永遠の原

04, 真実と幻想と


からりと晴れた、秋らしい日だった。街路樹は冬仕度を始めていたが、上着を着ていると汗ばむほどの、暖かな日和に、むしろ不安に似た気分をかき立てられながら、不機嫌な顔で真崎は人の流れの中を歩いていた。
 そのビルは、人混みの激しい表通りから一本奥まった路地の先にあった。
 蔦の這う煉瓦造りの、古めかしい外観のせいばかりでなく、その辺りの空気の匂いが、あの町を思い起こさせた。
『時の環』
 余り目立たない木のプレートを見つけて、立ち止まる。前もって知っていなければとてもそこが店であるとは気が付く事は無いのではなかろうか。
 真崎はゆっくりとその扉を開けた。
 薄暗い、どうにかホールと呼べる空間があり、目の前には階段があった。正面の踊り場には小さな椅子が置いてあり、『時の環』という文字と、上向きの矢印の描かれたアンティークな感じのプレートがたてかけられていた。
 一段上る毎にきしむ音が響いた。
 上りきると、もう一枚の扉が目に入る。そこには何の印もなかったが、そこが『時の環』への入り口だと言う事は不思議と確信できた。光源など何処にもないのに、そこだけがぼんやりと明るく感じたからだ。
 軽くノックをしても、返事は無かった。少し強めに、いささか乱暴なくらいにドアを叩いても、返事は無く、真崎は冷たい真鍮のノブに手をかけた。
 鍵は掛かって居らず、抵抗無くドアは開いた。
 やわらかな光に満たされた空間が、不意に現れた。
 レースのカーテン越しに午後の光が差し込み、ゆらゆらと影が揺れている。
 外観同様、古い洋館を思わせる、落ち着いたアイボリーの壁紙と、艶やかに磨き込まれた床、コーナーに置かれたアンティークな引き出しや棚、そういった諸々が、真崎にデジャヴを起こさせる。
 異空間だ、まるで。
 窓辺の日溜まりでは、パピヨンにしては大柄な犬が真崎を一瞥したきり、知らん顔で惰眠を続け、部屋のほぼ中央では、置かれた丸いテーブルにつっぷして眠っているその部屋の主がいた。
 噂では、盲いた目は黒い布で覆われて、常に顔は頭部に巻かれた布で隠されているという占い師だ。
一歩、部屋の中に足を踏み入れると、ぎしっと床がきしんだ。
 その音で目が覚めたのか、元々眠ってなぞいなかったのか、おもむろに頭を上げると、彼女は立ち上がった。
「いらっしゃい。ずっとお待ちして……待ちくたびれてしまいました。随分、時間が掛かったのですね」
 穏やかな声。年の頃は二十半ばを過ぎたくらいだろうか。
「……あいつは、『時の環』を訪ねろとしか言わなかった。あなたが、まこと?」
「嫌だ、かずみったら私の名前、言ってしまったのね。ここでは白鐘珠希と名乗っていたのだけれど」
「そんな事はどうでもいい。あんたがまことだろうとたまきだろうと」
「どうでも言い事ではないんです。こういう事を生業としている者にとって、名前はとても大切なものなんです。立ち話もなんですから、取りあえずこちらにお掛けになって下さい」
 淡いグリーンの地に、襟元、袖口に細かな刺繍の施された衣装は草原の民を思わせる。噂通り、頭からすっぽりと布を被り、見えるのは、薄紅に彩られた口元と細い顎、袖口から覗く指先くらいのものだ。
「俺は、あの石を返してもらいに来ただけで話をしに来た訳じゃないんだ」
「石? 赤根さんの……結晶の事ね。これも一つの幸福の形だわ」
 真詞は親指と人差し指に挟んだ石を、陽の光に透かした。
「それ……っ」
 真崎の手が、その石に掛かる直前に、真詞は固く石を握り締めた。
「それは、俺がミセス・ヘイワードからもらったものだ」
 石を握り締めた拳を口元にあてて、真詞は真崎を見据えた。
「……本当に?」
 黒い布ごしであることを感じさせない、強い視線を向けられて、一瞬たじろいだが、半ばそれを悟られないように、真崎は吐き捨てるように言った。
「疑うんなら聞いてみればいい。」
「誰に? ミセス・ヘイワードに? 本当にそんな人は存在したのかしら?」
 ころん、と真詞はテーブルの上に石を転がした。
「この石は……そう、あなたのものかもしれない。」
 歌うように、真詞は言った。

 使い込んだテーブルの、つやつやとした面に頬を載せて、真詞は階下から上がってくる足音を聴いていた。
