永遠の原

01, 眠りの底から

 いつものように高く上った太陽から射し込む光の眩しさで、真崎は目を覚ました。
 のろのろと起き出し、パンとコーヒーだけの簡単な朝食を採った後、ふらりと散歩に出かけるのは、もう日常の習慣だ。
 初夏の乾いた風もようやく肌に馴染みかけていたが、耳に入ってくる言葉や目に映る風景も何もかもが、無意識に認識している風景と異なり、未だに彼を戸惑わせる。
 けれど、狂気にも似た人のひしめきを抱え込む大都市でもなく、日がな一日惰眠貧っているような田舎町でもないそこに、彼は生まれ育った土地に似た空気を感じていたし、思うように意志の疎通を図れない事にも大した不自由を感じてはいなかったから、むしろ慣れた環境よりも居心地よく日々を過ごしていた。
 彼が長居しているところは、気のいいカフェのマスターの口利きで借りている雑貨屋の二階だった。食事も洗濯も部屋の掃除も全て自前という事だったのだが、数年前まではB&Bを開いていたというだけあって、おっとりとした老婦人、家主であるミセス・グラスメアは、人見知りがちな彼でさえすっかりくつろぐ事ができるように、孫のような歳の真崎をまるで顔なじみの客のようにもてなしてくれる。
 基本的には真崎は客というのではなく、間借り人という立場にもかかわらず、気が付けばお茶や夕飯をご馳走になることもしばしばだった。だからという訳でもないが、彼女が一人で切り回しているその店を、真崎は頼まれるでもなく手伝っていた。単に時間を持て余しているせいもあったし、午後のお茶に呼ばれる度に、遠い都会で暮らす息子夫婦とその子供達の事を聞かされている内に、少しでもその代わりをしようと思ったのも確かだが、ろくに言葉も通じない異国人の真崎に対しても、人懐こい笑みを絶やさずに細やかな気遣いをしてくれる彼女に対するささやかな感謝の気持ちでもあった。
 散歩と言っても、気付けば数キロを歩いている。
 町の中心を貫く河に掛かる石橋を渡り、緩やかな緑の起伏を幾つか越えて小さな森を抜けたその先には、草原に埋もれた先住民族の古い遺跡があった。古い言葉で『永遠の原』と呼ばれているらしいそこは、赤茶けた大地に所々ハリエニシダの黄色い花が緑の中で鮮やかに輝き、灰色の巨石が無造作に並んでいる。
 乾いた空気の中で、真崎は何時間でもそこに居た。刻々と変化して行くのは雲の流れと空の色。数千年という悠久の時間の流れに魅せられたのでもなく、それでも飽く事なく真崎はそこで過ごす事が気に入っていた。
 一度だけだが、持ち込んだ毛布にくるまって、そこで夜を明かした事もある。星降る夜、という言葉を心底納得するような星空をただ仰いで、夜明けを待っていた。翌朝、部屋に帰ると明らかに一睡もしなかったらしいミセス・グラスメアに出迎えられて、さすがに夜、家を空ける事はしなくなったが。  彼女が心配していたのは、妖精に魂を奪われやしないかという事だったらしいけれども、そういった伝承が生きているのも不思議ではない気がした。
 鉄道の駅の周辺は田舎とはいえ、いろんな店があり、夕方ともなると街から帰ってくる人々でそれなりににぎやかだ。真崎は用もないのに時折そんな時間を見計らって出かける。人恋しいというよりは、人々のざわめきが懐かしくなるのは、業に近いものかもしれない。
 その日も橙色の光に染められた石造りの町並みを眺めながら歩いていた真崎は、見覚えのある姿を見つけて足を止めた。
 そう、彼女を見かけたのは三度目だった。
 この国に観光に訪れる日本人の数はかなりのものだが、さしたる観光名所のあるわけでもないこの町に立ち寄るというのはごくまれだ。近くに有名な遺跡が幾つかあるせいか、ガイドブックにも載っていないこの町の遺跡は、観光客には見向きもされない。彼自身は二ヶ月余り滞在しているが、東洋人と思われる人種を見かけたというのでさえ彼女を除くとほんの二、三度しかない。
 五日前、町の中でその横顔に気が付いたのは、ゆるゆると波打った長い髪をバレッタで一つにまとめ、ジーンズにシャツというありふれた格好ではあっても、東洋人というのがこの街ではやはり馴染まぬ者だったからだろう。伸びすぎた前髪で顔半分が隠れていようとそれは真崎もさして変わる事がなかったはずだが、彼女は心ここにあらずといった様子でまるで真崎に気付かなかった。
 歳の頃は、大学生の真崎と同じくらいだろうか。もの慣れない様子で駅舎から出てきた彼女は、街路樹の下を抜けた途端、射るような直射日光を遮るように目ので手をかざした。空を仰いでしばし佇むその後ろ姿に、そのまま揺らめいて消えてしまいそうな不確かさを感じて、真崎は遠ざかってゆく彼女の背中を眺めていたが、クラクションの音に、ふと視線と外らして、再びその姿を追おうとしたときには既に幻のように何処へかかき消えてしまっていた。
 幻影だったのだろうかと思わないでもなかったが、帰郷の念に駆られているようで、白昼夢を見たなどと認めたくはなかった。
 二度目はその翌日の事、うつらうつらと居眠りをしていられる程度にはミセス・グラスメアの雑貨店は暇なようで、遅い昼食を済ませた後、真崎は『永遠の原』に出かけた。
