黄昏の章

すべて不完全なるもの

─ 3 ─

 ゆっくりと、息を吐く。
 意識して、千暁は不必要に入った全身の力を緩めた。
「それは、有り得ない。少なくとも、鳴海紗夜に何かしたりはしない」
「鳴海家と宇野家がついに和解? 目出度いね」
 とてもそう思っているようには感じられない棒読みの台詞の如き口調は、吐き捨てると言うほどの激しさはないが、とても投げやりだった。
「和解なんかは、出来てない、けど」
 その先の言葉を言う為に、千暁は、ぐっと下腹に力を入れた。
「これから先、この体質の対処法以外、伝えていくつもりもないから」
「……一族は納得するの?」
「ただ慣習にならっているだけの老人たちは多少ごねるだろうけど、俺と同じ世代は従妹が一人だけだし」
 少子化問題が取り沙汰される社会に呼応してかどうかはともかく、宇野の血筋と認められた者たちは、独り者や子供のいない夫婦が多かった。
 改めて考えてみなくとも、血族としての寿命は終わろうとしているのだと、父は分かっていたのか──そう思えば、何の知識も伝えられなかったことも、納得できなくもなかった。ただ、必要最低事項くらいは教えておくのが親の義務責務だろう、とは思うが。
 千暁は、穏やかな話をしているつもりだった。自分の愚かしさを認め、やや感傷的な言い草にはなるけれども、一族の滅びを受け止めようと決めたのだという。
 にも関わらず、夕月の顔が見る見るうちに色を失っていく。
「……干渉してしまった……?」
 その小さな呟きに、千暁も何かとんでもない間違いを犯したのだろうかと、身体の中に氷を詰め込まれたような心地に、不安げに顔を曇らせた。
「夕月?」
 まだ、さほど冷えたとも思えぬコーヒーカップを持つ夕月の手が、テーブルの上でかたかたと震えている。
「だって、あんたは何にも知らないままのほほんとしてればいいのに」
 随分な言われようではあったけれども。
 いつも表向きだけでも飄々としていた夕月のただならぬ様子に、思わず声を掛けようとした時。
 あまりにもこの家には不似合いな音が鳴り響いた。
 耳触りは悪くないのに、妙に勘に障るデジタル音声の和音が。
 わざとかと思えるほど大きく肩を揺らした夕月の手から、ごとりとコーヒーカップが転がり、深みのある茶色の液体がテーブルを濡らした。
「ああ、ごめん、気にしないで、電話、出て」
 明らかに声は震えていた。
 いつもの夕月からは想像もつかない姿に当惑を感じながら、千暁はどうせ母が掛けてきたのだろうと、忌々しい気持ちで携帯電話を取り出し、ディスプレイも見ずに通話ボタンを押した。
『千暁、今どこ?』
 が、聞こえてきたのは、綾人の声だった。
「え、今、夕月の家だけど」
『良かった、夕月さんに替わってくれる?』
 物言いはやわらかいのに、何事かと問い返す余裕は与えられなかった。ちらりと目をやれば、夕月はのろのろと零したコーヒーを布巾で拭いている。
「夕月、電話替わってくれって、千暁が」
 怪訝に思いながら、携帯電話を差し出すと、夕月は震える指先で受け取り、くるりと千暁に背を向けた。
「夕月だけど、何?」
 おそらく、話し相手は綾人ではなく紗夜だろう。内容はまるで聞こえてこないが、一方的に相手がまくし立てている様子なのは、なんとなく感じ取れた。
「分からない。ただ、昨日、突然来た」
 それは、昨日来たという客の話だろうか。
「うん、でも、無理だ」
 千暁を拒絶しようとしているようにしか見えない背中は、プラズマのような、冷たくすら見える青い炎に包まれているように感じられて、千暁はゆっくりと手を伸ばした。
 それに、触れてみようと思ったことすら、千暁は初めてだった。
 手のひらでその炎をすくい上げる仕草は、端からは、奇妙な行いにしか見えないだろう。
「やっぱり、そう思う?」
 聞こえる言葉の断片からは、何も分からず、触れている炎から、夕月が酷く苛立ち、焦燥しているのが感じ取れるだけだ。
「分かってる。邪魔をするなら、許さない」
 その言葉と同時に、思わず手を払ってしまうほどの熱を、炎が帯びた。
 ちりちりとした痛みが残る手のひらには、何の痕もない。
「うん。それじゃ」
 通話が終わると、律儀に「ありがと」とひと言添えられて、携帯電話が手元に戻ってきた。ほんのりとした暖かさに、それが機体の発する熱であったとしても、この人も体温をもった存在ではあるのかと、不思議な感慨が千暁を満たした。
 椅子の背に体重を掛けて、はあ、と溜息を吐いている姿は、十七歳という年相応に、むしろそれよりも幼げに見えるのが可笑しくて、知らず口許を緩ませていると、
「何」
 やけに、子供じみた様子で言葉をぶつけられた。
「別に」
 と適当に誤魔化すと、今度はさっき零したコーヒーを拭いていた雑巾をぶつけられた。
「なにすんですか」
 つん、と軽く顎を上げて、夕月はそっぽを向いた。
 ──キャラ、変わってないか?
 ツッコミを入れたい気分は溢れんばかりだったが、まずは黒いジャケットの見ごろに張り付いた雑巾を慌てて引き剥がし、とりあえず染みになっていないことに胸をなで下ろした。
 目の前で、怒りに震えている夕月は未だ青い炎を帯びてはいたけれども。
 それが、ほぼ素なのだと、千暁は思った。ほぼ確信と言っても良い。
