黄昏の章

青の領域

─7─

 時間は、やや遡る。
 駅前のロータリーにある時計が午後一時半を指し、ぽーんと一つ鐘の音を鳴らす、そのタイミングを見計らったように、待ち人は現れた。
「こんにちは」
 周囲に注意を払っているはずなのに、忽然と現れたかのようにすぐ側に立っていて、綾人はいつも驚かされる。印象として『掴めない人』だなあと思うのは、初めて顔を合わせた時に、目元のほくろが胡散臭いなどと言われたせいかも知れない。
「……こんにちは。これ、紗夜さんから」
 掌に乗るくらいの紙袋を綾人は夕月に渡した。
「わざわざ悪いね」
 その中身は、紗夜の家の庭に生っていた茱萸(ぐみ)の実だ。子供の頃の懐かしさを誘うものではあるが、その程度の有り難みしか感じない綾人にとって、一度ならず何度も届けさせられている事に多少疑問を持っていた。
「それ、そんなに好きなの?」
「んー、どうだろ」
 夕月は首を傾げた。
 概ね、綾人は常に薄い笑みを佩いたような穏やかな顔をしている。同じように温厚そうな雰囲気の千暁とつるんでいた頃は、相乗効果もあって、周囲にはのほほんな二人組と認識されてもいた。それが、ある程度作為的なものだと気付かないふりをするのは、とても楽だったし、気付く必要もないことだと思っていることに変わりはない。
 クラスの女子に、胡散臭い笑顔と失礼千万な評され方をすることも多々あるが、実際それは千暁の方だよなあ、と思いながらも、それこそまさに胡散臭い微笑で受け流せる。
 だから、夕月の、誠意が無いようにも見えるその仕草に苛立ちを感じているつもりはなく、少なくとも綾人自身はそう思っていたのだが。
「ああ、ごめん、わざわざ届けてくれてるのに」
 憮然とした顔になっていることに気付いて、殊更にっこりと綾人は微笑って見せた。
「今日はついでだし」
「ついで?」
「この後、友達と待ち合わせてる」
「ふうん」
 興味も無さげな相槌を打ったわりには、「お茶でもおごるよ。時間あるでしょ」と、綾人の返事も待たず、夕月はさっさと歩き出した。

 そこは、綾人がその地を離れた、ほんの半年ほどの間に出来たらしい紅茶専門店だった。
 昨年、駅ビルが完成してからというもの、驚くほどの勢いでその周囲は変化をし続けていて、進学先も自宅から通える大学のつもりでいた綾人は、取り残されたような寂しさを感じずにはいられない。
 ダージリン、アッサム、セイロン、ニルギリといった有名産地のものはもとより、それぞれに農園や茶葉が摘まれた時期の違いのものや、フレーバーティーやハーブティーの名がずらりと並ぶメニューから適当なものを選んだ。
 紗夜さんが好きそうだな、こういうの。
 そんなことを思いながら、メニューを眺めていても、意味は分からない。かといって、無言のまま向かい合わせで座っているのも、気詰まりでなんとなく居たたまれないし、この後、カフェで待ち合わせであることを考えると、いくら礼のつもりでもありがた迷惑のように思う。
 やがて、ふわりと花のような香りとともに、紅茶が運ばれて来た。
 小ぶりのティーポットを怪訝に眺めていると、砂時計が落ちたら、自分でティーカップに注いで下さいとにこやかに店員は告げて去って行った。
「薬代わりなんだよね」
 不意に、夕月が口を開いた。
「別に病気ってわけじゃないんだけどさ。その辺の薬を飲むより、これを食べる方が効くんだ」
 言われてみれば、顔色は良くない。これまで気付かなかったのは、夜に顔を合わせていたからというのもあるだろうが、こうして顔をまじまじと見ることがなかったからだろう。
 初めて顔を合わたのは紗夜の家だった。何度か訪れてはいたけれど、友人の夕月だと紹介されたきり、まともに言葉を交わしたことなどなかったから、顔などろくに覚えていなかった。およそ放課後や休日に友人と遊びにいくこともない紗夜が、笑顔で迎え入れ、笑い声をたてる相手という認識はあった。
 ──ああ、それでか。
 先刻、意識もせずに気分を害していた理由に思い当たって、知らず緊張していたらしい背中から力が抜けた。
 自分がないがしろにされたような気がしたからではなくて。
 本当に身体が弱いのか、紗夜の行動範囲は狭い。土日は紗夜からの頼まれごとと、紗夜の祖父から受けている講習に費やされてしまう。だから、夕月への届け物はいつも平日だった。
 夕暮れ時、紗夜が庭で赤い実を一粒一粒、丁寧にもぐ姿を思い出す。それを、わざわざ綾人に託すのだ。
 さも、当たり前のように、軽く顎を上げて。
 素直じゃない人だなあと思いながら、それを受け取り、届ける。
 そういう感情の揺れは、馴染まないけれど、存外心地良いものだった。
 夕月がティーポットを手にしたのを見て、砂時計が落ちたことに気付いた。
 慣れない手つきで、綾人も自分のティーカップに紅茶を注いだ。
 思っていた以上に濃い色に、シュガーポットに手を伸ばした途端、
「あ、こら、砂糖もミルクもまだ入れない!」
「え?」
 軽く睨まれて、仕方なしにそのままティーカップに口を付けると、やわらかな渋みと、甘い香りが口の中に広がった。
「紗夜に怒られたことは無かった?」
 思い返してみれば、いつも軽く眉を顰めていたような気もして、なるほどこういう訳だったのかと、申し訳なさが頭をもたげるとともに、もったいないことをしていたなあとしみじみと後悔していると、
「甘やかされてるねえ」
 くすくすと夕月が笑った。
 眼鏡の奥に、からかうような色があるが、不快な感じはしなかった。
「甘やかされてるって、紗夜さんの方が年下だよ」
「ああ、都築君は高三だっけ」
「夕月さんは?」
「……十七」
 僅かな間はともかく、見た目に疑問を差し挟む余地はない。タメ口だし、学年が一つ下なのか同じなのかは微妙なところだが、紗夜の友人なら、一つ下なのだろう。僅かに引っ掛かったのは、学年ではなく、年齢を告げたことだった。  それが完全に疑問として意識に上るのを遮るように、二時を知らせる時計の鐘が鳴り、綾人は慌てて立ち上がった。
「待ち合わせあるから。お茶、ごちそうさま」
「こちらこそありがとう。これ、紗夜に渡しておいてくれる?」
 ぽんと渡されたのは、小さくて軽い紙袋。それが、この紅茶専門店のものだと気付いたのは、帰宅して後のことだ。
「それと、今日は早めに帰った方がいいよ。夕立が来そうだから」
 ひらひらと手を振る夕月に軽く会釈を返して、綾人は待ち合わせの店へ向かった。

 高く澄んだ青空を見上げて、綾人は「まさかね」と微笑う。
 天気予報でも、今日は穏やかで雨の心配の無い一日になると告げていたではないか。
 その後、待ちぼうけを食わされた挙げ句に、土砂降りの雨に祟られることなど、綾人には知る由もないことだった。



inserted by FC2 system