 ゆっくりと二時間ほど掛けて緑のうねりの中を歩き、小さな森を抜けてたどり着くその場所は、何度訪れても異世界のように感じられた。明らかに加工された石が、幾重もの円を描いて並んでいる事には、一つ一つの石を辿っているうちに、気が付いた。ガイドブックに載っていないのが不思議には思ったが、そのおかげか訪れる者も稀というより、町の住人とすら出会った事がないその場所は、真崎にとっては正に自分だけの異世界だった。
伸び過ぎの髪がいささか鬱陶しくて、後ろ髪を結わいたうなじを撫でるように、からりとした風が通り過ぎて、雲が落とす影が駆け抜けて行く。そして時間は流れて行くものだという事を始めから知らなかったかのように、真崎は空が薔薇色に染まり始まるまで過ごしていた。
 『永遠の原』に限らず、この辺りは先住民族が残した遺跡は数多く、崩れた墳墓や立石などは当たり前のように草むらに埋もれているという。そういった場所には住民達は特に日が暮れてからは決して近付こうとはしない。というのは、妖精達に惑わされて現世に帰って来れなくなると古くから伝わり、戒められているかららしい。ミセス・グラスメアが子供の頃にも何処かへ姿を消してしまった友達がいたと、いつも朗らかな顔を曇らせたことをふと思いだした。
 そろそろ現世に帰ろうか、と冗談めいて思い始めた時、目の端を影が通り過ぎた。
 そこで人に遭遇するのは初めての事だった。
 一息に身を起こして辺りを見回したが、誰も居ない。
 気配を感じて振り返ると、すうっと長い影を引いて列ぶ石の一つにもたれ掛かるように軽く腰掛けた人影が、朱の光の中で空の色に染まっていた。地平の彼方へと真っ直ぐに向けられた横顔が、風に揺れる髪に見え隠れする。
 まるで真崎の存在に気付きもせず、そこがすみかであるかのようなくつろいだ様子で、時折髪をかき上げていた。
 けれど夕刻になってこの場所に近付く町の住人などいないし、またその顔立ちといい雰囲気といい、彼女は明らかに前日に見かけた女性だった。
 また幻でも見ているのだろうか。
 異郷の地に唯一人という状況に全く孤独を感じないわけはない。あらゆるものから逃げ出して来たと行っても、全てを捨てられるという事でもない。例えばその横顔に寂しげな影が見えてしまうのは、故郷への懐かしさから創り出してしまった幻影だからなのかと思えるほどには。
 確かめようと立ち上がった時、不意に突風が通り過ぎて、葉鳴りの音が波のように辺り一面に幾重にも広がって行った。
 慌てて閉じた眼を開いた時、真崎は彼女がまだそこにいるとは思っていなかったし、現にその姿は既にもう何処にもなかった。すぐに後を追うなりしていれば見つける事が出来たかも知れなかったが、真崎はその場に立ち尽くしていた。
 けれど三度目のその日は、ふと上げた目線の先にいた真崎の姿にさすがに彼女も気が付いたようだった。きょとんとして真崎を見つめる黒めがちの目は、迷子の子供が母親を見つけた時のようにも見えた。おそらく十年経っても余り変わる事のなさそうな面立ちのせいかもしれない。戸惑った後、軽く会釈をするという懐かしい習慣に、思わず真崎も会釈を返すと、彼女は安心したような微笑を浮かべた。
 目立つほどでは無いにしろ化粧気の無いその面は案外に整った造作をしていた。だが、多分意識して見ない限りはそれに気付く事は難しいのではないだろうか。特徴が無いわけでもないのに、酷くその印象は薄い。それは地味、というよりは、奇妙なまでな生気の無さのせいだ。それでいて、幼ささえ感じさせる雰囲気をまといながら、横顔に見え隠れする大人びた寂しげな表情とが綯い交ぜになって、彼女の存在の輪郭を更にぼやかしていた。
互いの距離が近付いて、彼女は遠慮がちに
「こんにちは」
 と言った。
 久しぶりに聞いた、母国語だった。
 間近でみると華奢な印象はそのままだが、意外に背丈があるのが意外だった。
 僅かに目を細めて、真崎は彼女の顔を凝視した後、
「……ちわ」
 と母国語で返した。
 殊更機嫌が悪かった訳でも、彼女に腹を立てていた訳でもない。ただ、彼女が幻でも何でもなくそこに存在する事に戸惑いながら、そして彼女はもどうせ気が付いている、知っているのだろうと思うと、少しうんざりした気分と共に強い警戒心が湧いてきただけの事だった。
 不意に現実に引き戻されたような感覚は、確かに彼を不快にしていたかもしれない。
「よかった、もし日本の方じゃなかったらどうしようって思って……」
 恐らく、真崎の不機嫌に気付かない振りをしようとはしたのだろう、彼女はすぐに言葉を詰まらせると、
「でも……不愉快に思われたみたいですね。ごめんなさい、さよなら」
 無理のある微笑を歪ませた顔をすぐに俯かせ、足早に真崎の脇をすり抜けて行ってしまった。
 ほんの僅かの間の後、肩ごしに振り返ると、午後の強い日差しに、街路樹の濃い影が路面に落ちているばかりだった。
 自分の警戒心が的外れなものだったのかもしれない。
 そう思っても、彼女を追って何らかの釈明をする気にもなれなかった。
 仮の住処への帰路を辿りながら、まるで魔法のように甦ってきた、封じたはずの感情に、真崎は苦々しい記憶を反芻していた。

