黄昏の章

すべて不完全なるもの

─ 2 ─

「そうやって澄ました顔したあんたがからかわれてるところ、見たかったなー」
 そんな顛末を話すと、夕月はさも可笑しそうに笑い声を立てた。
 土曜日の昼下がりに相応しい軽やかさに、怒る気も削がれて、千暁はただ苦笑を滲ませるほかない。
 夏の間は、冷蔵庫にしか用のなかった台所は、ダイニングも兼ねていて、だいたい十畳くらいだろうか。薦められるままに付いたテーブルには椅子が四脚、もとは家族が住んでいたことを匂わせた。
 白地の縁を淡い色の花模様が飾る、レトロなテーブルに置かれたのは、ボーンチャイナのティーカップだった。見た目はミルクティーなのだが、甘さのあるスパイシーな香りが鼻をくすぐる。
「悪いね、わざわざ」
 そう言った夕月の手には、千暁が届けた小さな赤い実が数粒載った小皿があった。
「それ、何ですか?」
「秋茱萸。食べてみる?」
 すっと差し出された皿からつまんだ一粒を口にして、思わず千暁は顔をしかめた。
「あんまり美味しくないよね」
 嘲笑うでもなく、夕月も秋茱萸を口に放り込む。
「こんなもの、わざわざ?」
「薬みたいなもんだからね。まあ、気休めだけど」
「どっか、悪いんですか」
 尋ねるまでもなく、夕月の顔色は悪い。
「もともと、長期滞在型じゃないからね、身体に溜まってゆく澱を浄化できてないだけだよ」
 投げやりな言い方に、やはり歓迎はされてないのだと千暁は感じる。
 わざわざ綾人の代わりに届け物をしてくれた者、として、こうしてお茶でもてなされているだけなのだと。
 それでも、口に含んだミルクティーは、ほのかに甘く優しい味がした。
「ああ、千暁は知らないんだっけ。
 解者ってのは、普通、二人一組で行動するものなんだよ。元は人間とは言ってもね、解者ってイキモノになってしまうと、空気も水も食べ物も、これまでのように取り入れることが出来なくなって、少しずつ良くない物が身体に溜まっていくんだよ。それを、二人一組でなら、濾過することが出来るんだけどね。でも、独り者の私は、こうして虚界から流れ着いた植物の実に助けてもらってるわけ」
「虚界?」
「……宇野家の人間って、ほんっとに何にも伝えてもらってなかったんだねえ」
 半ば、感心したように言われて、恥じ入る気持ちにはなるものの、伝えられてきた知識は、事実上、千暁と篤史の間で途絶しているから、反論したくてもしようがなかった。
「いわゆる……ここみたいな世界を真界と呼ぶのに対して、たくさんの真界のはざまに、泡沫みたいに存在しているところが虚界。解者のすみか」
 こつ、こつと、夕月の爪が、テーブルの天板を叩く。
 苛立っているのとは違う。
 ばちばちと、炭酸水の泡が弾けてゆくような感じは、いつもの静電気のような感じとは違って、痛みを伴わない代わりに、何かが、もどかしい。
 はっきりとつかめないのは、千暁自身が困惑しているからでもあった。
 虚界という場所が、解者のすみかと言うなら、夕月はいずれ──
「紗夜のことを見届けたら、そこへ帰る」
 夕月は千暁の内心を見透かしたかのように呟いた。
 ──終わりは、そこにあるのか。
 人ならざるものだと、あの時その目で見たはずなのに、それでもここでないどこかの住人なのだというのは、にわかには信じがたいものだった。
「もっとも、帰れたらだけどね」
 ふっと夕月は笑いを滲ませる。
「どういう……意味、」
「向こう側へ渡るための船が、来ない、って感じかな。来たとしても、まだ乗れないけど」
「どうして」
「紗夜が、まだ幕を下ろしていないから。見届けるって、約束したから」
 こんなところでも、約束、というキーワードが出てきたことに、千暁は無性に苛立ちを覚える。
「俺は、蚊帳の外ですか」
「最初からね」
 容赦の無い言葉に、千暁の心臓は大きな音を立てた。
 そろそろ部屋の中に居てでさえも、寒さを感じる季節なのに、身体が火照り、じわりと汗が滲んだ。胸の内で暴れ出そうとしているものが怒りなのか羞恥なのか、ただ抑えるのに精一杯の千暁に分からなかった。冷めかけたミルクティーを口にして、ともすれば乱れそうになる呼吸を整えて。
「昨日、綾人との待ち合わせに行かなかったのは、体調が?」
「違うよ。よけいな心配させたかな。客が来てたんだ」
