永遠の原

02, それは多分目覚めに近いもの


 視界の端でふわりと黒髪が揺れた。
 普段からこまめに手入れをしているおかげで、古びた自転車に急ブレーキを掛けても、さほど音は鳴らなかった。
 旅行者にしては小さなボストンバッグを肩に引っかけた彼女は、酷く焦った面もちで何度か人にぶつかりながらその人混みの中を抜け出ると、バレッタが外れて髪から滑るように落ちた事にも気が付かないでタクシーを拾い、行ってしまった。
 声を掛ける間もなかった。
 自転車を引きながら道路の反対側に渡り、 幸い誰にも踏まれる事は無い代わりに関心を払われる事もなく落ちていたそれを、真崎はおもむろに拾い上げた。
 楕円形をした真鍮の板に、細かな文様が彫り込まれ、髪を留めた時に下側になる辺には五つ、ティアドロップ型の赤い石がぶら下がっている。素人目に見ても凝った細工だった。
 それにしても。
 溜息を一つ付いて。
 なかなか面白い偶然、だな。
 彼女の行き先は分かっていたから、おもむろに真崎は自転車を漕ぎ出した。どのみちタクシーの後を慌てて追ったところで追いつけない。もしドアに張ってあるメモを見て、すぐにタクシーで引き換えしたとしても、ヘイワード家まではほぼ一本道だから、行き違う事もないだろう。
 緩やかな丘陵を上り、白い家が見えてくる。そこからが道のりとしては遠く感じられる。うねうねと曲がるくねる道をいくら進んでも近付いた気がなかなかしないのだ。
マナーハウス。
 古い、数百年前の領主の館を改装した物なのだと聞いても、今一つピンと来るものがないのは、洋館というものにほとんど馴染みが無かったせいだろうかとも思うが、実際のところ古い物イコール何らかの影を背負っているという、真崎の先入観によるところが大きい。
 歳月を経ている割には、その館は余りにあっけらかんとそこに建っているのだ。ひときわ大きな影を落とす樹が、門番のようにそびえ、背後には森を従えた、まるで女王のような館であるのに。
 上り坂の途中で向こう側に砂ぼこりが上がるのがみえて、真崎はペダルを漕ぐ足を止めた。低いエンジン音が響いて来る。
 案の定、先刻のタクシーが向こうからやってきたが、後部座席には誰も乗っていなかった。真崎が軽く手を振ると、ぎしぎしといささか心配に鳴るようなブレーキ音を立てて止まり、いかつい顔をした運転手は思いの他人好きのする笑顔を向けた。
「グラスメアさんちの居候じゃねえか、どうした?」
 一応部屋代は払っているのだから居候ではないんだけどな……とは思ったが、わざわざ説明する面倒くささも手伝って、真崎はそれに付いては何も言わずに精一杯愛想のいい笑顔を作った。
「こんにちは。さっき、女の子乗せてませんでした?」
「おう、ヘイワードさんとこまでな。知り合いかい?」
「まぁ、そんなとこです」
「このところ絶えてた客人が続けて異国の人っていうのもおもしれえなぁ……それじゃあな」
年代物のタクシーを見送り、真崎は漕ぎ出した。
 程なく、ヘイワード家のマナーハウスが見えてきた。玄関先の階段に、途方に暮れた様子で座り込んでいる姿が、想像通りであった事に、真崎はほっと胸をなで下ろした。
「こんちわ」
 不意に声を掛けられて、彼女は余程驚いたのか、小さく「ひっ」と息を飲む声が聞こえた。目一杯に見開かれた瞳は、真崎の姿を記憶の中に見つけたのだろう、取りあえず恐怖の色が水に溶けるように薄まった。
「……こんにちは……」
「アカネさん、だよね?」
 露骨に怪訝な表情を向けられて、真崎は苦笑した。
「ヘイワードさんから、忘れ物預かってるんだけど」
「……じゃあ、あなたがマサキさん?」
「うん。先刻駅前で偶然見かけて、追っかけて来たんだ。っつっても、預かり物は今持ってないんだけどさ。だから一旦家に来てもらわないといけないんだけど……それと、これ、あんたのだよね? 先刻駅前で落としたのを見かけて……」
 差し出されたバレッタを見た彼女は、まるで盗まれた物を奪い返すかのような勢いで彼女は真崎の手からひったくった。青ざめた面には剣呑な表情が僅かに浮かんでいる。さすがに真崎も腹立たしさにすっと目を細め、彼女を睨め付けた。それに気付いているのかいないのか、胸元に押し付けるようにそれを握り締めて、彼女は眉根に皺を寄せて眼を閉じた。