 夜が明ける頃になってようやく寝入ったものの、断続的な浅い眠りが続くだけで、真崎は昼前にはぼんやりとした頭を抱えて濃いめのコーヒーをすすっていた。
 もともと眠りは浅い方だったが、特にこの半年はその傾向が強くなっていて、まるで憑かれたように繰り返し訪れる夢に、ろくに眠る事も出来ない日も少なくなかった。
 二杯目のコーヒーにミルクと砂糖を入れて、真崎は無闇にかき回した。
 真崎の叔母、立木一枝というのは、そこそこに名の売れた女優だった。知的な外見は見せかけだけでなく、某有名私立大学を優秀な成績で卒業しており、また何作か発表した小説の評価も高く、幾度か賞の候補に上がってもいた。特に半年前に出版された、古い土地と因習に縛られた一族の末路を幻想的に描いた長編『ゆきあかり』は、あっという間に版を重ね、既に有名な賞の候補に挙げられた。
 真崎の今は亡き父親の妹である彼女は、真崎の母親、暁子とは小学校から高校まで同じ学校に通った同級生であり、その親しさは未だ女子高生のような無邪気さで、泊まり掛けで遊びに訪れることもしばしばだった。
 彼女は真崎に『おばさん』ではなく、『一枝さん』と自分の名前で呼ばせていた。彼女のその開けっぴろげで、よく言えば屈託のない性格は、人見知りがちな彼にしてみれば無遠慮なものでしかなく、子供の頃はあからさまに避けていたくらいだった。それでも彼女は真崎がお気に入りだったのか、いつもお土産は真崎の好きな老舗の和菓子や、暁子から聞き込んだらしい、彼の欲しがっていた本などだった。
 自分の部屋からCD-ROMが一枚無くなっている事に気が付いたのは、久しぶりに訪れた彼女が帰った翌日のことだった。ノートPC一緒に机の上に置いてあったはずだったが、どこかにしまい忘れたか隙間に落ちてしまったのだろうと大掃除も兼ねて探したにも関わらず、『雪闇、他』と、彼のやや右上がり気味の癖字で書かれた付箋が張ってあるはずのそれは、ついに見つからなかった。
 その『雪闇』が『ゆきあかり』と酷似している事を知ったのは、それから三ヶ月ほど経ってからのこと、幼なじみの川澄秀則からの電話だった。
「『ゆきあかり』、読んだか?」
「いや……」
「とにかく、読んでみな」
 いつも、新刊を出す度に署名入りで出来上がった本を送ってきていたというのに、今度は発売から一ヶ月半経っても何の音沙汰もないことに、真崎が不審を覚えなかったのは、さして関心もなかったからだ。
 書店に平積みされていたそれを無造作に一冊手に取って、その場でざっと最後まで流し読みをするのに、十分とかからなかった。登場人物や舞台となる土地の名などは変えられていたが、そのほかは『雪闇』そのもののそれ──考えられる事は唯一つだった。
 真崎は、叔母の著作を初めて購入した。
「どういうこと?」
 そのことを知らなかったはずはないと、真崎に『ゆきあかり』を突きつけられて、暁子は見る間に顔色を失った。そして、どうか彼女を許してやって欲しいと泣いて懇願するばかりで、ことの詳細を話そうとはしなかった。
 その後、一枝からの、会って話がしたいとという連絡に全く取り合わないでいると、彼女から多額の金額が書き込まれた小切手が送られてきた。
 まるで押し付けるように、未開封の封筒を真崎に渡した暁子には、中身が分かっていたのだろう。すぐに台所に引っ込み、夕飯の時も目を合わそうとはしなかった。ふと硝子越しに向けられている、怯えと苛立ちが入り交じった視線に気が付いた時、真崎の中で何かが音を立てて壊れたのだった。
 小切手を受け取る旨を一枝に伝えた後、目に見えて明るく振る舞い、やたらと気を遣うようになった暁子が鬱陶しくなって、真崎は暫く秀則のアパートに転がり込んだ。
「……お前ね、知らないよ、どうなっても」
 真崎の選択に、秀則はそう言った。
「でも、何も起こらないかも知れない。その可能性の方が高いよ」
「さて……それこそ神のみぞ知るだね」
 既に何の関心をも失ったような真崎に、心底意地の悪い微笑をたたえて、秀則はそう応えた。その時初めて、彼が自分以上に腹を立てている事に真崎は気が付いた。
「発表は来月発売の号だろう?」
「……まあな」
「ふうん。状況としてはまぁ悪くないか」
「悪いも何もないよ、もうあっちは本になってて、俺は金を受け取ったんだから」
「それがネックなんだけどさ、下手に手を入れてる分、完成度は落ちているし……だいたい、詳細なプロット書いた小汚いノートがあるだろう」