 やっと、来た。
 もう腹立ちさえも忘れてしまったほどに、待ちくたびれてしまっていた。
 手の中には、蒼い石がある。
 予感は、赤根が『時の環』の扉を叩いたときから感じていた。けれど、運命に導かれた者を追い返す訳にもゆかず、また、初めて自分の運命の糸に引っかかってきた彼女に対する好奇心は抑える事は出来なかった。そうして、彼女の望み通りの呪いを掛けた。
 やがてそれが自分に降り懸かってくるとは思わず。
 が、現にその蒼い石は彼女の手の中にあり、そして、一つの岐路に立たされていた。
 やがてドアが開き、待ち人は真詞の前に姿を現した。
 最初から、敵意に満ちた空気に、殊更に真詞は愛想よく、なにも気付いていなかのようににっこりと笑ってみせた。
 手の中の石を見せた時の、真崎の反応に、真詞は満足した。
 彼は、本気でその石を返して欲しがっている。
 その事実さえ確認できれば彼女は満足だったが、そんなに簡単に返すつもりはなかった。それに、その石の在るべき場所は、彼のところでない事も解っていた。その石は、赤根が結局この世で唯一人、執着した──彼女は、それを愛だとはついに認める事がなかった──人の元に、あるべきなのだ。その運び手として、真崎は充分に適当な人物なのかどうか。

「この石は……そう、あなたのものかもしれない。」
 やわらかい声の響きに、真崎は戸惑う。
 一体この女は何を言っているのだ?
 からかわれているような気がして、真崎は露骨に嫌悪感を顕にした。相手が見えていないと思うと、感情までもが自分に分かりやすい形で表出する事に多少戸惑いながら。
「……ミセス・ヘイワードがこれをあなたに託した時、何か言っていなかったかしら?」
 更紗を揺らして、真詞は言った。
 何か──あの時。
「お守りだと……運命の糸が間違って絡まらないように」
 素直に答えてしまってから、真崎はさらに眉間の皺を深くした。何の脈絡もなく、弄ぶようなゆらりゆらりとした調子で、肝心の事はするりとかわされてしまっていると言うのに、まんまと相手のペースにはまっている自分のうかつさにも、苛立たしくなってくる。
「確かにそう言ったのね?」
 沈黙を、真詞は肯定と解釈したようだった。
「そう。なんて厄介な事を……赤根を見たときから分かっていたはずなのに……」
 そして、忌々しげに吐き捨てた。
「何の話だ?」
「ヘイワードは、私と同業者ってことよ。赤根が誰かに呪いを掛けている事は一目で分かったはずなのに、一体何だってこの石をあなたに託したりなんか……」
 今にもテーブルを拳で叩きそうな勢いで真詞は言った。握り締めた拳は関節が白くなるほど強く握り締められていた。
「そんなにまずい事なわけ?」
「あんた、本当に赤根が死んだとでも思ってんの?」
「分かんねぇよ、んなこと!」
 その突き放すような口調が意外だったのか、真詞はゆっくりと顔を上げ、真崎の方を向いた。
「……そうね、ごめんなさい、あなたはただ巻き込まれただけだったんだわ……」
 あっさりと謝罪の言葉を口にして、ゆるりと頭を振り、俯いてしまった姿に毒気を抜かれて、真崎は大げさに溜息をついた。
「だから、一体なんなんだって」
「信じるかどうかはあなた次第だけれど、赤根はただこの石に封じられてるだけで、またこの世界に具現化出来るのよ。そういう力のある石を、あの莫迦があなたに託したりするから、正直困ってる」
 あなたが何を望んでいるのか分かってしまったから。
 そう続けるつもりの言葉を真詞は飲み込んだ。
「あの莫迦って、ミセス・ヘイワードの事……だよな、……でなんで俺が託されてそう言う事になってんだよ」
「……普通なら、赤根は呪いを無に帰すための代償として死ぬはずだった。これは水素と酸素が結合して水分子が出来上がるっていうのと同じ法則というもの。なのに、その石はちょっと特殊な力があって、赤根をその身に取り込んでしまって、その代わりに呪いって聞こえが悪いわね、意図的に掛けられた力で生じた歪みを修正してしまった。だから、その石から赤根を解放できれば……」
「最初から何もなかった事になる? やり直しがきくって事?」