「客?」
「そう」
 自分以外にも親しげにここを訪れるものがいるのかと思うと、ちりっとした何かが胸をよぎったけれど、夕月の顔から察するに、どうやら招かれざる客だったらしい。そのことにほっとした自分に気付いて、千暁はすっと目線を逸らせた。
「夏に、ここに辿り着けなかったのは、どうしてですか」
「閉じてたから。誰も来ないように」
 美味しくない、と言いながらも、夕月は最後の一粒を口の中に放り込んだ。
「えーと、結界みたいなもの、ですか」
「ああ、上手いこと言うね。そんな感じかな。もともと、ここは意識していないと閉じやすい土地でもあるしね」
「どうして」
 俺を閉め出したんですか。
 飲み込んだ言葉を分からないわけではないだろうに、夕月は知らん顔だ。
 じりじりと、胃が痛む。
 思えば、玉蜀黍を振る舞われたあの夏の日の「さよなら」こそが、夕月からの別れの挨拶だったのではあるまいか。
 閉め出された事にも気付かず、止めのように解者の本性を見せ付けられて、わざわざ分かり易く関係の断絶を告げられているというのに、未だ夕月に拘る自分に苛々しながら、千暁は腰を上げるべきかどうか迷っていた。
 ティーカップの中身は空で、家の中に上がって三十分は過ぎているだろう。これ以上、ここにいる理由が見付けられない。
「コーヒー淹れるけど、飲む?」
 千暁の返事も待たず、夕月は立ち上がった。
 湯が沸くまでの間、思いに耽るように薬缶の前にしばし立ち尽くす背を、千暁は無言のまま見つめるほかなかった。
 しんとした空気に混じる微かな水の匂いに、雨が降り出しているような気がした。
 いつの間に雨男になったんだろう、などと思っているうちに、ダイニングはコーヒーの香りが満ち始めた。インスタントではなく、ペーパードリップで淹れるその手つきは、随分と慣れたもので、ふっくらと豆が膨らんでいるのが見えた。
「ミルクは要る?」
「いえ」
 薫り高いコーヒーは、律儀にも、さっきの華奢なティーカップではなく、ぽってりとしたコーヒーカップでサーブされた。
 たっぷりのミルクを注ぎ、面倒くさそうにスプーンでかき回して出来たマーブル模様が消える頃、先に口を開いたのは夕月だった。
「どうして、っていうのはさ、こっちの台詞だよ」
 湯気に曇った眼鏡のレンズを煩わしそうにティッシュで拭っている表情は、無、だ。
「わざわざ鳴海家まで出向いて、何を聞いてきたの」
「何をって、……先祖のこと、とか」
 ちろりと千暁を見た視線は、遮蔽物が無いせいか、いつもより鋭く感じて千暁は思わず口ごもってしまった。
「……そうか、紗夜は、話さなかったんだ」
 こういうのを、嫌な予感というのかと、千暁はぶるりと身体を震わせた。いくら日が落ちているとはいえ、さほど冷え込むという時期でもないのに、冷気が足許から背中を伝って首の後ろにまでひたひたと這い昇ってくるような感覚が気味悪い。
「初めて会ったとき、紗夜は、もう覚悟を決めてた。自分が決着をつけるから、手を出すなって言われた。
 だから、何も手を出す必要が無かったんだよ」
 眼鏡のブリッジを指先で押し上げて、夕月は溜息を零した。
「でも、もし紗夜があんたの父親に手を下していなかったら私が狩ってた」
 冷たい汗が、背中を流れ落ちた。その言葉ははったりでも何でもなく、それが解者なのだと知らしめる凍てついた光が、その目に宿っているのを認めて、ざわりと千暁は肌を粟立たせた
「そういうことまで、きっちり紗夜に聞いたんだと思っていたから、てっきり、今度こそ息の根を止めに来たのかと思ってたよ」
 くすりと微笑った顔には、千暁を揶揄する色はなかった。それでも、あの日のことは、紗夜に刃をかざしたことよりも、思い出すことが苦しいことに変わりなく、言葉もなく項垂れた千暁は、くっと奥歯を噛み締めた。
「きちんと統制された鳴海家はともかく、もう名ばかりの宇野家の連中は、ただの不安要素でしかないから、その血を引くものを粗方狩ってしまおうとも思っていたし」
 それは半ば呟きの用にも聞こえたが、続く言葉に、千暁は弾かれたように顔を上げ、身体を強ばらせた。
「だから、紗夜に何かあったら、千暁、あんたを狩るよ」



inserted by FC2 system