   どうして『雪闇』をK書房の小説誌の新人賞に応募していた事を、母親にも一枝にも告げずにいたのか彼自身よく分からなかった。
 気が付けば二次選考まで通過していた。
 入選するはずもないと思っていなかった訳ではない。いつも手厳しい批評を下す秀則が、読み終えた後しばし言葉に詰まって、慣れない褒め言葉と覚しき単語を幾つか並べたせいもあって、むしろ過剰な自信と期待を持たないように、自分を戒めていたくらいだった。
 やがて、それは二人の想像以上の騒動を引き起こした。
『話題の小説に盗作の疑惑』
 きっかけはという地味な見出しの小さな記事が週刊誌に載ったことだった。
 応募された小説の中に『ゆきあかり』と酷似したものがあるという事が、週刊誌の記者に漏れて、記事になったということだが、『ゆきあかり』を出版したS社は、内紛でK書房の副社長という役職を解雇された人物が創立しており、その際に若手の編集者や作家をごっそりと引き抜き、短期間で老舗のK社に迫る勢いで業績を伸ばしている事もあって確執は深く、それに巻き込まれた形と言えなくもなかった。ちょうど大きな事件もスキャンダルもなく、ネタにこと欠いていたワイドショウの格好の的にもされて、更に『ゆきあかり』は売上を伸ばすという皮肉な結果をも生んでしまった。
 ただ、真崎に幸いだったのは、概ね盗作したのは立木一枝の方であるという見解が圧倒的だった事だった。『ゆきあかり』に見える感性も文体も、それまでの作品と明らかに異なっていたし、物語の持つ感触の変化には目を見張るものがあった。だからこそ、心境地を開いた作品としてより高く評価されたとも言えたのだが、逆にそれが盗作を疑わせたのだ。とはいえ、その優勢もすぐに危うくなった。
 彼女はさすが女優というべきか、実に堂々とした態度を持ってインタビューに応じていた。真崎の家族とは親戚で親しい付き合いをしていたことや、時々何日か泊まりこんで小説を書いていたこと、また書き上がった作品をいつも最初に真崎の母親に読んでもらうことは学生の頃からの習慣であること、つまりそう言う経緯を考えると、彼が彼女の未発表の作品を読む機会は幾らでもあったということをまことしやかに語った。もちろん小切手を送り付けた事は一言も口にしなかったが。
 無責任な好奇心を満足させるべく、ワイドショウは様々な方向からその騒動を煽り、一週間も経たぬうちに、彼の顔は全国ネットのメディアで広げられてしまった。
 真崎は、どんな質問に対しても口を開かなかった。自宅はもとより、大学にまで図々しく押し掛けてくるインタビュアーから、謂れも無い言葉を投げかけられてでさえ、一瞥さえしようもとしなかった。  言い訳をしようとしない態度は、傲慢で鼻持ちならないというコメンテーターの言葉によって、ほぼ意図的に彼の印象を決定付けられ、いつしか盗作したのは彼の方だと看做されるようになっていた。
 暁子は彼をなじった。彼女との約束を破ったと言って罵りさえした。実際は先に裏切ったのは彼女達の方であり、切り札を持っているのは彼の方だった。けれどそれに対してでさえ真崎は一言も返すこと無く、秀則にだけ行き先を告げて、渡欧した。
 初めは観光名所も多い大都市にいたのだが、何かの取材ついでに彼の居場所を嗅ぎ付けた記者に、突然の訪問を受けてすぐにホテルを引き払い、暫く転々とした後、取りあえずのつもりで腰を落ち着けたのが、この田舎町だった。
 何日か通ううちに、片言の英語で言葉を交わすようになって、親しくなったカフェのマスターの紹介で、B&Bから雑貨屋を営むミセス・グラスメアの二階に移ったのはその町に滞在して一週間目のことだった。半年という観光ビザで滞在はできるぎりぎり一杯の期間を契約した。
 足腰が弱くなったせいで滅多に二階には上がらないというミセス・グラスメアの言葉通り、埃はつもっていたが、家具も一通り揃っていて、部屋に風を通し、一日がかりの掃除をすると、すっかりそこは居心地の良い彼の住処となった。簡易キッチンも付いているが、一人で採る食事が寂しいのか、週に何度かミセス・グラスメアは夕食に誘ってくれる。
 置いてあった古いラジオを付けると、ノイズ混じりに低いトーンの女性ボーカルのバラードが流れてきた。ハイテンポでハイトーンの歌が氾濫していた環境が嘘のように、柔らかな声がそこには溢れている。
 何よりも、ここには彼を知る者は誰もいないことが、真崎を安らがせていた。
 自意識過剰だった、んだろうな。
 がしがしと全体に見ても伸び過ぎのきらいのある髪をかき回して、真崎は立ち上がった。

