて、どう母親に言い訳しようか、そればかり考えていた。
既に門限は過ぎていて、当然携帯電話には、何件入っているのか数えたくもない多佳子からの着信履歴が残っていた。
帰宅して、こそこそと髪にべっとり付いた血を洗い流しているところを母親に見咎められて、入院に至るわけだが、それもひとつの必然だったのかも知れない。
入院生活三日目のこと。
熱で一日中うつらうつらしていたせいか、千暁は夜中に目を覚ました。
時間の感覚は失われていたけれど、部屋の暗さでなんとなく夜なのだと意識はあった。
軽く身じろぎしただけでも痛む身体をもぞもぞと起こして、傍らのテーブルに手を伸ばしたが、昼間、置いてあったような気がするペットボトルは、母親が帰り際に冷蔵庫に仕舞ったのか見当たらなかった。
不意に、薄闇の中で影が動いたのに気付いて、千暁は全身を緊張させた。
倍増した痛みに、奥歯を噛み締めて呻き声を堪える。その状態で対処する術など何一つありはしなかったのだが。
「水、取ろうか」
のんびりとした声の主は、開いたカーテンの向こうに昇った居待ち月を背負って窓辺に立っていた。
まだ歳若い──おそらくは千暁と同年代の少女の声に、心当たりは無かった。
冷蔵庫が開き、その光に眼鏡のレンズが反射した。僅かの間、浮かび上がった姿に見覚えも無い。
きゅ、っとキャップを捻る音がした。
「はい」
よく冷えたペットボトルを手に握らされて、とりあえずは喉の乾きを癒した。もっとも、欲望のまま一気に飲んでしまう事はとても出来なかったが。
痛みを堪えながら、三分の一ほどの見終える頃には、室内の薄闇にも慣れて、傍らに立つ者の姿がようやく見え始めた。
それでも、それが誰だか分からなかった。
「……誰?」
「瀬尾夕月」
朗らかに彼女は名乗り、薦められもしないのに、傍らの丸椅子に腰を降ろした。
「……えーと……」
記憶に引っ掛かりはした。けれど、過去の知人にその名が無いことだけは分かる。
──何処で、その名を聞いた?
胸の内で警鐘は鳴っていたが、その正体がまるでつかめない。
淡い月光の中にいるのは、長袖のデニムシャツにジーンズ、適当に結わいた髪に眼鏡という、田舎町なら何処にでも居そうな風体の少女だ。
「あ、そうそう、これ、お見舞い」
渡されたのは、庭先に咲いていた花を数本切って、そのまま持って来たかのような、いや、おそらくそうなのだろう、アイリスの花束。
「これはおまけ」
追加で渡されたのは、千暁も本屋で見かけた事のあるミステリ小説の文庫本だった。
「えーと、ありがとうございます……?」
見知らぬ他人に見舞いの品を渡されて、語尾が上がってしまったが面白かったのか、
「別にいいよ、お詫びも兼ねてるから」
という応えには、やや笑いが含まれていた。
「お詫び?」
「うん。怪我させちゃったからさ」
そこまで言われて、ようやく気付いたのだった。
「あの時の、解者!」
咄嗟に動こうにも、千暁の身体は言う事を聞かなかった。ベッドから落ちそうになり、夕月に支えられて、どうにか事なきを得た。
自分一人では体勢を戻すことが出来ず、夕月の手を借りてなんとか身体を安定させると、千暁はその手を邪見に振り払った。
「何しに来たんだよ。このざまを嘲笑いにか?」
「まさか。お詫びを兼ねたお見舞いだよ」
「え?」
「怪我させるつもりはなかったんだけど、こんなことになっちゃって申し訳なくて。ごめんね」
まるで昼間に喧嘩した友達が、夜になってこっそり謝りに来たような風情に、千暁の激昂しかけた頭が、少し冷えた。
「あんた、莫迦にしに来たんだろ」
「莫迦なことしでかすなあとは思ったけど、紗夜はあんな言い草だし、宇野家は、鳴海家と別れた時、あんまり知識は分けてもらえなかったんでしょ。しょうがないよ」
率直に答えが返って来て、千暁は切り返す言葉を失った。
やわらかな口調に、穏やかな表情。
そこには、あの時のような冷徹さなどなかった。怪我人を労る同情というよりは、性根の優しさのような気がして、千暁は痛む肋に手をやった。
──そんなわけはない。
目の前にいるのは解者で、古くから宇野家や鳴海家の者を狩ってきた者たちの一人なのだ。ともすれば、千暁自身がその対象になる可能性も少なくない。
「ねえ、紗夜のこと、もう少しの間、放っておいてあげてくれないかな」
その言葉に、ほんの少し緩みかけた緊張の糸が、一瞬で限界まで張り詰めた。
「出来る訳、ない」
腹の底から、憎悪が沸き上がってくると、普段纏っている感覚の膜が薄れていった。
「お父さんを紗夜が殺したから?」
さらりと、夕月はそれを口にしてのけた。
もちろん、それは大きな要因のひとつだが、きっかけに過ぎない。
父親を殺されたから、その復讐を果たすなどという安っぽい短絡さでやった事ではないのだと、少なくとも千暁自身は思い込もうとしていた。
「でもさー、お父さんがしたことの意味、ちゃんと分かってる?」
あの時、紗夜はなんと言ったか──
『決して破られてはならない約束を踏みにじったのだから』
そんなもの、宇野家の人間は、知らない。知らされていない。
千暁は、ぶるっと身を震わせる。
とてつもなく、嫌な予感に押しつぶされまいと、
「……じゃあ、鳴海紗夜は、人殺しをしたことの意味を分かってるのかよ」
そんな言葉で不安を塗りつぶした。
紗夜が、鳴海家当主となったのは二年前、まだ十四歳の時だったと聞いていた。その若さで当主を継ぐことになったことに、同情はできる。けれど、その若さで、他者の命を左右する事の重さを理解しているとは思えない。よしんば理解していたとしても、許せざる事には変わりはないのだが。なにより、その重責を背負えるとは思えなかった。
「紗夜は、ちゃんと分かってるよ」
穏やかに、夕月は言った。
「あんな喧嘩腰じゃなくて、ちゃんと話してみるといい」
責めるような色はまるでなかった。諭すような上段な感じもない。
だからこそ不思議になったのだ。
千暁は剣呑な口調で問う。
「どうして、解者が鳴海家に肩入れしている?」
「鳴海家にじゃなくて、紗夜は友達だから」
夕月はやわらかな顔をしていた。
「意味分かんねーよ」
そんな千暁の言い捨てにも、ほんの少し苦笑を漏らしただけで、「そうかもね」と呟くと、徐に立ち上がった。
「そろそろ帰るよ。っと、これも返さないとね」
手渡されたのは、あの時、幻のように消えたはずの、千暁のナイフだった。
「怪我、お大事にね」
「大きなお世話だ」
反射で応えてしまった千暁に、夕月はひらひらと手を振って、音も無く病室を出て行った。
残された千暁の方は、たまったものではない。
ぐるぐると熱いものが頭の中で渦巻いて、身体の痛みさえ無ければ部屋中の物を壁に投げつけて八つ当たりしていたかも知れない。
余りにも、情報が無さ過ぎた。
元は同じ一族なのに、宇野家の当主である自分よりも、解者の方が鳴海家についてよく知っているということが、酷く口惜しかった。
剣のような青い花が残されていなければ。
──夢だとでも思うことができたのに。
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