 身を乗り出しそうな勢いに、やはり、と真詞の胸の内に影が落ちた。
「出来たとしても! 私は絶対に許さない」
 ぎりっと真詞は奥歯を噛みしめた。
「少なくともそれは、決してしてはならない、唯一の約束ごとなのよ」

 しん、と空気が沈んでいた。身動き一つせず、目の前の女は黙り込んでしまった。じっと痛みに耐えているかのように、静かに俯いている。
 もし、そんな事が可能ならば。
 けれどとても言葉を掛けられるような雰囲気ではなく、真崎もじっと様子を窺いながら沈黙を守っていた。
「真詞、コーヒー淹れたよ」
 華奢なコーヒーカップが二つ、目の前に置かれて、真崎はふと顔を上げた。
「あ、お前っ……」
「お久しぶり。随分掛かったね、ここ来るのに。」
 かの少年はかくも簡単に言ってのけた。
「あのな、店の名前だけですぐに分かるわけないだろうが。」
「同じ街にあるんだし、タウンページにも乗ってるよ。最近じゃインターネットでも結構有名らしいんだけど」
 小莫迦にしたように肩をすくめる仕草も憎たらしい。
「女ならともかく、俺なんかには占い屋なんて縁はないんだよ」
「そう。ま、どうでもいいけど」
「かずみ。あんた、この人に私の本名、教えたわね」
「教えたっていうか、ま、なりゆき」
「そういう問題じゃないでしょう! ヘイワードといいあんたといい、この一件に関してどうしてこんなに話をややこやしくするのよ!」
「どこがややこやしいのさ。真詞が勝手に複雑怪奇にしてるだけじゃない。」
「……かずみ、あんた、一体どんな願いを叶えたのよ」
「単純なことだよ。あの人は、赤根理生に幸せになってほしい、そう願ったんだ」
「それがどうしてこういう事になるのよ」
「赤根が幸せになれるんなら、あの人はそのまま死んでも構わなかったんだ。でも、きっとそれでは赤根は一生苦しむだろうって。何とか彼女を救えないかって。簡単に言ってくれたよ」
「……それで、ヘイワードにあの石をこの人に渡させたの?」
「それは違う。別にヘイワードもこうなるだろうなんて思ってなかったんじゃないかな。それでも、真崎がどうしても深く関わってくるだろうって予感があったから、あの石、渡したんだろ」
「……話が、全然見えないんだけど」
 むっつりと、真崎は話に水を差した。
「そもそも、あなたに分かる話じゃないんだって」
 かずみは憎まれ口を叩いた。
「よかったわね。」
「え?」
「真崎さん、その石を持っていなかったら、赤根に目の前で自殺されてたわよ。もしそうなっていたら、罪の意識に苛まれて悲惨な事になっていたかもしれない」
「今でも充分罪の意識は感じてるよ」
「赤根は死んだ訳ではない、という事を知った今でも?」
「当たり前だろう」
 軽く肩をすくめ、真詞は深々と溜息をついた。
「鳥は空に、魚は水に、人は大地に……」
 真詞は石を手に取った。
「……面倒くさいわね、こんな石、砕いてしまうのが一番かもしれないわ。赤根との契約は果たした。かずみも、あの人の願いは叶えた」
 冗談じゃない。
 がたがたと派手な音を立てて、真崎は立ち上がった。
「叶えた、って、あれが結末なら、全然赤根は幸福でも何でもないじゃないか!」
「赤根は幸福だよ」
 まっすぐに向けられた視線とその言葉は、子供が小生意気な口を叩いているような浅はかさのない、真摯な響きを持っていた。
「赤根は現実なんかもう見ていられなかった。そりゃあね、現実って場所でしっかり生きていけって言うのは簡単だけど、赤根にとっては地獄を生き抜けって言ってるような物なんだ。他人の僕が言える言葉じゃないよ。だって僕は赤根と共に生きてゆくわけじゃないんだから」
「だけど、死ぬ事ないじゃないか、生きていれば」
「思ってたより、あんた莫迦だね。自分が、いちばん大切な人間呪い殺して幸福に生きて行けるわけないでしょうが。赤根が死なない限り、彼女は死んでたんだよ」
 事も無げにかずみは言った。
「だけど、赤根は死んでない、その……石の中で生きてるん……なら……だったら、もう一度やり直せるんじゃ」