 とはいえ。
 何の当てもなく町を駆け回り、昼を過ぎた頃には焦りと空腹感で、ささくれ立ってきた気分を抑えるべく、すっかり行き付けになったカフェのドアをくぐった真崎に、マスターはいつものように、見ようによっては人の悪い笑みをマスターは向けた。
「今日の特製キッシュとカフェオレを……」
 覇気の失せた様子で、ほぼ真崎の指定席になりつつあるカウンターの隅の席に腰を降ろすと、マスターは若い者が一体どういう体たらくだと声を立てて笑った。真崎は曖昧な苦笑を彼に向けただけで、先に出されたカフェオレをすすった。
 この街には、もういないのかもしれない。
それとも、最初から何処にもいなかったのだろうか。
 やたらと坂の多いこの町を自転車で駆け回るという事は、思いの他足に来る事を身を持って知る羽目になっているのに、自分のしている事に現実感がなかった。まるで幻を追いかけているような気分でさえあった。
「どうかしたの?」
 すとん、と横に腰を下ろしたのはマスターの娘、メイベルだった。健康そうなピンクの頬と金色の巻毛と淡い色の瞳を持った彼女は十三歳になったばかりで、そばかすの散った顔をくしゃくしゃにして笑っているときが、真崎はいちばん可愛いと思うのだが、本人は少し蓮っ葉な感じでいる自分を、大人っぽいと思っているらしく、そんなあどけない表情は滅多に見せない。尤もそれも余り長続きする表情ではなく、
「別に何もないよ」
 という真崎の応えに、顔をしかめた。
「何も無いって顔じゃないわ」
 曖昧な言い方が、彼女にはいつも気に入らないらしく、はぐらかそうとすればするほど食ってかかってくる事を失念していたのはまずかったと、真崎は胸の内で溜息を付きながら苦笑した。いつの間にかすっかり懐いてしまったメイベルを疎ましく思った事などなかったが、この時ばかりは面倒な事になったと思わずにはいられなかった。
「……人を探していたんだけど見つからなくてね」
「人探し? この町に知り合いがいたの?」
 意外そうに、メイベルは目をまん丸にした。
「いや、ちょっと見かけただけの人で……」
「なぁに、もしかして一目惚れした女の人でも探してたの?」
 メイベルお得意の表情で言われたその言葉に、思わず真崎は笑ってしまった。人をからかうような、少しばかり意地の悪い微笑は、確かに大人びて見えない事もないが、必至に背伸びをしているところがいかにも子供らしく、予想外の真崎の反応に、ぷっと頬を膨らました。
「そうだとよかったんだけどね。何にせよもうこの町にはいないみたいだ」
「そんなの分かんないじゃない」
 くるりと表情を変えて、メイベルは向き直った。
「手伝ってあげるよ、ねぇ、どんな人? 名前は? どんな感じの人?」
 カウンターに身を乗り出して真崎の顔をのぞき込む灰色がかったグリーンの瞳が、子供らしい好奇心で一杯になっているのを見て、真崎がどう言って断ろうかと言葉を選ぶ前に、マスターは娘をたしなめた。それこそ駄々をこねるのではないかと真崎は思ったが、ぶつくさと言いながらも父親には逆らえないらしく、名残惜しそうに何度か真崎の方を振り返りながら奥に戻って行った。
「ありがとう」
「まったく、好奇心旺盛なのはいいんだが、どうも他人の事に首を突っ込みすぎるんだ、あの子は」
 真崎の返した笑みを、マスターは好意的に解釈したようだった。それでも娘の非礼の侘び代わりなのか、いつもよりキッシュは一回り大きく、デザートにプディングまで付いていた。
 腹を十二分に満たして気分も落ち着くと、むやみやたらに町を歩くよりは取りあえず宿泊施設を当たってみた方がより高い確率で彼女を捜し当てる事が出来そうだと思い至った。
 どうしてそんな簡単な事にすぐに気付く事が出来なかったのだろう?
 一抹の不安を抱きながら、ここでの最初の一週間世話になったB&Bを尋ねた。そもそも、その町には宿泊施設といえばほとんど趣味でやっているとしか思えない、つまり、経営が成り立っているとは思えないB&Bが一軒あるだけなのは、訪れる旅行者が日に数えるほども居ないのだから無理からぬ事で、むしろ一軒でもある事の方が驚くべき事なのかも知れない。
 小さな森を従えた白い家のそのドアをノックするのは、何となく気恥ずかしい事もあって、ほんのわずか躊躇していると、窓から見えたのか女主人であるミセス・ヘイワードが顔を覗かせた。
「マサキ、久しぶりね!」
 既に四十歳を越しているというのだが、未だ少女のような若々しさを持ち合わせている彼女は、突然の真崎の訪問を心から喜んでいるようだった。
「ちょうどショートブレッド焼いたところなのよ。自転車はそこに置いておけばいいわ、どうぞ、入って」
 招き入れられた部屋の中には香ばしいバターの香りが漂い、彼女の一人息子が口一杯に焼き立てのショートブレッドを頬張っていた。
「マサキ!」
「やぁ、ティム」
「なんか今日はお客が来るような予感がしてたんだ」
 満面の笑みを真崎に向けて、手の甲で口の回りを拭うと、ティムは得意気に母親を見上げた。
「朝からね、きっと誰か来るよってうるさかったのよ」
 ミセス・ヘイワードはそう言って純白のボーンチャイナに鮮やかなオレンジ色の紅茶を注いだ。彼女の夫は町の役場に務めているが、彼女自身はB&Bのおかみという以外に占い師という副業も持っていた。それは血筋なのだと言っていた事を真崎は思い出した。
「実は聞きたい事があって」
「あら、何?」
「ここに東洋人の女の子が来ませんでしたか?」
「東洋人の女の子? アカネのこと?」
「アカネ? いや、名前は知らないんだけれど、髪がこう、長くて……」
「じゃあ、多分アカネの事ね。残念だけど、彼女、今朝発ってしまったわ」
「今朝、ですか……」
 露骨に落胆した様子の真崎に、ミセス・ヘイワードは何処か人を安心させる笑顔で尋ねた。
「知り合いなの?」
「いえ、そうではないんですけど……」
曖昧な真崎の様子をミセス・ヘイワードは不思議そうに見つめた。
「でも、戻ってくるかも知れないわ、彼女忘れ物をして行ってしまったから」
「忘れもの?」
「そうなの。ちょっと困ってるのよ。明後日から旅行に出るから、もしリオがこれを取りに戻ってきても無駄足になってしまうし……」
「連絡先とか、次の滞在先とか、聞いてないんですか?」
「名前しか知らないの。それにうちは宿帳も付けてないから……」
 確かに真崎も名前しか聞かれなかった事を思い出す。朝食やお茶の時間などの雑談の中で、いろんな事を話しはしたが、決して詮索されての事ではなかった。彼女に取っては、目の前にいる人間の輪郭を形作るのに背景のデータはさして重要では無いのだろう。
 ただ、今回ばかりはそれが徒になってしまったようだ。
 落胆した気分を誤魔化すように、真崎は自分に問いかける。
 だいたい、彼女を探して、どうしようっていうんだ?
 果たして彼女を見つける事が出来たとして、その先の事などまるで考えていなかった。
 ただ──
 ただ、謝りたかった。
 不意に、あの歪んだ微笑が思い出された。
 傷つけてしまったのかもしれない。
 そう言葉にして胸の中に浮かべてみると、それは刃物のような鋭さを持って真崎の心をえぐる。
 ……大した事じゃない、こんなことは。
 そんな事は日常茶飯事で、誰しもが恒に誰かを傷つけているのだと、真崎は自己正当化しようとして、見事に失敗した。

