黄昏の章

すべて不完全なるもの

─ 5 ─

 夏の間、さんざん通い詰めたこともあって、例えブランクがあろうと勝手知ったる他人の台所、千暁は番茶を淹れると夕月の正面に腰掛けた。
 レンズが湯気で曇るのが鬱陶しいからか、夕月は眼鏡を外したまま、受け取った湯のみを両手で持ち、慎重に息を吹きかけて冷ましている。
「幾つか質問があるんだけど」
「どーぞ」
 随分と投げやりな返答は、千暁に対して思うところがあるわけでなく、少年たちの訪問が心底疲れるものだったようで、ちらりと寄越した視線に拒絶の色はなかった。
「さっきの二人は、解者?」
 こくりと夕月は頷いた。
「『館』って何?」
「虚界にある、解者の統率者が住んでるところ」
 つまりは中枢や本部といったところなのだろう。その何を知っている訳でもないのに、『館』という呼び名のやわらかさが不思議と似つかわしい気がした。
「『解く』とか『縺れる』ってどういうこと?」
「解者がやってることは、『縺れ』を『解く』ことであって、何かを狩ってるわけじゃないんだよ。まあ、『縺れ』を獲物、『解く』ことを狩りに言い換えても、大した差はないし、そっちの方が通じ易いみたいだね」
「ニュアンスは全然違ってる」
 夕月は軽く肩を竦める。
 『縺れ』として『解』かれる側にしてみたら、やはり狩られているという感覚の方が近いだろうし、所詮、その辺りは相容れない部分なのだろうと千暁も思う。
「『越境者』って……先祖に力を与えたって旅人たちのこと?」
「その通り」
「何者だったんだ?」
「文字通り、境を越えてきた者。何処か別の理で成り立つ世界から来た者。それ以上は知らない」
 夕月の様子は淡々としていて、殊更構えたところはない。
 元の知識が無さ過ぎて、何かを尋ねることなど出来なかったが、いつでも尋ねれば答えてもらえたのかも知れない。そう思うと、これまでの時間が酷くもったいない気がした。
「『空白期間』って?」
「解者が存在しているのは、断続的な時間で、不在のことも珍しくない。ただ、『空白期間』って呼ばれてる時間は、珍しく、数十年間も解者が不在だったから、その後の『縺れ』を『解く』のが困難を極めたという記録があるんだよ。その間に、鳴海と宇野の先祖は、上手く世界の中に紛れ込んでしまって、『解く』ほどではないけれど、常に『縺れ』る可能性を持った不安要素になったらしい。鳴海の持っていた掟が、解者にとっては都合が良くて、手を組むことになったみたいだけど」
 伝聞型で語られたことが少し意外で、
「……実際に知ってる訳じゃないんだ」
 と零した千暁の呟きに、夕月は軽く目を眇めた。
「あのねえ、そんな昔に私が生きているとでも?」
「時間を越えたりだとか、出来るんじゃないかと思っただけ」
「出来ないよ。個々に違いはあるけど、私はこの時間のあたりにしか存在できないし」
「え?」
「限界はまだ知らないけど、多分、十八歳より向こうへは行けないと思う」
「それって、そこが寿命ってこと?」
「違う。だいたい、十六から十八歳の間の時間を、延々巡っているってこと」
「……よく、分からない」
「私にもよく分からない」
 何が面白いのか、夕月は薄く微笑った。
 温くなり始めた番茶をすすりながら、千暁は逡巡する。
 他人の過去に、内側に踏み込むには、覚悟が必要だ。生半可な肚の括り方では酷い目に遭うのは自分ばかりではないことを知る程度には、幼い時代を終えていた。
「質問は以上かな?」
 揶揄うように言われて、千暁は戸惑う。
 尋ねていい事かどうかというよりも、自分にそれが許されているかどうかが分からない。
「回答の大盤振る舞いはこれっきりかもよ?」
 なるほど、自分が本当に尋ねたい事をまだ口にしていないこと、それを迷っている事までもお見通しなのだと、千暁は自嘲したい気分になった。ご親切にも、こうして質問する許可までも暗に与えられて、今更引けないに決まっている。かといって、このまま素直に尋ねてしまうのも、手のひらで転がされているようで、癪に障る。
「……っとに、意地が悪い」
 ぼそっとした呟きに、気付かなかったはずはないのに、素知らぬ顔で空になった湯のみを弄んでいる姿まで小憎らしくなってくる。