「そんなこと、私は許さない。コンピューターのように、気に入らないから、上手く行かないからといって簡単にリセットしたり初期化したりして済む事とは違う。一度引き起こした事は必ず何らかの結末が待ってる。やり直しっていうのはその結末を引き受けることであって、無かった事にするって言うのとは違う、それはただの紊乱でしかない。いずれ、酷い事を引き起こすわ。そうなったら、私たちでも歪みを直す事なんか出来ない」
「歪みを直す……?」
 ゆっくりと真崎は首を横に振った。
「私たちは、人の運命に多少だけれど力を加えて変える事が出来る。でも、その分重荷を背負うわ。だから絶対に事象を消し去るなんて愚かな事はしないし、歪んだ部分は修正してゆく。生命を削ってでも」
「よく、分からない」
 だだをこねるように、真崎は首を振った。
「呪いを掛けると言うのは、人の運命に干渉するという事。それなりに反動がある。それを身を持って受け止めると言うだけの事。単純な事でしょう?」
「そんな非現実的なこと信じられない」
「こんな石に赤根が封じられてるというのは信じられても?」
「それはっ……」
「どんな非現実的な事でも、生きているという僅かな可能性が残されているのならば信じたいという心理?」
 先を越されて、真崎は唇を噛んだ。
「恥じる事はないわ。そういうものよ」
 確かに、真詞の表情の何処にも真崎を侮蔑するような色合いはなかった。
「私たちは自分達の事、リュカイアって呼んでる。何処の国の言葉だったか忘れたけど、人狼のことなんだけれどね、はぐれ者、って意味あいでね、使ってる」
 まさしくその通りだと思った真崎の内心を見透かしたかのように、くすり、と真詞は笑みを浮かべた。その些細な仕草が、何故か真崎の感情をささくれ立たせた。
「私ね、母親を殺してる」
「……は?」
「母親を殺したの。だからはぐれ者になるしかなかったのよ」
「……俺の事、おちょくってる?」
 あまりに突拍子もない話に、真崎は眉を顰めた。
「そうかもしれないわね」
「冗談にしたって、質が悪すぎる!」
「冗談かどうかはともかく、何をむきになっているの? たかが他人事でしょうに」
 余裕のある表情から冷ややかな言葉が紡がれる。それは真崎の自制心を壊すに充分だった。
「そうやって顔隠して、盲目の振りして布のしたから相手の表情窺ってんのはさぞかし面白いんだろうな!」
 そう言うが早いか、真詞の頭部を包む更紗を掴み、引き剥した。糸が切れ、軽い音を立てながら床に散らばった色とりどりのビーズは、午後の黄味を帯びた光を弾いた。
 乱れた髪を無造作にかきあげて、真詞は睨むでもなく真崎に視線を投げかけた。深い、闇色をした瞳が言葉よりも雄弁な感情の色を湛えて。
「私は自分から盲目だなんて言った事はない。それに、こうして目を塞いでいるのは、相手をみて先入観を持たないため。それなりに理由はあるのよ」
 黒曜石のような瞳に、真崎は驚いていた。
「青い目でもしていると思っていた?」
 図星を差されて真崎はむっつりと横を向いた。
 気にした様子もなく、真詞はおもしろうそうににやにやとしていた。なまじ整った顔立ちをしている分、それは人の悪い表情の最たる物の一つと言っていいほどだ。が、やがて真顔になると、
「もう、ここには来ないがいい。赤根の事は、夢だったと、二度とあの街に行こうなんて思わない事ね。あなた自身の為にも」
 そういい、立ち上がった。
 最初、草原の民の如く風のように自由さを感じさせていた姿が、まるで鎖に絡み付かれた不自由さを纏っている。
「……疲れた。私はもう休む」
「ちょっと待てよ、その石は」
「砕く。あなたに渡すとロクなことになりそうにないし、私が持っていても仕方がない。だいたいこんな力のある石なぞ、存在していて欲しくもない」
「赤根を殺すのか」
「うるさい。あなたには関係のない事。……あなたは運が悪かったね、こんな事に巻き込まれて。でも、自身にも責任はあるのよ。あなたも逃げていたのだから」
 更紗の裾を翻すと、真詞は奥の部屋に引っ込んでしまい、後には、窓辺で退屈そうにコーヒーを啜るかずみが残された。
「莫迦だねぇ」
 おもしろくもなさそうに、かずみは呟いた。
「莫迦で悪かったな」
 どっかりと真崎は椅子に腰を下ろした。
「悪いよ。……全く、真詞が初っ端からあんなこと喋るなんて思わなかったし……」
「あんなことって、母親を殺した、って話?」