 大した事じゃ、ないでしょう?

耳の中に電話越しの声が甦った。携帯電話だったのだろう、雑音の入った不明瞭な声にも関わらず、その言葉だけは奇妙にクリアに真崎は覚えている。
 ずっと封じていた怒りは、その時を待っていたかのように鮮やかに甦り、増幅されて溢れ出してくる。それを抑える事は割合簡単な事だった。既に自分は売り渡してしまったのだという事を思い出せば、怒りの矛先は行き場を失う。無論自分を責めていた時期もあったが、既にもうその気力は失われていた。

 いい? 作家で食べて行くっていうのは大変な事なのよ。あの作品だって私が出したから売れたようなものよ。いいじゃない、結果いい作品だって認められて、名義は私だけど、全ての賛辞はあなたのものだわ。

 さすがにその言葉に真崎は何かを言わずにいられなかった。

 都合よく問題をすり替えてるだけですよ、それは。それに、賛辞を受けているのはあなたであって、俺じゃない。

 ……何よ、それなりの謝礼は支払ったわ。あなたは確かにそれを受け取ったじゃないの。

 確かに頂きました。だから俺は何も話さないし、あなたを責めてもいない。

 自嘲的な響きを含んでいても、それは身を切る鋭さを隠した言葉だったのだろう。一枝はヒステリックに言葉を叩き付けてきた。

 仕方無いじゃないの! いつ書き上がるんですかって矢の催促で、でも書けないものはかけないのよ、どうしようもなかったのよ、下手なもの出す訳にもいかない、そろそろ賞を取りに行きましょうなんてお気軽に言われて! 分からないでしょう、そんな辛さ!

 いつも候補には上がるのに授賞出来ない為に、埒もない陰口を叩かれている事は真崎も知っていた。

 仕方無いじゃないの。

 その言葉がいつまでも耳の中でこだまする。

 仕方無いじゃないの、仕方無いじゃないの、仕方無いじゃないの……

「マサキ?」
 ミセス・ヘイワードの心配そうな声に、真崎は我に返った。
「忘れ物と言うのはスケッチブックなのだけど、預かってもらえないかしら。急ぐ旅じゃないって言っていたから、きっと彼女、戻ってくるわ」
「僕が、ですか?」
「迷惑……?」
「そうじゃなくて、僕が預かっても彼女がそれを知らなければ無意味だし……」
 何を言い訳しているのだろう。だけど、そんなものを預かるっていうことは厄介な関わりを一つ増やすという事で、もし彼女が戻ってこなかったり、すれ違いで渡し損ねたりしたら、余計な気がかりが出来て、一体ここに何しに来たのか分からないじゃないか、とにかくこれ以上人と関わるのはごめんなんだ……頭の中で必至に母国語で考えた事を異国の言葉に変換して声に出しながら、真崎はひたすらにそんな事を考えていた。
「そうねぇ……まぁそれは、ドアに張り紙でもしておくわ。グラスメアさん家までの簡単な地図と一緒に」
屈託の無い表情で、ミセス・ヘイワードは簡単に言ってのけけると、奥の部屋に一旦姿を消した。
「これなんだけど……」
 スケッチブックと言うよりは、画用紙を大量に挟み込んだ大型のバインダーと呼ぶ方がしっくりきそうな代物だった。随分長い事愛用していたのか、それとも扱いが余程ぞんざいだったのか、クロス張りのカバーは角は擦り切れてしまっている。いずれにせよ、うっかり忘れて行けそうな物ではなかった。
「これ……故意に置いて行ったんじゃ……」
 ミセス・ヘイワードはゆっくりと首を横に振った。
「だとしてもね、大切なものだと思うの。きっと取りに戻ってくるわ」
 優しい微笑こそ湛えたままだったが、恐いほど真剣な目で見つめられて、これはもう預かる他無いのだと真崎は悟った。
「分かりました。預かります」
そう言った瞬間から、それはもう当たり前の事だったかのように、真崎は手を伸ばして受け取った。
 ようやく安堵したように浮かんだ心からの微笑を真崎に向けたミセス・グラスメアは、居間の西側にしつらえられた飾り棚の半分ほどを占拠している幾つもの鉱石の中から、一つを選んで手にした。真夜中の月光を封じ込めたような蒼の緑柱石。それを真崎に差しだした。
「何となくだけれど、その彼女とあなた、出会わずにはおかない力が働いているような気がする。それが良い事なのか悪い事なのかは分からないけれど。だから、これを持っていなさい」
「え……?」 「お守りよ。運命の糸が誤って絡まってしまわないように。」

* * *

 風が、そっと囁く
 少年は、深々と溜息を付いた。
 さてもさても、こうまで運命は彼女に味方をするのか。
永遠の原をゆっくりと歩きながら、少年はそれでも約束は守られなければならないものだと改めて胸に刻む。
 彼の最期の願い。
 それは少年にはまるで理解できないものだったが、己の命にかけて、その願いを叶えること──それは、自分にとっての唯一の存在意義でもあった。
 少年は空を仰いだ。
 帰りたいな、早く。
 自分を待っているはずの人の面影を思いながら、少年はいつまでも彼方を見つめていた。

