黄昏の章

青の領域

─4─

 からりと空気が乾いていた。頭上には高く澄んだ青空が広がっていて、そこにもう夏の色はない。容赦ない陽射しに灼かれ続けた緑は色褪せて、ゆっくりと枯れていく、今はその途中で、何かとても曖昧な感じがした。
 何が、と問われても答えられない、とても漠然としたもの。生命が廻る過程のどこか、生なのか死なのか、そのシフトした場所の所在だとか意味だとか。
 豊穣さが具現する季節を厭う者は少ない。
 狂乱のような夏の暑さを越えた安堵と共に、実りを享受できるのだから当たり前とはいえ、千暁自身は、ゆっくりと滅びていくような不安を持ってしまうこの季節が余り好きではなかった。
 盛りをまだ迎えてもいない若者の傲慢さ千暁が気付くには、まだ幾らかの年月が必要だ。
 いつもの遊歩道は、甘い香りが漂っている。
 先日の雨で落ちたのだろう、赤茶色に舗装された路面には、星に似た小さな花が散らばっていた。特に意識しなくても、毎年、季節が移った事を実感するのはこの花の時期だ。
 思考をを集中させるよりも、むしろ弛緩させ拡散させるような香りの中、千暁は家路をたどる。
 まだ、何処にも行かない。
 でも、気持ちは固まっている。

 金曜日の夜、千暁は久しぶりに綾人に電話をした。
『久しぶり!』
 綾人は明るい声をしていて、千暁に何か思うところなど無いことは、それだけで分かった。
「お前、この間、こっちに来てただろ」
『なんだ、見かけたんなら声掛けてよ』
「駅中のマックにいたんだよ。宮下が必死で手ぇ、振ってた」
『うわー、気が付かなかった。でも、なんかありありと浮かぶよ、それ』
 笑いながら、千暁はどうしてたのさ、と言う綾人に、
「女連れのとこ、声かけるような野暮な事はしないよ」
 と、からかうような口調で言ってみる。
『ああ、夕月さんのこと? あの人は、今お世話になってる親戚の知り合いで、用事を頼まれただけだよ』
 声には、揺らぎも惑いも無い。
 自分に一番近しいこの友人が、こんな簡単なひっかけすら避けられないほど、腹芸に向かない性格でないことを千暁はよく知っていた。
「明後日の午後、会えないか?」
『明後日って、土曜日だよね。ちょっと待って』
 どうやら手帳か何かを捲っているようで、ごそごそとノイズが入る。
『うん、大丈夫。何処にする?』
 駅前に新しく出来た外資系のカフェに午後二時という約束をして、通話を終えた。
 ゆっくりと深呼吸をして、携帯電話を閉じる。
 何を聞くべきか。
 勉強机の上に肘を付き、組んだ手の上に額を載せて千暁は目を閉じた。

 電車を降り、腕時計に目を落として、千暁は小さく息を吐いた。
 針は午後一時半を指している。
 携帯電話の電源は落としてあった。母親には、受験勉強の息抜きに映画を観てくるから、ケイタイに連絡を貰っても多分出られないと告げてある。
 青い空に鰯雲。
 絵に書いたような秋空の下、頭の中はすっきりしていた。
 さっさと、認めてしまえば良かったのだ。
 自分に出来る事は、知る事しか無いのだと。その為には意に添わぬ相手にも頭を下げざる得ないのだと。
 それは、千暁の矜持を傷つけるものでもあったが、これ以上手をこまねいて、結果、何もせずに上京することになる方が屈辱的でもある。
 いけ好かない、ひとつ年下の少女。
 奇しくも、若くして当主になってはいるが、背負っているものの重さは、おそらく比べようも無い。とても同じラインに立っているなどと言えるほど、千暁は厚顔にはなれなかった。
 あの日、固く閉ざされていた門は、まるで千暁を迎え入れる為であるかの如く、開いていた。
 ぱちん。
 何かを断つ音がしていた。
 白く可憐な花が群れて咲く枝に花鋏の刃を入れているのは、まぎれも無く紗夜だった。モスグリーンのワンピースにアイボリーのカーディガンを羽織った格好は、過日の制服姿より大人びて見える。
 そこにいるのはとうに気が付いているだろうに、更に二、三本摘み取って、ようやく紗夜は千暁の方に向き直った。
 腕いっぱいに抱えているのは、庭に咲いた秋の花だ。それでもまだ庭の花壇は花に溢れているように見えて、夕月の家の庭は、今どうなっているのだろうと思わずにはいられなかった。
 ──懐かしい。
 そう感じるのは、少し不思議な気もしたが、あの庭を縁側の日だまりでまたゆっくりと眺めたいと思う。
 その為には。
「ようこそ、宇野の当主」
「話を、」
 しにきたのだと、最後まで言うまえに、紗夜は軽く頷き、千暁を家の中に招き入れた。



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