「俺はさ、真詞がこのままリュカイアでいる事には反対なんだ。尤も勝手に足の洗えるものでもないけどさ。だから、あんたが真詞を救えるんじゃないかって、見込み違いだったかな。」
「のようだな。」
 面白くもなさそうに、真崎は冷めかけたコーヒーを啜った。
「……でも赤根の事にはあんたはすごく必死だ」
「一応関わったし、ちょっと酷い事いろいろ言ったし……」
「だね」
 かずみは小さく肩をすくめた。
 どうして、あんな事になってしまったのだろう。何度も何度も繰り返してきた自問自答に、未だ答は出ていなかった。
「真詞が母親を殺したのは、もう十年近く前の事だよ。正確には殺したっていうより、身を守ったんだけど」
 幼い頃の悪戯話をするような調子で、かずみは話し始めた。
「……?」
「その日は、塾があって真詞の帰宅が遅いから、久しぶりに父親と三人で夕飯が食べられるかもしれない日だったんだ。で、いつものように家に帰ると母親が出迎えた。その時には、エプロンはもう真っ赤に染まっていて、その手には血塗れの包丁があったそうだよ。無我夢中で、その刃から逃げて、気が付いたときには母親は包丁が胸に刺さって倒れていた。奥のダイニングでは血だまりの中につっぷしている父親の姿があり、その後、父親の浮気を疑い気に病んでいた母親が衝動的に起こした無理心中事件として処理されたそうだ」
「……だったら、どうして母親を殺したなんて……」
「本当は真詞はその時に母親に殺されるはずだったんだ。けれど、真詞はその運命を変えてしまった。そうしてリュカイアになったんだ。生きたいという思いの強さが、結果的には母親を死に至らしめたと思っているんだよ」
「そんなことぺらぺら俺なんかに話していいのか、軽い気持ちで話せる内容じゃないだろ」
「そうだけど、こんな話を聞いたら、真詞に少しは優しくしてくれそうだしね。いいんだ。真詞はさぁ、もう少し心を開くべきなんだよ。同じリュカイアに対してだってまるで敵同士みたいな感じだし。あ、ヘイワードは社交的な人だから、真詞みたいに独りで殻に閉じ込もっているようなのにも、まめに連絡くれたりね……彼女みたいな人がいないとリュカイアの連帯なんてないのかもしれないけど……」
「今一つ理解できないんだけど、その、リュカイアって、占い師の同盟みたいなもの?」
「あんた、先刻何聞いてたの」
 かずみは小さく溜息を付いた。
「ものすごく分かりやすい例えで言うと、機織りの縦糸や横糸がもつれたり切れたり、模様が間違ったりしないように、監視して修正をしてゆくのが役目。その為に、はぐれちゃってる。っていうのも今一つ正確さを欠くんだけど……どっちにしろ、分かんないでしょ」
「どっちかというと、そのリュカイアの存在意義が理解できないね」
「そんなもの、彼らだって分からないよ。分かっていれば誰も苦しまない。それに、あんた、自分の存在意義ってもの、わかって今、この次元に存在してるわけ?」
「少なくとも特殊な理由を持たずに存在している事は確かだな」
「……これだけ関わっておいて、特殊な理由がない? よく言ったもんだね、鈍感もそこまで行くと天晴だ。だからこそ、あんたになら真詞を救う事が出来るのかも知れないと感じたんだけど」
「悪いけど、俺はこれ以上あの人に関わるのは御免だね」
「まぁ、真詞が客以外の初対面の人間に好印象持たれるとは思ってなかったけど……でもさ、このまま二度と来ないつもりなら、本当にあの石、砕かれるよ」
「その前に返してもらう」
「どうやって?」
「どうって……」
「あんなに意地っぱり状態になった真詞から、正攻法で返してもらえると思ってるの?」
「盗む訳にもいかないだろうが」
「というより盗むことなんか不可能だよ。やれるものならやってみな、って言いたいね。
 真詞はさ、あれで結構優しいとこ、あるんだ。だから、むしろ正攻法で行ったほうがいい。天の邪鬼だから、時間は掛かるだろうけどね」
「……性格悪いんだな、要するに」
「自分の事を棚に上げないように。いずれにせよ、今日はもう帰ったほうがいい。真詞はこの後の客、全部キャンセルして、眠るつもりだから。」
「よくそんなんで商売勤まるな」