* * *

一日中自転車を漕ぎ通しで、さしもの真崎もねぐらに帰ってシャワーを浴びると、髪を乾かすのももどかしくベットに倒れ込み、しわくちゃのシーツの感触すら定かで無くそのまま眠り込んだ。
 夢の無い深い眠りなど一体何年ぶりだったろうか。気が付くと既に陽は高く上りカーテンを締め忘れた部屋の中はたっぷりと光で満たされて、汗ばむ程になっていた。
 ディバッグと一緒に預かったスケッチブックが壁に立て掛けてある。一体その中にはどんな風景が詰まっているのだろうかと興味はあったが、表紙と裏表紙を繋ぎ止めている紐を外すのは躊躇われ、でももし手を触れてしまったらその縛めを解いてしまいそうで、どのみち仕舞う場所もないのだからと、真崎は放ったらかしにしていた。
 コーヒーを淹れ、簡単な朝食を採り、階下に降りようとドアを開けると、傍らに牛乳瓶に差した花が置いてあった。その細い茎には紙が結び付けてあり、子供の筆跡で『cheer up!』とだけ書いてあった。
 いつの間に……
 デイジーに似たその花は、いかにもメイベルらしく、知らず微笑を浮かべた真崎は軽く肩をすくめて、それをテーブルの上に置いた。
 おそらく昨晩、父親に叱られたのだろう。思い返せば、マスターは何故真崎がこの街に長居しているかなど聞いた事がなかった。だが、無関心というのでもなく、ときどき軽くノックしてドアを開けるきっかけを作る気遣いがあり、真崎は自分の都合のいいことだけを話す事が出来た。心を動かされるような感動的な言葉をもらったわけでもなんでもなく、彼はむしろ言葉少なに相づちを打つだけなのだが、随分と救われていた。
 階下にでは既にミセス・グラスメアは雑貨店の方でお客と楽しそうに話し込んでいた。特に何も聞かなくても、バツの悪そうな顔をしたメイベルをいつもの微笑で迎え入れたのだろうことは想像できたから、そのまま真崎は二階に戻り、部屋中の窓を開け放った。怒涛のように流れ込んだ風がテーブルの上に散らかしてあったルーズリーフをバラバラに吹き飛ばした。軽く肩をすくめただけで取りあえず真崎はシーツからタオルからまとめて洗濯機に放り込み、それから面倒くさそうに飛び散らかったルーズリーフを適当にまとめ、掃除機を手にした。
 掃除を済ませ、裏庭で洗濯物を干し終えた時には昼過ぎになっていた。
「マサキ、貴方宛に手紙が届いたわよ。」
 居間にまで受け取りに行くと、甘やかな香りに満ちていた。ミセス・グラスメアはにこりと笑って
「部屋でお食べなさい。」
 と、ティーコゼーの掛けられたティーポット、何種類かのミセス・グラスメア手作りのジャム、蜂蜜、生クリームなどが添えられた焼き立てのスコーンと一緒に、エアメイルとはいえ、長旅にくたびれた様子の封筒を載せたトレイを手渡した。
 一言礼を言って、真崎は二階に上がった。
 几帳面そうな筆跡で差出人の名を見なくても秀則からだと分かる。
 相変わらず前略で始まり時候の挨拶が続いてから、ようやく本題に入る秀則らしい堅苦しさは、むしろ真崎に刹那的にしろ懐かしい気分を取り戻させていた。
 封を開けると、ぱさりとオニオンスキンペーパーにしては重たい音を立てて別に畳んであったらしい紙が落ちた。雑誌からの切り抜きのようだった。
 おもむろに拾い上げて開いたそれは、真崎の応募した新人賞の審査結果の頁と、その次の号に掲載された審査結果の取消の旨の載った頁だった。
要するに、一度は『雪闇』を入選させたが、今回の騒動でそれを白紙撤回し、真崎には次回作に期待する、という内容は、予測の範疇から出るものではない。
 真崎は見出しと冒頭の二、三行を読んだだけで、それをごみ箱に放り込んで、便せんを開いた。
梅雨が明けて、毎日のように真夏日が続いている事、百日紅の花が咲き始めた事、去年日本中を震撼させた連続殺人事件の犯人が逮捕された事、若い新人歌手が記録的な売れ方をしていること、大手の生命保険会社が倒産した事、首相の支持率が軒並み下がる傾向である事、景気はまだ停滞している事……彼からの手紙の内容は多岐に渡るせいか、文章はレポートのように簡潔明瞭にも関わらず、いつもエアメイルとは思えないほど分厚い。
 決してミセス・グラスメアの前ではやらない、片手でスコーンにジャムを塗り、口に運びながら手紙を読むというやたら行儀の悪い方法で腹と胸の飢えを満たしながら、真崎の口元に思わず苦笑が漏れる。

多分、同封したものはお前のことだから等閑に読んで──いや、ロクに読みもせずにごみ箱に放り投げているだろう。だから、お節介だとは思うが一応書いておく。こんなけちのついた作品で新人賞を取らせるよりは、次回に期待してまっさらな状況で賞を贈りたい、そう思わせるだけの才能を感じている。っていうのが、審査委員長の見解だそうだ。俺も大いに賛成だ。どうせその辺は読んでないだろうけどな。そう書いてあったよ。いずれにせよ、あれから猟奇殺人やら大物芸能人夫婦の離婚やら不倫騒動やらでワイドショウの関心もすっかりそちらに移って、何事も無かったような顔で立木一枝は今、新しいドラマの主人公の継母役をやっている。面白いもので、水面に放り込んだ小石の作った波紋は静まってみると結局何事も無かったっていうのと似ているよ。

