黄昏の章

青の領域

─2─


 陸上部の威信に掛けて、かどうかはともかく、浅沼が僅差でゴールのテープを切ったのは一昨日の事だというのに、教室内は未だ弛緩した空気が漂っていた。
「お前ら、気ぃ抜くなよ、学校祭は終わったんだからな」
 受験とは関係が無いため、普段から好き放題内職されている倫理の教師が、珍しく苦言を口にした。
 いつもなら、倫理の教科書ではなく、英語だの数学だののテキストを平気の平左で開いている生徒たちに注意する事は滅多にないのだが。
 とはいえ、それもまた例年の事、それ以上の事は言わなかった。
「なんか、今頃筋肉痛に出てきちゃったよー」
「あたしもー」
 などと長閑な会話が展開されている放課後の教室を後にして、久方ぶりにクラスメイトたちと駅前に繰り出した。目的地は、学生御用達のファーストフードショップだ。中途半端な空腹を満たそうという学生でそれなりに込んでいたが、ちょうど入れ違いに出て行ったグループがいて、上手い事テーブルひとつ占領できた。
 最近は、多少帰宅が遅くなったくらいでは、多佳子から携帯電話に連絡が入るような事も無くなったが、前もって、友人たちとファーストフードに寄ってから帰るとメールだけ入れておいた。その間に友人たちは既に何やら盛り上がっている。
「やっぱ浅沼、すごかったなー」
「あれでどんくさくなかったら、インターハイ出られたかもなんだろ?」
 クラスでもお調子者で通っている彼は、県大会決勝まで進んでおきながら、トラックへ向かう途中で競技場の階段から落ちるという、前代未聞のドジをやらかした。それがどれほどの影響をもたらしたのかは本人のみぞ知るところだが、培って来た実力が発揮出来なかったのは残された記録からして明らかだった。
「あ、わり」
 さすがに、軽々しく口にするような事ではないと気付いて、武川がそう言うと
「いーの、いーの。どうせこの足で食って行けるほどの力も無いんだしさー、あれで俺は全ての悪運を使い果たした!」
 ぱん! と己の太ももを叩き、明るくさっぱりと浅沼は笑い飛ばした。
「……それ、ちょっと違わね?」
「国語は文系にまかしとけ。俺は理系なんだよ、工学部志望なんだよ」
「お前、国公立狙ってなかったっけ。国語は必須だろ」
 良いようにからかわれて、ふてくされたようにハンバーガーに齧りついていると、クラスメイトと言うよりは後輩のようで、余計に遊ばれている事に、残念ながら気付いていないのは、彼の愛すべき性質かも知れない。
 一緒になって笑いながら、ふと、千暁は視界の片隅をよぎったものに意識を移した。夕方の通勤通学ラッシュの人ごみの中で。
 ──何故ここに?
「あ、都築じゃん、あれ」
 宮下が、窓の外を指差した。
「誰?」
 中学の違う武川と浅沼には、このあたりでは有名な高偏差値の私立高校の生徒としか認識出来ない。
「中学んときの友達」
 懐かしむような穏やかな顔で千暁は答えたが、近所で幼馴染みだ、と言う事までは話さなかった。
 ガラス越しに、ぶんぶんと手を振る宮下に気付く事無く、綾人は改札口の方へ行ってしまった。
「あー、行っちゃった……」
「そりゃこんなとこから手ぇ振ったって気が付かないって。はずかしーヤツ」
 先刻の意趣返しとばかりに、憎まれ口を叩く浅沼をスルーして、宮下はしみじみと呟いた。
「なんか、すっかりオトナびたなー、あいつ」
 こうして、離れたところから見て、千暁も納得する。
 今思っても、子供じみたバカを一緒にやって笑っていたのが、つい最近の事のような気がするのに、一足飛びにそんな時期を越えてしまったかのような落ち着きが感じられた。
 傍目に、ただその横顔と後ろ姿を見ただけでそんなことを思うのもおかしな話ではあるのだが。
「なんかさー、すげーモテそう」
 端的に武川が評した。
「カノジョいるとか、きいてない?」
「知らないけど、あいつ行ってるの、男子校だろ」
「隣に、あるだろ、女子校が!」
 宮下がエキサイトする理由はともかくとして、確かに、幼稚舎から大学まで備えたキリスト教系お嬢様学園がある。制服は古式ゆかしいセーラ服、スカートは今時膝丈という。ただ、今それどころじゃないだろうことを、もちろん千暁は話すつもりは無い。
「なんか、俺らの高校って、いろいろと地味だよな……」
 ポテトまで空にした浅沼が、クラスの女子に聞かれたら半殺しの目に遭いそうな最終的な自己評価を下した。
「うわ、それ言うか!」
 半ば自虐的なネタで盛り上がりながら、千暁は人ごみの中をすり抜けるように駅構内を出て行った夕月の後ろ姿を思い返していた。



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