「しかたない。眠る以外に、消耗した精神を回復する術はないんだから。どんな職業もそうなんだろうけど……でも、ここまで身も心も削る商売は少ないと思うよ」

 真崎が帰った後も、暫くかずみはぼんやりと窓辺に佇んでいた。
 既に陽の光は近隣に立つビルの向こう側、部屋の中は薄暗かった。
 果たして彼は再びここの扉を叩くだろうか。
 不安がよぎる。
 赤根の事なぞかずみにとってはどうでもいいことだった。もしあの石を砕く事が真詞に平穏な日々をもたらすのであれば、全く構う事などなかった。ただ、それはかずみのかわした約束を一つ、破る事につながりかねなかったけれど、いちばん大切なのは真詞であって、その他は全てどうでもいいことだった。
 私室のドアを後ろ手に閉めると、衣装を脱ぎ捨てながらバスルームに向かい、頭からシャワーを浴びた。壁のタイルに手を付いて、ようやく立っていられた。それほど疲れていた。そのまま熱い湯に打たれながら眠ってしまいたいくらいだった。
 何を、期待していたのだろう。
 自分でもよく分からない失望感は、茨の棘のように真詞を苛む。
 どうして赤根が訪れたとき、扉を開いてしまったのだろう。
 予感はあったのだ。予感、というのは概ね良い事であるはずがないことも、経験から充分分かっていたはずなのに、神様が気まぐれでも起こすかも知れないと思ったのだろうか。
 気まぐれを起こしたのは他ならぬ真詞自身であり、いつものように、扉を叩いた者に必要以上の興味を持たなければ、その痛みも感じないで済むはずだった。
 痛み?
 既にそんなものを感じる感覚などとうに失くしていたはずなのに?
 思わず苦笑が漏れてしまう。
 どうなろうと、知った事ではない。真崎にさっさと石を渡してしまえばいい。どのみち真崎に赤根を甦らせる術など分かりはしないのだ。でも、甦らせる事の出来る可能性を持った人間の独りには違いなかった。
 呪いは、赤根の死をもって解かれたのだと、今の状態ならば言えるだろう。けれど、もしまかり間違って赤根が現世に具現化してしまったら、代償は真詞が引き受けねばならない・・真詞の生命で。
 白い光がぱちぱちと火花のように飛び散ったかと思うと、ふっと目の前が暗くなった。目を閉じたままコックに手を伸ばし、湯を止めた。
 それも、また一つの結末か。
 足元をふらつかせながらバスルームを出ると、等閑にふいた髪をタオルでくるみパジャマ代わりのTシャツとショートパンツを着てベッドの潜り込んだ。
 こんな格好を見られたら、またかずみに風邪をひくとかなんとか怒られるなと思いながらも、睡魔は完全に真詞を捕らえてしまっており、その手の内に引きずり込まれるが侭に眠りに落ちていった。

 真崎が再びそこを訪れたのは、それから十日あまり経ってからのことだった。
曇り空広がる肌寒いその日、憂鬱な気分を引きずって扉を叩こうとする直前に、内側から扉が開いた。
 高校生くらいだろうか、目元にやたらインパクトのあるメイクを施し、同じような格好をした二人の少女が、泣きそうな顔をして出てきた。軽く腕とバッグがぶつかった程度にもかかわらず、情けない表情を見られたばつの悪さからか、ほぼ同じ目線の高さで思いきり睨み付けられ、真崎はたじろいだ。
 高いヒールのブーツを引きずるようにして、不器用に階段を降りてゆく二人を横目に見送って、真崎はまだ開きっぱなしのドアの中に入った。
「あなたを招待した覚えはないのだけど」
 そう言いながら鬱陶しそうに頭部の更紗を取った。ちらりと真崎に鋭い視線を向けはしたものの、少なくとも客という認識はないのだろう、窓辺のソファにぐったりと身を身を沈めた。
「石を、返してくれればすぐ帰るよ」
「砕いたわよ、あの日に」
「砕い……た?」
「ええ」
「人殺し……」
「その通り」
「どうしてそんなことを……赤根はだって、あの石の中で生きて……」
「あなた、本気で信じてたの? そんなばかばかしいおとぎ話を」
 小莫迦にした苦笑に、真崎は頬が熱くなるのを感じた。
 確かに、そんな事を信じたと言うのはばかばかしい事ではある。けれど。
「おとぎ話なんていいながら、だったらどうしてあの石を返してくれない?」
「ただの意地悪。」
