黄昏の章

すべて不完全なるもの

─ 7 ─

 紗夜の言っていることが千暁には分からなかった。
 綾人を手放すことに、何の意味があるのか。
 ほとんど脅しつけるようにして、鳴海家に綾人を連れて来ておきながら、この安易さはなんなのか。
 怒るべきなのか喜ぶべきなのか、混乱してもいた。
「なんだよ、それ……」
「綾人がここにいなければ、あなたももう鳴海家と関わろうなんて思わないでしょうし、解者と関わる理由も無いでしょう」
「あのなあ、夕月の事はあんたとは関係ないだろ」
「どこが。あなたと夕月の繋がりなんて、あたしを介してでしかないものじゃないの」
 ──そうなんだろうか。
 そう言われてしまうと、そんな気がしてしまうのは、あまりに関係が曖昧過ぎるせいだ。
 友人と言えるほど親しくもなく、知人という程度のよそよそしさでもなく、いっそ、ご近所さんだとかクラスメイトだとか、付き合いの深度に関わり無い言葉が使えれば楽なのだろう。例えば、綾人を幼馴染みと言うように。
「それに、あたしたちと解者は馴れ合うような間柄じゃないでしょう」
 自分に都合が悪ければ、狩る、と態度で示されて、まだ二十四時間も経っていない。そんな相手と結べる関係というのは、どんなものか。
 冷静なつもりで、すっかり頭に血が上っていた千暁は、『あたしたち』という言葉に含まれた真意になど、気付く余裕は無かった。
「でも、夕月はあんたのことを友達だって言ってたけど?」
「そうよ」
「言ってる事が滅茶苦茶だ」
「どこが?」
「慣れ合うような相手じゃないんだろ、むしろ敵対する位置に居るじゃないか」
「それがなんだっていうの?」
「そんな相手と、友達なんて関係が、」
「友達よ、夕月は大切な」
 声のトーンはやわらかで、どんな感情であれ高ぶる気配もない。
 けれど、まったく迷いも衒いもない目は、言外に、侮辱するなと千暁を咎めてさえいた。
 自覚出来ていない部分で、紗夜とは格の違いとも言うほどの隔たりがあるのだと、改めて思い知らされる。紗夜が年下だという事を差し引いても、口惜しさは拭えない。
 どうして、もっと早く自覚出来なかったのだろう、もっと知っておかなかったのだろう。
 無論、どうやら父親は意図的に教えようとしなかった、むしろ隠そうとしていたきらいすらあるのだから、仕方の無いことではある。だからといって、後悔しないではいられないのだった。
 千暁に向けられていた険しい視線がふと緩み、紗夜は軽く頭を振った。
「何の覚悟もない、お気楽な宇野家の当主のままでいて良いのよ」
 そこには、侮蔑は無く、何も知らない子供を羨むようなやわらかさに、反論は容易く封じられてしまった。
 ゆっくりと、歌うように紗夜の口から零れる音の波はやさしい。
 そのまま言いくるめられてしまえば良いのかも知れないと思うほどのそれは、とても十代の少女が持つものとは思えなかった。
「……夕月もあんたも、どうしてそこまで俺を蚊帳の外にしたがる? どうして俺が縺れの要因になる?」
 食い下がる千暁に、紗夜は駄々をこねる子供を宥めるような笑みを向け、小さく息を付いた。 「あなたの行動は読めないの。あなたの父親の死に、あたしが関わっていたことに気付かれたことだってそう。何故分かったの。宇野の方に発露するのは、ほとんど運動能力関連なのに」
 何故分かったのか、などと改めて尋ねられても、千暁には答えなど持っていない。
「……分からない」
 正直に言うしか無かった。
「ただ、そう感じた、だけ、だ」
 そんな心許ない理由で、凶器すら携えて鳴海家に向かった事など、今更ながら狂気の沙汰だと自分ですら思う。そして、改めて一連の事を思い出すと、果たして本当に紗夜が仕掛けた事なのか分からなくなって、全身が総毛立った。
「昔は、宇野の人間が急逝すると、鳴海家が何かしたって信じてたそうよ。でも、今時、そんなこと信じるとも思えないから、おかしいなと感じてはいたけど、先祖返りしてたのね」