「……よかった……」
 微かに呟いた後、再び眼を開いたときには、少し照れくさそうな微笑が生まれていた。陽に透けた髪がふわりと肩を包む姿は、これまでのつくりものめいた印象とはまるで違っている。
「ありがとうございました」
「どう、いたしまして」
 深々と頭を下げられて、戸惑う他無かった真崎の声は、少しばかりうわずってしまった。
「これ宝物なんです」
 手の中の物に注ぐ、小鳥の雛でも見ているような柔らかな目をそのまま真崎に向けて、彼女は言った。そして手際よくまとめた髪をそれで留めると、薄いベールを巻き付けているような、存在の感触の不確かさが意識の中に生まれた。
「ごめんなさい」
「……え?」
「今、私、すごく感じ悪かったでしょう?」
 素直にそうだと言う訳にも行かず、言葉に窮していると、くすりと彼女は笑った。
「このバレッタを他人に触られるのが嫌なんです。前も勝手にこれに触った知人を思わずひっぱたいてしまった事があって。そうしたら、だったら金庫の中とか人目に付かないところに仕舞っておけって殴り返されたけど、でも、身に付けていないと何だか不安で仕方無くて」
「じゃあ俺は叩かれなくてラッキーだったわけだ」
「あんな失礼な態度とってしまったって言うのにこの上そんな事をしていたら、唯の莫迦者です……本当にごめんなさい」
 再び頭を下げられて、真崎はわざと冗談めいた軽い口調で言った。
「だったら、頼みがあるんだけど」
「何でしょう?」
「一昨日のこと、ちゃらにしてくれる?」
 僅かに唇が開きかけたが何も言わず、ふんわりと彼女は笑った。
 ようやく胸のつかえがとれた気がして真崎も表情を緩めることが出来た。
「乗る列車、決まってるの?」
「指定席を買った列車はもう行ってしまったから、次の急行列車に乗るつもりでいます。」
「取りあえず、預かり物を渡さないとな、後ろ、乗って。」
「え、でも……」
「ここからミセス・グラスメアの所まで歩いてたら、次の急行どころかその次の急行に乗れるかどうかも怪しいよ」
 とは言え、後ろに人を乗せて起伏の激しい道のりを行くのは厳しく、途中、彼女には駅で待っていてもらおうと、寄ってみると、がやがやと騒がしく、何人かの乗客と駅員は押し問答をしていた。
「なんかあったのかな……」
 聞こえてくる言葉の端々で、どうやら事故が起こったらしかった。無理矢理割り込んで駅員に事情を問い糾してみると、貨物列車の事故で全面的に運転を見合わせており、運転を再開するめどは全く立っていないとの事だった。代行の交通機関に付いて聞こうにも、途中からいろんな言葉が飛び交ったせいもあって、要領を得なかった。
「……要するに、すぐには列車は来ないってことか。」
「みたいです。」
 半ば呆然とした状態で彼女は呟いた。
 普段からは想像も付かない、いささか殺気だった喧騒の中を抜け出して、駅の壁際にぺたりと彼女は座り込むと、途方に暮れていると言うよりも、不運を諦めているような面もちで溜息を一つ付いた。
 それは、不思議と偶然見かけていた顔を変わり無く、誰かから見放されたような寄り所の無い寂しさが垣間見える。
「……腹、減らない?」
 言ってしまってから、余りにも間抜けていたなと思っていささか引き攣った仏頂面を向けた真崎を、彼女は見上げた。
「そうですね。」
 軽く肩をすくめて、彼女は笑うと思い切りよく立ち上がった。
「何だか気が抜けたら、お腹も空いてきちゃったな」
「近くにパイのうまい店があるんだけど」

 初めて女性を連れて訪れたという事もあって、カフェのマスターは大げさに驚いたゼスチャーをしてみせた。だいたい自分に対する認識はメイベルとさして変わらないのではないかと、時折真崎は思う。既に二十歳を越えた成人であるという事は知っているはずなのだが、存外信じてなぞいないのかも知れない。
 自分一人を一人前に養っていないという立場に於いては、メイベルと変わる事がないという自覚はあるにせよ、それでも、子供扱いされる事には抵抗が強かった。まだ子供の部分を多分に残している事を認めるのは容易くはないのだ。