 さらりと言ってのけると、真詞は行儀悪くソファの肘置きに片足を乗せた。背もたれに頭を預けて、気だるそうに外を見る。その窓から見える風景は酷く味気ない。汚れた隣のビルの壁と、僅かに住宅街に伸びる道につながる坂道の階段とその周辺に僅かに残る緑が見える事がどうにか潤いと言えない事もない。
「意地悪って、子供じゃあるまいし……あんた一体何考えて……」
 不意に真詞は身体を起こし、真っ直ぐに真崎を見据えた。
「私、あんたみたいな人間、大っ嫌い」
 彼女の肩を覆う長い髪の下から覗く黒曜石の瞳には、口にした言葉のような子供っぽさはない。
「あーあ、言っちゃった」
 唐突に、暢気な声がすると同時にふわりと紅茶の香りが漂ってきた。
「角の店でケーキ買ってきたんだ。おやつにしようよ。」
 テーブルには既に切り分けられたケーキが並べられ、かずみは慣れた手付きで紅茶をサーブしている。
「角の店ってピレットの?」
「うん。真詞、あそこのケーキ以外食べないんだから当たり前でしょ」
「……私がまるで我が侭みたいな言い方ね」
「真詞は我が侭だよ」
 悪びれる様子もなく、かずみは地雷を踏みつけるような言葉を平然と言った。明らかに気分を害してはいるのだが、ケーキの誘惑には勝てないのか、複雑な表情で真詞は立ち上がる。
「真崎もどうぞ」
 随分と愛想のいい笑顔を向けられて、入り口につっ立っていた真崎はようやくドアを閉め、中に一歩踏みだした。
「かずみっ!」
「いいじゃない。二人で食べるにはこのケーキは大きいよ。」
「そう言う問題じゃ無いでしょう。だいたいこの後予約の客だってくるのに……」
「来ないよ。」
「どうして分かるのよ。」
「先刻、ドアにCLOSEのプレート、掛けてきたから。さ、お茶しよう」
「あんた分かってる? 今月はただでさえお客が少ないのに、格好の鴨逃すような事してどうすんの。」
「いいじゃない。別に一人も客が来なくたって、家賃収入だけで食うには困らないんだしさ。」
 むっつりとした顔をしながらも、真崎が同席する事を容認する事にしたらしい真詞は、いささか乱暴に、ケーキにフォークを突き立てた。
「さ、どうぞ、お茶、冷めるよ」
「……んじゃ、お言葉に甘えて……」
「どーぞ」
 にこり。
 お陽さまを思わせる明るさと暖かさを持った笑顔は、あの時の姿がまるで冗談であったかのようだ。あの姿は月の化身の如き冷たさと残酷ささえはらんでいたというのに。
 本当に、あの日々は存在したのだろうか。
 そんな気分をも生まれさせて・・
「冷めない内にどうぞ。」
「いただきます……」
 奇妙な気分だった。
 いつのまにか冬深のペースに巻き込まれている。
 甘さが抑えてあるだけでなく、意外なほど軽い風味に仕上がったガトーショコラは、人によっては物足りないと感じるかもしれなかったが、こってりとしたものが苦手で、薄味に慣れた真崎には程良く、実のところ大して洋菓子には食指の動かない彼にしては珍しく、確か角のピレットという店で買ったと言っていたな……などと頭の中で反芻していた。
 ぶすくれた顔で、二切れ目のケーキを黙々と口に運ぶ真詞の様子は子供っぽく、自分よりも絶対に年上だと、意識するでもなく思っていたが、実はそうでもないのかもしれないと思い直していた。
「先刻、あんたがすれ違った女の子二人組、泣いてなかった?」
 頬杖を付いて、既に空になったケーキプレートをフォークの先でつつきながらつまらなそうに真詞は言った。
「いや……泣きそうな顔はしてたけど。」
「つまんない。あの鼻づまりおこしてるような声聞いてるだけで腹立ってきたし、その上ぞんざいな口叩かれると、やる気というか……なんか商売なんてどうでもよくなるわ」
「泣かせるつもりでなんか言った訳?」
「泣いたと思ったんだけどな」
 軽い舌打ちに、それが冗談はないのだと真崎は悟った。
 ちりん。
 ケーキプレートの上にフォークを放り出し、浅く腰掛けてだらしなく足を伸ばしたその格好は、とても客に見せられた物ではない。
「かずみ、店、畳もうか」
「真詞の思うように」
 口元に微笑さえ浮かべて、かずみは答える。
 慣れた会話なのだろうかと思わせるほど、それはするりとなされた。
 が、意外なことに、真詞の方は驚いた顔でかずみの方を見ていた。