 それでも、聞かずにはいられないのだ。
「解者が殺せるって、どういう……、夕月が、解者を」
 その先を言い淀む。口にしたい言葉では決して無い。
 誰かを傷つけようとすることは、醜悪だ。そのことはこの半年でしみじみ思い知ったし、身の底に沈んで染み込む事はあっても、失われることは絶対にないだろうと千暁は確信めいた思いを持っていた。
「私が解者になったのは、十七歳のとき、っていうのは、話したよね」
 千暁は、これから何を言おうとしているのかと、恐る恐る頷いた。
「きっかけは、解者を殺した事だよ」
 そんな千暁の胸の内を踏みにじるように、夕月は軽々と言ってのけた。
 肺の中に氷水が一瞬で満たされかと思うほどの、息苦しさと寒気を感じて、千暁は夕月を真っ直ぐ見ることが出来なかった。
「その償いとして、解者になった」
「人が解者を……って、誰でも出来ること?」
「さあ。その時の事、ほとんど覚えてないから。試してみる?」
「何、莫迦な事言って、」
「一応、肉体の構成は人と同じもののはずだから、やってできないことはないかもね?」
「夕月っ!」
 冗談にしても、そうでないのだとしても、むしろその方がさらにタチが悪いと言うものだが、あまりの言葉に千暁は両手の拳でテーブルを叩いていた。衝撃で倒れた湯のみが転がって床に落ち、儚く澄んだ音を立てた。
「あ……」
 激昂した事を恥じても後の祭りというもので、透き通るような白地に藍色の染め付けも鮮やかな湯のみは、ぱかりとふたつに割れている。中身が空で、床を汚さずに済んだ事が不幸中の幸いと言えようか。
 慌ててそれを拾い上げようとした千暁を、夕月は制した。
「危ないから、私がやるよ」
 いっそ見事なくらいに、ほぼ二分されたそれを片付けようとして怪我をするには、よほど他事に気を取られているか、天性の粗忽者であるかでなければ無理なような気はしたが、前者に分類されそうで、千暁は黙ったまま、後を夕月に任せた。
 どちらが先に仕掛けたのかは既に曖昧で、勝った負けたというものでもない。なのに、敗北感にとても似た何かが千暁を支配していて、与えられた玩具が気に入らないと喚く子供みたいなマネを、謝る事すら出来なかった。
 申し訳なさに項垂れる千暁を咎めることもなく、かといって殊更に優しい口調になるでもなく、
「質疑応答はおしまい。もう、日常に帰らないとね」
 と促されて、千暁は大人しく席を立つしか無かった。
 珍しく玄関まで見送られて、居たたまれなさに、靴ひもを結ばなければならないタイプのスニーカーを選んだ事に理不尽な苛立ちを覚えた。そのせいで指先が上手く動かせなくて、わざとのろのろしていると思われるのではと、余計に焦る。
 これほど平静さを欠いた経験など無かったから、何処かが崩れ出すと、どうやって連鎖を止めていいのかが分からなかった。
 きちっと固めに靴ひもを締め、立ち上がるのを見計らったようなタイミングで肩を叩かれた。
 振り向くと同時に、唇に夕月の親指の腹が押し付けられ、そのまま咥内に押し込まれた。ぬるりとした感触にほぼ反射で舐め取ると、口の中に鉄くささが広がる。それが血液らしいことに気付いて、一瞬、頭の中が真っ白になった。
「気色悪いと思うけど我慢して。一応、念のためにね、呪(まじな)いみたいなものだから」
 その必要性について問うだけの余裕は、もはや無かった。

 暇の挨拶にどんな言葉を告げたのか覚えてはいなかったが、慣れた家路をたどり、いつものように夕食を採った。ややぼんやりとしていた事に多佳子は不審に思うよりも、勉強疲れを心配したようで、特に何も言わなかった。
 参考書や問題集を開いてはみたものの、さすがに内容はまるきり頭に入って来なかったから、早々に切り上げた。
 肝心なことを聞きそびれた事に気付いたのは、何度も寝返りを繰り返し、ようやく寝入る間際になってからのことだった。
 おそらくは、意図的にはぐらかされたのだろうということも。



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