「マサキさんはこの町にお住まいなんですか。」
 いつものカウンターの片隅ではなく、二人掛けのテーブルに就き、注文を終えると、彼女は尋ねた。
「いや、ただの長期滞在者。もう二ヶ月になるかな。アカネさんはもう帰国するの?」
「……もう少しだけ居ようかなと……別に急いで帰らなければならない理由もないし。……あの、名字を、教えて頂けませんか? ほとんど初対面の方を名前で呼ぶのってなんとなく抵抗があって。」
「それは俺も聞きたかったんだ。なんか、アカネさんって呼ぶのもなれなれしいなとは思ってさ。うん、でも真崎でいいよ。それ、名字だし、あんまり名前の方で呼ばれたくないし。」
「同じ、ですね」
「え?」
「アカネ、は名字なんです」
 と、彼女は微笑った。
「真崎さんは下の名前はなんていうんですか?」
 その質問自体は有りふれたものではあったが、真崎にとっては子供の頃からどうしても苦手の感の拭えない物だった。
「……信乃。女みたいな名前だけど、見ての通り」
 茶化した口調に、至極真面目に言葉が返ってきた。
「南総里見八犬伝の犬塚信乃戌孝……からの名前ですか?」
 名前の由来をずばりと言い当てたのは、彼女が二人目だった。大抵は変な名前、で終わってしまう。小学四年生の時に出会った秀則が唯一、わざわざ一週間も掛けて調べ上げて、自慢気に由来の理由を突きつけて以来の事だった。
「そう。いちばん最初の、俺の兄貴になるはずだった子供が、先天性の心臓の奇形で一ヶ月しないで死んじゃったしくて」
 健やかに育つようにと、男児の幼名に女の名をつけることは、昔はよくあったことらしいが、それを戸籍上の名前にされるのは勘弁して欲しかったと真崎は思う。
 カフェのマスターにしろミセス・グラスメアやミセス・ヘイワードにしろ、真崎の事をマサキと呼ぶのは真崎がファーストネームで呼ばれる事が好きではない理由を話して頼んだからであって、礼儀正しさと気さくさを合わせ持った彼女達は始めはシノと呼んでいたし、おそらく彼女に対してもそうであっただろう。それなのにミセス・ヘイワードがアカネと呼んでいたのは、彼女がそう頼んだのか、もしくは、意図的にそれを名前だと勘違いさせたかだ。彼女達はそういう必要を感じないのか、宿帳に記帳させたり身分を証明するような物の提示も求めないのだから。
 そんなことが、ふと気になった。
「ほいよ、お待たせ。」
二人の注文した今日の特製キッシュとカフェオレをテーブルに並べながら、、マスターは少しばかり勘ぐったのか、意味深な微笑と共に白身魚ときのこのキッシュという滅多に出てこないが真崎の一番の気に入りが盛られた皿と、スープが並べられた。
「どうぞごゆっくり。」
 ぽん、と真崎の肩をたたいて、カウンターに戻ったマスターに苦笑を向けて真崎はキッシュにずぶりとフォークを突き立てた。
「アカネって、どんな漢字?」
「赤い根っこです。マサキさんは?」
「真面目の真に、川崎の崎。漢字を見ると名前と名字を間違えるなんてことはないんだけど、代わりに性別間違えられるんだよな」
 憮然とした真崎の言葉に、赤根は朗らかな微笑を返した。
「それにしても、よりによってどうしてこんな何にもない所へ?」
 ちん、とフォークが皿を鳴らした。
「何も無いから来たんです」
 キッシュを口に運び、美味しいと呟いた赤根の表情をちらりとみたマスターはご満悦の様子で皿を洗っている。
「でもさ、つまんなくない?目と鼻の先ってほどでも無いけど観光名所の多い都市とかさ。」
「人の多い騒がしい所にいるんだったら東京にいても同じだし、それに……会いたくない人がいるから」
「本当はその人に会いに来たんじゃないの?」
 冗談にならないと思ったときには既に言葉は滑り出てしまっていた。赤根は困ったような笑顔を外に向けた。それを直接向けられていたら、いたたまれなかっただろう。
 留学なのか海外赴任なのかでこの国にいる恋人に会いに来てみたら新しい恋人が出来ていて、その傷心を慰めるべくこんな片田舎で一人寂しく過ごしていたのだろうか──想像にしたって余りに陳腐過ぎるか。
 真崎が言葉を継げないでいると、それを察したかのように赤根は明るい顔を見せた。
「真崎さんはどうしてここに?」