「……それは……私を捨てるってこと?」
 更に想像も付かない台詞が紡がれて、真崎は息を飲み、音を立てないようにそっとカップをソーサーに戻した。
「そうよねぇ、かずみがここにいる必然は無くなるんだわ……」
「真詞、真崎が吃驚してるよ」
「他人なんて、どうだっていいのよ。他人なんか。」
 別に苛付いているようでもない。無論、酔っているのでもない。歌うような口調は穏やかで優しい。
「前にも言ったでしょう、僕は真詞と一緒に地獄に堕ちるって」
 一瞬、これ以上無いと言うほど悲壮な影がよぎり、そして、彼女は笑った。そして、少し濃く出すぎた二杯目の紅茶を自分で注ぎ、からになりかけている真崎のカップにも注ぎ足した。
「どうも……」
「飲み終わったら、帰って」
「石を返してくれたら帰るよ」
「だから、もう砕いてしまったって言ったでしょう」
「じゃあその欠片でいいよ」
「そんなものとってあるわけないじゃない」
 面倒くささを装って、何とかその話題を終わらそうとしている事は見え見えで、だから余計に真崎はしつこく食い下がった。
「どうしてそうまでして俺にあの石を渡したくないんだ? せめてその理由を、俺が納得できる理由を聞かせてくれたら諦めて帰るし、二度と来ないと約束もする」
「あんたが嫌いだから」
「どうして」
「そんなの理由なんてないわ。辛い物が嫌い、蛇が嫌い、蜘蛛が嫌い、幽霊が嫌い、真崎信乃が嫌い」
「……どうして俺のフルネーム知ってんだよ。」
「立木一枝の盗作騒動のときにね、ワイドショーかなんかでね」
 真詞は軽く肩をすくめた。
「あんたにしろかずみにしろ、いちいち名字がないな」
「こういう生業をしていると、うかつに自分の名前は教えないものなのよ。でも、まあいいわ。私は鳴海真詞。それが本名。でも白鐘珠希という名で通ってる。かずみには名字はないわ」
「ない?」
「ないよ。そもそも、名前だって真詞に付けてもらうまでなかったんだから」
 何か人に言いづらい複雑な事情でもあるのだろうかと、真崎は眉を顰めた。もしかしたら無神経な事を聞いてしまったかもしれないと思うと、少し落ち着かない気分になった。
「ああ、そんな顔しないでよ。取りあえず真崎には分からない世界っていうのが存在するってことを、分かっててくれればいいんだから」
「無理な話でしょ。この莫迦には」
「莫迦って、いくら何でも酷い言いぐさじゃないか?」
「じゃあ、その情けない顔、何とかしなさいよ。同情されたってどうしようもないこともあるなんてこと、あんただってよく解ってるんじゃないの?」
 不思議な事に、責められていると言う感じはしなかった。コーヒーは苦い物だと当たり前の事を言うように、そう言ったのかも知れない。
「……もう一度……訪ねてみるといい、あの町を」
「もう一度?」
「その目で確かめてくるといい。自分が癒された時間と場所を。それまでは、二度とあんたの為にここの扉は開かない」
 ゆっくりと立ち上がった真詞に促されて、真崎も立ち上がった。
 お茶の時間はもうお仕舞だった。
 ぱたりとドアが閉まる。
 まるで今まで一度も開いた事の無いかのように、扉はよそよそしかった。

 冬の終わり、陽射しは暖かくとも吹き付ける風は容赦無く冷たい、そんな頃、真崎はようやく渡欧するだけの費用を貯めた。
 バイトをするために講義を休むような本末転倒な事はしたくなかったし、また何ヵ月も休んでいた分、特別に出された課題の出来次第で単位を取る事が出来るよう取り計らってもらった以上、等閑な物を提出する訳にもいかず、講義の後は閉館まで図書館に入り浸り、それから深夜のバイトに精を出し、どうにか自分なりに納得出来るレポートを作成しおえ、試験の方は充分な手ごたえがあったものの、教授達の意地悪としか思えないほど、レポートに関する評価が下されるのに時間が掛かり、これは一年余分に大学に通う事になると覚悟し始めた頃、ようやく合格という沙汰が下り、心おきなく彼は懐かしい土地へ旅立ったのである。無論、今度はほんの束の間、中三日しかない非常に慌ただしい旅ではあったのだが。



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