黄昏の章

すべて不完全なるもの

─ 9 ─

 シンのレイピアは、千暁を貫いていた。
 本来持っていた反射神経を最大限に生かした結果は、自己犠牲の極地になってしまったけれども、千暁は特に善人というわけではないし、友情に厚いと言っても、程度は知れている。
 何も身を挺して綾人を庇ったという訳ではない。
 どうしてそうなってしまったのかと、後から話す分には笑い話なのだが。
 妙なところで行儀が良いというべきか、当たり前のことだというべきかは、この少年たちを語るにおいて微妙なところだが、この二人は土足で家の中に上がっておらず、律儀にも脱いだ靴は玄関先の片隅できちんと揃えられていた。
 靴下が畳の上では滑りやすいことは、承知の上、むしろそれを利用さえして、なめらかに動く様は、見事な舞としても見応えがあるほどだった。
 が、僅かな隙を見付けて、気が緩んだのはシンの方も同様だったのだろう、綾人に向けられた決定的なひと突きになるはずだったそれは、大きな踏み込みが災いして体制を崩したせいで、明らかに軌道を歪めた。
 紗夜を突き飛ばした綾人の腕を掴んで引き寄せた綾人もまた、自分以外の体重が掛かったこともあって、僅かに畳で足を滑らせた不運も重なった。
 畳に翻弄されたなどとは、千暁にしろシンにしろ、口が裂けても言わないに違いないが、事実としてはそういうことだった。
 みぞおちの辺りに感じたのは、痛みというより、耐え難いほどの熱。千暁は身体を二つに折るようにして倒れ込んだ。
 それぞれに覚悟をした事態とはまるで違う展開に、腕を捕まれたままの綾人も、突き飛ばされた勢いで畳に倒れ込んでいた紗夜も言葉を失ったまま、ただ見つめていることしか出来なかったのである。
 それはまたシンも同様で、崩れ落ちた千暁を前に、勝利を誇るどころか、幽鬼でも見たかのように顔を引きつらせていた。
 僅かの間、静寂が落ちて。
「う、わあああああーっ!」
 マサヤの絶叫で、誰もが我に返ったようだった。
 最初に、畳の上に横たわっていた千暁が、ゆっくりと身体を起こした。
 その身を貫いたはずのレイピアが無かった。
 シンの手にも無い。
 まだ恐慌状態から抜け出せないままのマサヤの手に握られていた短剣も、いつのまにか無くなっている。
 なによりも。
 立ち上がった千暁の身体には、あるべきものが無かった。
 たとえ動脈に触れなかったのだしても、僅かでは済むはずのない出血の痕が。
「……お、おまえ、解者なのか? 違うよな、一体、なんなんだよっ!」
 余裕のある態度を崩したことのなかったシンが、身体を震わせて叫ぶ。
「なんで解具(かいぐ)が融けるんだよ、何か、夕月が何かしたんだろ! 答えろっ!」
 ──呪いみたいなものだから、って……
 余りに生々しくて、思い出すのを避けていたことが嫌みなほど鮮やかに、脳裏に甦る。
 表情の変化を目敏く見咎めて、
「何をした、おい、夕月はお前に何をした!」
 と、シンは千暁の襟元に掴みかかった。
 いくら身長差があるとはいえ、まだ痛みの余韻が残る千暁は、下から突き上げるように襟を締め上げられて、すぐには振り払えない。慌てて綾人がシンを引き剥がし、ご丁寧に蹴り飛ばした。
 確かに背中まで貫かれた感覚が残っていて、千暁は手探りで自分の腹や背を確認したけれども、その証となるものはジャケットとシャツに共通した穴だけだった。
 髪を振り乱し、目を血走らせてがたがたと震えるシンの元に、マサヤが半ば這って寄り添う。そうしていると、二人ともまだ十分に幼く、稚いものに見えないこともない。
 しばらく、誰も動こうとしなかった。
 いつの間にか綾人は紗夜の側に移っていて、千暁は縁側の障子にもたれて、熱が緩い痛みに変わり、それがゆっくりと引いていくのを感じながら、なんとなく、寂しいような気持ちになっていた。なにしろ、自分だけがひとりだ。
 それからどのくらい経ったのか、部屋に赤みを帯びた光が伸びてきた頃、電話が鳴った。
 年代を感じさせるこの家屋には、黒電話の甲高い音の方が似合っているな、と千暁は思うのだが、やや低めの音程のデジタル音だ。
「はい、鳴海です」
 多少は気持ちの混乱もあるだろうに、慣れた様子で綾人が応対している。
 短い電話のやり取りが終わり、綾人は紗夜に「じゃあ、迎えに行ってきます」と出ていった。
 縁側の窓から、自転車に跨って門の外へ出ていく綾人の後ろ姿を見送って、千暁はゆっくりと立ち上がった。
 庇護者を失った幼獣のように、寄り添って震えるばかりのシンとマサヤを見下ろす。
「なあ、『縺れ』を『解く』のに失敗したら、解者ってのはどうなるんだ?」
 びくりと大きく肩を震わせると、二人は尚いっそう身を固くして、真冬の猿団子のようになってしまった。
 落とし前はつけたいところだが、別に虐めたいわけではなく、千暁にしてみれば、ただの好奇心から出た疑問だったのだが。せっつくのも何となく可哀想で、千暁は側に腰を下ろし、立てた膝に顎を載せた格好で、答えを待った。
 時折千暁に怯えた視線を投げては、すぐに顔を互いの肩に埋めて震えるだけの二人に、千暁が痺れを切らし始めた頃、表の方でかたんと物音がした。綾人が帰ってきたようだった。
 誰を迎えに行って来たのか、聞かずとも分かっていたが、目の前の二人の恐慌状態は最高潮にまで上り詰めているようで、顔色は蒼白で表情も虚ろになっている。意外なことに、マサヤの方が気丈なようで、シンの背をなだめるように時折なでていた。
「呪いは効いた?」
 綾人に支えられて現れた夕月は、不敵な笑みを湛えてそう言った。
 ざざざっと、夕月から少しでも離れようと後ずさったシンの取り乱し様は、無様ではあったけれど、どこか哀れさを誘う切実さがあった。
「い、嫌だっ、消えたくない、消えたくないーっ!」
 引きつった声で叫び、マサヤに取り縋る。同様の恐怖を感じていることは明白だったが、それでも必死にシンを庇って、夕月を睨み付けている。
 鬱陶しそうに、ひとつ溜息を付いて、夕月は二人に近寄ると、その頭に容赦ない拳骨を落とした。
「いったぁ……あんたら、どういう石頭してんの」
 さすがに、音がするほどの拳骨を二つ連続で落とすのは、拳にもダメージがあったのか、夕月も少し涙目になっていた。
「紗夜、取りあえず、お水くらいもらって良い?」