「……俺は、現実逃避みたいなもんかな。色々煩わしくてさ。誰も自分を知らない所に来たかったし」
 照れくさそうに肩をすくめた真崎に、赤根は思いの他真剣な表情を向けた。
「だからなんですね」
「え?」
「いえ、大した事じゃないんです。ただ少し不思議だなと思っていて」
 意味する所に気付くのに、僅かに間が空いた。
「一昨日はほんとに申し訳ないよ。……気が立ってたんだ。ちょっと色々あって、うん……」
 赤根は気にした様子もなく、軽く小首を傾げた。何もかも了解しているようで真崎にはほっとする仕草だった。その視線が不意に真崎を通り越した。
「探してた人、見つかったみたいね」
 メイベルが真崎のすぐ脇に立っていた。
 不機嫌そうなのは、彼女が耳慣れない言語で会話をしていたからだろうと真崎は思ったが、さすがにメイベルとは母国語が違うのだから仕方がない。
「ああ、ミセス・ヘイワードのお客だったよ」
 面倒くさいことを割愛して告げると、 「……よかったわね」
 つん、と顎を上げて、メイベルは二人を睨め付けた。
「そうだ、花、ありがとうな。今、部屋ん中に」
「知らないわ。」
 金色の髪を揺らして、メイベルは身を翻しざまにじろりと赤根を眺めて店の奥に行ってしまった。マスターは軽く肩をすくめ、真崎は何が何だか分からずしばし呆然とその背中を見送った。
「可愛らしい女の子ですね。」
「うん……マスターの一人娘で……いつもは花みたいに笑ってる子なんだけど……」
「誤解されてしまったみたいですよ」
 くすくすと赤根は笑う。
「誤解って……」
「後三年もしたら、極上の美少女に成長しているでしょうね」
「赤根さんこそなんか誤解してない?」
「そうですか?」
 マスターに負けず劣らずの人の悪い微笑をちらりと見せて、赤根は最後の一片を口に運び、ごちそうさま両手を合わせた。そう言えば食べる前にもいただきますと言っていたな、と思いつつ、真崎もつられて手を合わせた。
「このお店、もっと早くに知りたかったなぁ……」
 店を出るときに、たどたどしい言葉で本当に美味しかったと告げた赤根に、マスターはウインク一つ付けて桃のパイを包んだ。どうやら赤根を真崎を尋ねてきた恋人か何かと思い込んだらしかった。

「取りあえず、駅に寄ってみようか。」
 既に影が長い。
 いつもならそれなりに人通りの多い駅前が閑散としていた。代わりに、心持ち自動車が頻繁に行き交っている。
「なんか、嫌な予感、しません?」
「予感と言うより確信に近いなぁ……」
 先刻の殺気だった空気は過ぎ去って、普段の静けさの戻った駅で少しくたびれた風情の駅員に改めて聞いてみると、貨物列車の衝突事故と同時に、老朽化した橋が崩れて当分復旧の見込みはないという。代行の交通機関としてバスが運行する予定だと言うが、慣れない言葉のせいもあり、要領を得ない。列車が折り返し運転をしている駅にまで行く方法が、どうにも分からなかった。
「……ここって、陸の孤島なんですねぇ。列車一本だけが外とのつながりみたい。」
「車持ってると多少違うんだろうけど……」
「ヘイワードさん、は旅行に出掛けちゃったんだっけ。ま、いいか」
 軽く肩をすくめただけの赤根の様子に、逆に真崎の方がぎょっとした。
「ま、いいか、ってどうするつもり?」
「別に予定が有るわけじゃないから、取りあえず駅で夜明かして、何か動きがあったら適当に乗って……何とかなります。」
 赤根は軽く肩をすくめた。
「うち来る?」
「は?」
「よければ、うち来れば。だいたい今日明日でカタのつく事故でもなさそうだしさ。ミセス・グラスメアんとこって以前B&Bやってたみたいだし、事情話せば別に問題ないよ。」
 どうしてそんな事を軽く言ってしまえたのか、真崎自身もよく分からなかった。下心があった訳でもなく、一人で過ごす日々に虚しさが全く無かったと言ったら嘘になるが、それでも意識するほどの寂しさに捕らわれてもいなかった。
 そしてまた、赤根もさして躊躇う事もなく、
「お言葉に甘えて」
 とその提案を受け入れた。

 部屋に上がる前に店の方を覗いてみると、窓辺の涼やかな風に、うつらうつらとしているミセス・グラスメアの姿に、真崎は声を掛けるのを後回しにする事にした。