「先祖返り?」
「かつては同じ血を内に潜ませた者同士で、何か通じる感覚があったんですって。血が薄まるにつれて、無くなってしまったそうだけど」
 そう説明されると、あの時の感覚は思い過ごしや思い込みではなく、血の成せる業だったのかと納得して、ほっとするような気もした。
「あたしは血に囁いただけ。約束は破られた、って。それだけで、静かに眠っている血がすべきことをしてくれる。それを何も知らないあなたが感じ取ったように、ね」
 懐かしむように言われても、複雑な気分ではあった。己の身の内に得体の知れない何かが潜んでいて、生殺与奪を握っているようではないか。
「なんて顔してるの。あたしは万能の魔女じゃないのよ」
 ほんの一瞬、泣きそうな笑みが紗夜の顔を通り過ぎて、千暁から言葉を奪った。けれど、
「偽りに血は応えないから安心すると良いわ。思い当たる節が無ければだけど」
 と、いつもと変わらぬ悪戯めいた笑みにすり替わっていた。
 ──そうやって、また。
 紗夜にしろ夕月にしろ、肝心な事は煙に巻いてはぐらかす。挙げ句に、
「それに、もうすぐそんな心配をする必要も無くなるわ。その為にも、お願いだから関わってこないで」
 そんな風に、千暁の抵抗を封じる。
 いつの間にか、千暁の内側には仲間意識めいたもの、紗夜と自分は同族なのだという気持ちが芽生えていた。いや、とうにそうだったのかも知れない。何も夕月の事に拘らずとも、関わりを解かれることを拒むのは、蚊帳の外に置かれ続ける事に怒りすら覚えるのは、多分そういうことなのだ。
「なあ。幕を降ろすって、どうすんの?」
 千暁にとって、鳴海家と決着を付けねばならないという思いは、粋がったガキの駄々みたいなものだ。もし、目の前で刺されただとか、毒を盛られただとか、第三者から見てもその死に他者の手の介入が疑われるようなものであったなら、抱く感情は全く別物だったろう。尤も、その場合は、宇野家を背負うことも無く、鳴海家の事など欠片も浮かばなかったに違いない。それだけの知識を千暁は持ち合わせていなかったのだから。
 駄々を捏ねた結果は、自尊心の塊みたいな時期の少年にとっては屈辱的なものではあったけれど、無知なまま空回っていた事に比べれば、些細な事だと己を納得させられるくらいの懸命さを千暁は幸いにも持ち合わせていた。。
 では、紗夜自身はどうなのだろう。何もかも悟り切り、未来まで見通しているかのようなのに、どこかしら不安さを隠し切れていないのはどうしてなのか、ふと思って、零れた問いだった。
 僅かに目を見開き、そして諦めたように紗夜は笑みを解いた。酷く草臥れた老女のような諦念だけが残っていた。
「究極的な答えとしては、自分の死を見つめることかしら」
 思ってもいない答えに、千暁は息を詰めた。
「宇野家は、その体質の対処法を伝える為だけに在ったようなものだから、はっきりいって、いつ無くなっても良かったのよ。鳴海家は、そういうわけにはいかなかったから。でも、あたしでようやく終わるの」
 頬杖をついて、紗夜の視線は庭に向けられていたが、映っているのは違う風景なのだろうと分かる、遠い眼をしていた。
 例えば、卒業式のような分かり易い終わりとその後を漠然と想像していた千暁には、容易に受け止められない重さの言葉に、しばし沈黙が落ちた。
 ごとごとと玄関の方で物音がしていた。医者が来たのだから、祖父のもとへ行かないのかと紗夜の方を見たが、気付いているのかいないのか、動く様子はなかった。
「紗夜さん」
 すっと、襖が開いた。
「お医者さん、今、帰られました」
 腕時計に目をやれば、気付かぬうちに随分と時間が経っていて、よほど緊張もしていたのか、身体も強張っていた。
「そう」
 どこかまだ視線を虚空に漂わせたまま、紗夜は気の無い返事をした。その様子に、綾人は怪訝そうな顔で、何があった? と千暁に無言で問いかける。
