黄昏の章

そして、桜降る日

─ epilogue ─

 その桜並木は、地方の小都市を貫く川沿いに延々続いている。
 菜の花が揺れる土手を、蒲公英や空の欠片のようなイヌフグリの花、白詰草などが彩り、その向こうには蓮華草の赤紫色に染まる田圃がのどかに広がっている。
 そこは、どんなときでも、紗夜だけものだった。
 かつては。
 上流にある市街地では、今年も恒例の桜祭りが催されて賑やかしい。
 盛りを過ぎ、風が枝を揺らす度に、花びらがこぼれて散ってゆく。
 時折、生命を冬の眠りから呼び覚ますようなざわめきを、強い風が運んでくる。並木の桜樹が、まるで生の歓喜に体を震わせているかのよう。菜の花の群れに体を埋もれさせて、彼女は自分で自分の肩を抱いて、空を見上げた。
 あの日のように、春の空は、薄いベールを掛けたように霞んでいる。
 目覚めたばかりの生きとし生けるものには、やや強すぎるであろう光を、やわらかなものに変えるやさしさだ。
 人の気配に、紗夜は振り向いた。
 黒ずくめの少女が、立っていないかと、二つの影がそこにないかと、期待してしまう。
「紗夜さん」
 立っていたのは、綾人だ。
 ぱたりと風がやみ、降ってくる花びらに誘われて紗夜は空を見上げた。

 あれからほどなくして、紗夜は祖父を失った。
 眠るような最期を看取り、内々の静かな葬儀を終えた後、ひとりきりになる筈だった彼女の側には綾人が当たり前のようにいる。
 千暁が消えた件は、正直に話したところで正気を疑われるのがオチだと、紗夜は知らぬ存ぜぬを通した。不本意ながら綾人も、それに倣った。
 しばらく小さな地方都市で起きた事件として騒がれていたが、すぐに下火になり、春を待たずに多佳子が町を離れてしまうと、まるで千暁など最初からいなかったかのように、誰もその名を口にしなくなった。
 結局、千暁がどうなったのか、紗夜には分からない。あのまま無事に夕月と共に虚界へ渡れたのかどうかもさだかではなかったけれど、物事は、納まるべきところに納まるものだと、開き直りにも似た信条を持つに至っていたから、さほど心配はしていない。
「風邪、引きますよ」
 そう言って、綾人は自分の着ていた上着を脱いで紗夜の肩に掛けると、すぐ側に腰を降ろした。
 菜の花を風が揺らす。
 千暁が姿を消したことで、何か悪影響が在るのではという紗夜の心配を他所に、綾人は拍子抜けするほど気にした様子も無く、大学も第一志望にさっさと受かっていた。先日、入学式も終え、来週からは本格的に講義も始まる。
「……あたしのことは、放っておいていいから」
「はい?」
「大学って、いろいろ忙しいんでしょう?」
 いろんな意味で、千暁を縛っている自覚はある。
 まずもって、家族か無理矢理引き離すようなことだとか、その後の進路についてだとか。事情を知った今では、おそらく精神的にも。
 たかだか数ヶ月、我が儘に付き合わせたところで、損なわれるものなどたかが知れていると、最初は、そんなことに慮りはしなかった。
「まあ、高校みたいには行かないと思いますけど、俺はバイトする必要も無いし、そんなには」
 紗夜は立てた膝にちょんと顎を載せた。
「交友関係は広げておくべきだわ。この先も、あなたの人生は続くのよ」
 いったい何を言うのやら、と思い切り顔に書いたような表情で、千暁はまじまじと紗夜を見る。
 意地になっているわけではないことを認めて、ふっと笑みがほころんだ。
「こう見えても、俺は結構打たれ強いんです」
 少しだけ、紗夜は千暁の方を見た。既に千暁は川向こうの景色に視線を向けていたけれども、意識はきちんと紗夜に向けられているのが感じられる。くすぐったいような気持ちに、紗夜もまた視線を彼方へ向けた。
「多分、三日くらいは泣き暮らすだろうし、一生残る傷になるとは思いますけど、いいじゃないですか」
 不意に、綾人は袖をまくった。
「これ、小学五年生の時だったかなあ、キャンプに行ったときにやっちゃった怪我の痕なんですよ」
 何針か縫ったらしいそれは、女の子だったらかなり気に病みそうなくらいにはくっきりとしている。
「夜、あんまり星が綺麗だったんで、千暁と一緒にバンガローを抜け出して、のんきに空を眺めてたら河原で転んで、ざっくりと」
 自分よりも、千暁の方がべそをかいて大変だったと綾人は笑った。
「抜け出したことはバレなかったけど、朝起きたら服とか血まみれで、ごまかせなくて、二人して強制送還。家に着くまで、付き添いの先生のこんこんと説教されましたけどね、後悔はしてないんですよ。今でも、この傷痕を見ると、あの夜の星空を思い出します。あれより綺麗な星空は、多分、二度と見られないんじゃないかな」
 頬が少し火照るのは、陽射しの暖かのせいではない。
 嬉しい。
 気持ちが、身体に満ちてゆくのがこんなにも幸せなことだと知って、紗夜の口許に花のような微笑が浮かぶ。
「さすがに、冷えてきました。帰りましょう」
 先に立ち上がった綾人が、紗夜に手を差し伸べた。
「あ、」
「どうしました?」
 紗夜は、視線だけでそれを指し示す。
 対岸の土手にも連なる桜並木の下に、人影が二つ。
「ね?」
 綾人は軽くうなづいた。
 ひときわ強い風が吹き通り、散らされた花びらに紛れるように、その影は消えた。
「行きましょうか」
 手を繋いで、ゆっくりと歩く。
 夢に見たことすらなかった、ささやかで、当たり前な幸福の一つ。
 そんな時間が、長くは続かないことを紗夜は知っている。
 それでも、もし何も望まないままだったら得られなかった、何ものにも替え難い貴重な時間なのだ。

(了)


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