 てきぱきと、綾人の手で再び座敷は整えられて。
 マサヤとシンは、座敷の片隅で恨めしげな目で夕月を見ながら、ばりばりと煎餅を囓っていた。
「ねえ、呪いって?」
 お茶を一服堪能し、人心地付いた紗夜が最初に問うたのはそれだった。
「あいつらがこういうことやりそうだったからね、ちょっと、まあ」
 例えひとしずくを不可抗力でとはいえ、血を飲まされたことなど、余り他人に知られたいことでもなかったから、その返答に、千暁はこっそり胸をなで下ろした。それを取り繕うように千暁も質問を重ねた。
「一体、何がどうなってんの?」
「んー、解者は解者を殺せないみたいなんだよね。だから、一時的に千暁を似非解者にしてみた。だからあいつらもびっくりしただろうねえ」
 からからと笑うその顔はやや青ざめていて、無理してここへ来たことがうかがえた。
「そうだ、携帯電話、持って。嫌でも何でも、押しつけるわよ」
「それ、頼もうと思ってた。全然公衆電話がなくてびっくりしたよ」
 千暁に異変を感じて、慌てて家を飛び出したまでは良かったが、紗夜の家の最寄り駅にたどり着いて、迎えに来てもらおうと公衆電話を探して、余計に対象が悪くなったのだと苦笑気味に語った。
「それにしても、何よ、あの無様な様子は」
 ちらりと紗夜は、片隅の二人に不穏な視線を送る。どうかして、それなりの制裁を加えられないものかと、その目は雄弁だった。
「解者は、怖いんだよ、消えることが。人が死を恐れるよりもずっとね。だから、解者を殺せる私は嫌われてるというわけだ」
「それなのに、変な対抗意識燃やして、こんなことになってるの? ばっかじゃないの!」
 夕月の拳よりも情けも容赦も無い紗夜の言葉に、二人は項垂れるしかないようだった。



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