 不機嫌そうに口を尖らせる子供じみた仕草には、親近感を覚えながら、表面を取り繕う余裕もない程の事態が起きているということなのだろうと思うと、それを喜んではいられなかった。
 千暁の手にあった布巾をひったくり、憮然と洗っている背中は、明らかに電話の内容を聞くなと言外に威圧していた。
 それでも。
「さっきの電話、なんだったんですか」
 肩越しに睨まれても、千暁も引かなかった。
「わざわざ電話なんか、しかも俺のケイタイをあてにするくらいだから、何かあったんですよね」
 ち、と軽く舌打ちしたのが聞こえた。
 怒っているというよりは、猫が機嫌を損ねているような、原因の所在が相手に、つまり千暁にあるようではなさそうだった。
「夕月?」
「うるさいよ」
 がん、とシンクが鳴った。手のひらで力任せに叩いたらしく、小さく「痛っ」と言うのを千暁は聞き逃さなかった。
 ──なんだろう?
 年下だと知っても、ため口で話す気にはとてもなれなかった相手から、ぞろりと仮面がはがれ落ちているようだった。その残滓はまだまとわりついてはいたけれども、もう、取り繕ったところで、それを再び貼り付けるには、仮面そのものが原型を留めていないように見えた。
「言ったよね、鳴海の事も解者の事も忘れろって」
「正確には、忘れてしまえば良い、でしたけど」
 関わるなと言われた事は、この際、放っておくことにして、わざと減らず口をたたいてみると、
「揚げ足とって遊ぶな」
 思いの外きつい切り返しが、険しい眼差しと共に帰ってきた。
「これ以上、鳴海の事に関わって、事態をややこしくする要因を増やさないでくれ」
「ややこしく、って、そもそも」
「うるさいッ!」
 怒鳴られた事よりも、夕月がそんな大声を上げた事に、千暁は驚いていた。
 夕月の内側が感情的で揺らぎやすい事は、とうに知っていたけれども、それが露わになった事はこれまで無かったのだ。
 そこまで余裕のない事態が起きているのかと思うと、出すなと言われても、手も口も出したくなるというものだろう。それを夕月が理解し受け入れるかは別として。
 それに。
「……巻き込んだのは、夕月じゃないか」
 千暁自身は、さほど意味を込めた言葉では無かった。が、夕月にとっては充分以上に堪えたのだろう、怒りでやや紅潮していた頬が見る間に青ざめていった。
「だって、そうだろ? 夏の間、ここに来るのを許容していたくせに、いきなり閉め出されたって、訳分かんないよ」
 唇を噛んで俯かせていることに、罪悪感を覚えないでもなかったが、そのまま千暁は言い募った。
「今更、関わるな、忘れるなんて言うくらいなら、見舞いになんか来なけりゃ良かったんだ」
 シンクを背にして、すとん、と、千暁の言葉から逃げるように夕月は座り込んだ。
 さすがに、これ以上追い詰めるのは酷な気がして、千暁は口を閉ざした。
 叱られた子供のように、立てた膝に顔を埋めている夕月を見ていると、弱い者苛めをしたような罪悪感がちりっと胸を灼く。
「こんな所に座り込んだら、身体、冷やすよ」
 そっと夕月の肩に手を乗せると、タートルネックのインナーとコーデュロイのシャツ越しだというのに、骨の形が余りに明確に手のひらに伝わってきた。こうして触れた事など数えるほども無いが、それでも、夏の頃はここまで痩せ細ってなどいなかったと断言できる。
 軽く身体を揺すっても、動こうとしないのに痺れを切らして、千暁は夕月の二の腕を掴んで立ち上がらせた。身長こそ数センチの差しかないが、それくらいの事は軽々としてのける程度には千暁の体格は恵まれている。体重の差については、恐ろしいので想像するのは避けた。
「とりあえず椅子に座って──」
 言い終える前に、どこにそんな力があったのか、掴んだ瞬間その細さに息をのんだほどの腕に、思い切り千暁の手が振り払われた。
「うるさいと、言ってるのに」
 とっさに、千暁は後ずさった。
 ほとんど本能から来ると言っても過言ではない恐怖が、夕月から発する気配からもたらされていた。
 すっと腕を横に伸ばし、虚空に表れた小太刀の柄を掴むと、夕月は剥き出しの刀身を躊躇いもなく千暁に向けた。
 かつて目にした夕月の得物は、死神が手にするような大鎌だったが、それもまた得物のひとつなのだろう。
「これ以上ごちゃごちゃ言うなら、狩るよ」
 夕月は厳然と言い放った。
 余程気が高ぶっているのか、夕月を包む、蒼に紅が混じる炎の壮絶な美しさは、魂を曳かれそうになるほどで、千暁は恐ろしさばかりでなく、その身をぶるりと震わせずにいられなかった。
 一般より広いと言っても、所詮台所、逃げ場があるわけでもない。
 互いに睨み合ったまま、無為に過ぎた時間はどれ程だったのか。
 それは、無粋な声がしじまを破るまで続いた。
「ねえ、さっさと片づけちゃってよ」
「それとも、僕らが片づけようか?」
 いったいいつの間に上がり込んできたのか、中学生くらいの少年二人が台所の入り口に立っていた。えげつない台詞を口にしたとはにわかには信じがたいような、あどけない顔は、にこにこと邪気のない笑みに彩られている。
 夕月に向けられている刃よりも、その笑顔の方が何倍も危険なものだと、一瞬のうちに悟っても、千暁には為すすべがないことに変わりはなかった。
 ──彼らは人ならざるものなのだから。



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