 答えかねた千暁に軽くうなづいてみせると、綾人は茶器を片づけて一旦座敷を出て行き、新しく淹れた紅茶を盆に載せて戻ってきた。
 ポットから注がれる紅茶から、ふわりと花のような香りが立った。
 いつものように砂糖とミルクを入れようとした千暁を、綾人が止めた。
「だまされたと思ってそのまま飲んでみ」
 しぶしぶ言われた通りにして、思わず目を丸くした千暁に、綾人は満足げに笑った。
「美味いだろ」
「紅茶の淹れ方なんて、いつの間に覚えた?」
「最近」
 自慢げに言われると、対抗したくなるというのが信条というもので。
「いい茶葉なら、ストレートの方が美味しいよな」
 などと返してみると、
「蒸らし時間とかも重要なんだよ」
 と、ややムキになった感じで応えがある。
 そんなやりとりですっかり和んだ頃、紗夜の紅茶が手つかずのまま冷めていることに気付いて、綾人が声を掛けようとしたときだった。
「荷物、まとめてきて」
 不意に紗夜はそう言った。
 頬杖をついて庭の方を眺めたまま、綾人の方を見ようともせずに。
「紗夜さん?」
「取りあえず必要なものだけでいいわ。他は後で送るから」
「ちょっと、どういう、」
「ちょうど千暁もいるし、荷物を運ぶのを手伝ってもらったら?」
 綾人の眉間に、深い皺が刻まれる。
 普段、穏やかで微笑っているような表情を絶やすことのない綾人のそんな顔は、千暁ですら滅多に見たことがない。
「それって、家に帰れってことですか」
「そうよ」
「何故」
「もう要らないから」
 説得する気があるとは思えない言い草に、千暁も眉を顰めた。
「あなたに約束したものは、ちゃんと譲渡されるように手続きは済んでるわ。ご両親には、後で祖父から挨拶してもらうから」
「そんなことはどうでもいいです! 要らないって何ですか!」
 綾人が怒鳴るとは、思ってもいなかったのか、紗夜が気圧されていた。
 ──あーあ、怒らせた……。
 なんとなく、自分の出る幕は無いと察して、千暁は傍観者に徹することにした。
 だいたい、これは痴話げんかというやつではないだろうか。
 綾人を説得するなら、感情にまかせるより、理路整然と丸め込むに限ることを知ってはいたけれど、わざわざ紗夜に教えることもないだろうと、取りあえず高みの見物を決め込む。
「要らないものは要らないの。鬱陶しくなったから出ていって。今後の進路にも口出ししたりしないし、あなたに損は何もないでしょ」
「そう言う問題じゃないです。いきなり何言ってるんですか」
 紛う事なき幼なじみ、子供の頃には二卵性双生児と思われていたほど一緒にいたものだが、何も、今に至ってまで似たようなことを互いにしなくても、と眺めている自分に気付くと、面映ゆさに頬が熱を持ち始めた。
 いつもの紗夜なら、目敏く勘付いて揶揄ってくるだろうに、そんな余裕もないらしいなと二人の様子を見て、千暁はこっそり安堵した。
 端で聞いている分には、堂々巡りになり始め、
「千暁、綾人連れて帰ってよ」
 いきなり矛先は千暁にまで向けられた。
 痴話げんかに巻き込まれるのはごめんだったが、千暁はすぐに反応できなかった。
 その理由に気付いて、紗夜もはたりと会話を放棄した。不意に緊張を全身に漲らせた二人を、綾人は不安げに口を閉ざす。
「……間に合わなかったみたい」
 紗夜が呟いた。
 ぎし、っと廊下が鳴った。
「一応ね、玄関で挨拶はしたんだよ? ごめんくださぁーいって」
「でもなんだか取り込み中だったみたいだし」
 人好きのする笑みを湛えた少年が二人、既視感を覚える掛け合いではあったけれど、昨日とは違う、酷く物騒で剣呑な空気を纏うマサヤとシンに、千暁は寒気がするほど神経を逆立てていた。



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