 その中に、ずっと待ちこがれていた作家の新刊が入っていた。二年から三年に一冊という割合スロウなペースで書き下ろすその作品は、ベストセラーに上るようなことはないが、根強い固定ファンは多い。
 向こうはだいたい午前三時か……まだ起きてるな。
 小学校高学年になるころには、既に日付が変わる前に眠った事がないという秀則は、最近では朝方にならないと眠れないらしい。それでも、親元を離れているにも関わらず、大学には一限目から遅刻もせずに出席するのだから、果たしていったいいつ眠っているのだろうと真崎には不思議だ。確かにうたた寝や昼寝はしょっちゅうしているにしても、それを全て合計したところで、一日の睡眠時間は五時間を越えてはいまい。
 ミセス・グラスメアに頼めば快く貸してくれるであろう事は分かっていたが、国際電話となると気が引けて、真崎は部屋を飛び出した。一番近くにある公衆電話、といっても、ほとんど駅前まで出る事になる。歩いて行けない事もない、という表現が一番適切な距離は、やはり時間に追われる事がない生活であっても、のんびりと歩く気には滅多にならない。自転車に跨り、一気に坂を下った。
 寝起きは決して悪くない秀則だが、寝入りばなをたたき起こしてしまった場合は例外で、本人曰く、寝ぼけているらしいのだが、それにしては怒り方はいやに論理的でとことん底意地が悪い。運悪く説教が始まった日には、用件を伝える前に、いい加減寝ろ、言ってしまいたくなる。尤も質が悪いのは、本人がそれを覚えていない事なのだが。
 緑鮮やかな牧草地を抜けて川を渡ると、真っ先に教会が目に入る。特に目を引くようなところのない地味な外観とは裏腹に、中の装飾は華麗でガイドブックで大々的に紹介されている教会や聖堂に勝るとも劣らない。町の人々が敬虔な信者である事の理由の一つでもあるのだろう、と真崎は思う。天井画の中で天使は舞い、光は何条も地上に救いをもたらして、そこには現世では決して辿り付く事の出来ない世界が広がっている。
 町の中心地に入ると、流石に注意していないとぶつかる程度には人通りがあるし、交通量も格段に増える。何となく周囲に気を配りながら、空いた公衆電話を見つけ、自宅の番号以外で唯一覚えている電話番号を押した。ここに来てから掛けている唯一の番号でもある。
 が、最後の一桁を押す指が止まった。
 何をこんなに慌てて連絡を取ろうとしているのだろう?
 心の何処かで、あと数時間待ってから連絡を入れてもいいじゃないかと思わないでもなかった。それなら確実に秀則は起きているはずだった。
 ただ急に人恋しくなっているだけなのか、不安にかられているだけなのか、真崎には判断がつかなかった。
 いつまでも逃げているわけにはいかない事は、何も彼女の事だけでは無い。
 そんな事は分かっている。それでも、まだ決心は付かなかったし、自分は悪くないんだと子供ぽい言い訳を繰り返さずにはいられない。
 けれどそんな現実はこの町に居る限り、無用の物でもあった。ただ、心を苛むだけの現実に意味はなく、安らかな心癒されるという事さえもここではない。そもそもそんな必要がなかった。癒されるべき傷など付かないのだから。
 軽く頭を振って真崎は一旦置いた受話器を持ち上げた。
 鳴り続ける呼出音は真崎の心臓を引っかくばかりで、なかなか秀則の声を引き寄せてはくれない。諦めて受話器を置こうとした時、ようやく呼出音が止んだ。
「用件をどうぞ」
 そしてピーっという電子音が続いた。
 寝ていて気付かないのか、それとも呼出音の音量を下げているのかはともかく、十回以上コールさせておきながら、なおかつ愛想の無い事この上無い対応の留守番電話になっているのだ。余程の用事でも無い限り電話なんか掛けてくるな、という無言の意思表示。いかにも秀則らしいと苦笑しつつ、
「まだ当分こっちにいる。それじゃ」
 と受話器を置いた。
 結局秀則の罵詈雑言を聞く事さえない空振りの電話ではあったが、少し気持ちが軽くなっていた。

 少し風が強くなっていた。青々と繁った街路樹の葉鳴りが合唱のように心地よく、街中に響き渡っている。
 上着のポケットに入れっぱなしだった緑柱石の冷たい感触を無意識に指先に感じながら、ミセス・ヘイワードの言葉を思い返した。

 彼女とあなた、出会わずにはおかない力が働いているような気がする。

 駅の周辺の表通りを一周してみたが、彼女の姿はなかった。
自嘲めいた苦笑が知らず漏れる。
 いくら大切な物とはいっても、たかだかスケッチブックを取りに戻ってくるとは思えなかった。それほど大切なものならば、はなから忘れていったりするはずもない。
 花の礼でも言いに行くか。
 いつものカフェに向かおうと漕ぎ出し掛けて、慌ててジーンズのポケットに手を突っ込み、小銭はともかく、がさがさとした手触りの紙幣が入っている事を確認した。財布を持つ癖が余り無く、普段からいくらかはポケットに入っていた。ただし、そのためにジーンズと一緒に洗濯されてしまった紙幣は数知れない。
 街路樹からこぼれる午後の光は蒼い影の中できらきらと水面のように揺れて、眩しさに眼を眼を細めた。駅の近くはちょうど列車が付いたばかりなのか、改札の辺りはやたらと混んでおり、そして真崎は予言された偶然に遭遇した。



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