 真崎の部屋につくなり、彼女は
「カルトンは?」
 と言った。
 いちばん気になっていたのはその事だったのだろう。部屋の片隅で壁に立てかけるようにして置いてあったそれを見つけると、小さな溜息をつき手に取った。
 途端、表紙を留めていた紐が緩んでいたのか外れて、よくもまぁそれだけ挟まっていたものだという量の紙が赤根の手から逃れるように、開け放した窓から入ってくる風に部屋中に散らばった。
 真崎の視界一杯に、柔らかな色彩が溢れた。
 ライトオレンジ、グラスグリーン、ベイビーピンク、サルビアブルー、レモンイエロー、コーラルレッド、ラベンダー……
悪戯な風が納まり、画用紙にしては薄手の紙が翻りながら降りてくる。
 抽象的な物ばかりが描かれていて、モチーフが何なのか、真崎には分からなかったが、偶然拾い上げたそれには、リズム感のある心地良い色彩が広がっていた。
「画家の卵?」
「まさか」
 面白い事に、赤根は娼婦なのかと問われた時なら普通に示されるであろう程の嫌悪感を以てただ一言で否定した。
「美大の学生なのかと思った」
「学生だったのはもう五年も前ですよ、今は小さな商社の事務員ですけど、くびでしょうね、勝手に長期休暇とってしまったから」
 無造作な手付きで散らばった紙をかき集め、スケッチブックに挟み込んだ赤根は、呆然とした面もちで立ち尽くしている真崎の顔をのぞき込んだ。
「どうかしました?」
「……それって大学出てから?」
 一瞬何の事だが分からずきょとん、と真崎の顔を見つめて、そして、吹き出した。
「いくら何でもそれは酷いですよ。高校出てからです。真崎さんこそまさかまだ高校生じゃないでしょうね?」
 赤根は意地の悪い笑みを向けた。
 互いに顔を見合わせて一通り笑い転げた後、せっかくマスターが持たせてくれたパイで、遅いティーブレイクにする事にした。
 部屋の中に入ってくる風に、夕食の仕度の匂いが混じり始めている。簡単な夕食を作る材料はここに来る途中に揃えてあったが、さほど空腹感もない上に甘い香りに鼻をくすぐられていたのでは、そちらの方が気になって仕方がない。
 コーヒーの香りが部屋の中広がったる頃には、赤根のすっかりソファでくつろいでいた。その様子は猫のようでもある。軽く背中を丸め、膝を抱えるようにしてうつらうつらとしている。
 そのまま寝かせておこうと、寝室から持ってきたキルトケットを掛けてやり、真崎は寝室を彼女に明け渡す用意を始めた。散らかるほど物は持っていないにしろ、多少片付ける余地はあったし、洗濯物も干しっぱなしで、そのままでは秀則ならいざ知らず、他人を入れるには抵抗があった。
 取りあえず適当に片付けてシーツを替えてから、階下に降りると、ミセス・グラスメアが夕飯の仕度を始めていた。暖かな匂いが鼻をくすぐる。
「あの、ちょっといいですか?」
「ええ、どうかしたの?」
「友人が列車の事故で足止め食ってしまって……」
「あの事故は大変だわね、暫く列車は動かないと言うし。そうね、何か足りない物あったら、遠慮なく言って頂戴。せっかくのマサキのお客様だもの。よかったら夕食、一緒にいかが?」
 突然の客の来訪を喜んでいる様子に、真崎はほっとした。が、流石に赤根の為に部屋を用意して欲しいとまでは図々しいような気がして言い出せなかった。それに、ほとんど人の出入りのないゲストルームのほこりっぽさは、どうしようもない。
「ありがとうございます。でも今眠ってしまっているんで……」
「疲れてるところ起こすのも可哀相ね。じゃあ、それは明日の晩にでもっていうことにして……」
何日か赤根が滞在するのだと思ったのか、それとも明日には発ってしまうかも知れない事は案外に念頭に無かったのかも知れない。ミセス・グラスメアはうきうきとした調子でそう言うと、
「夜中にもし起きてお腹が空いてるといけないから」
 棚から小鍋を出すと、ちょうど作っていたシチューを移して真崎に渡した。
「すいません。お世話掛けさせてしまって」
「あら、こちらこそお世話かけさせてもらえて有り難うだわ。お互い様よ」
 そう行って、ミセス・グラスメアは軽くウインクしてみせた。

「真崎さん……?」
 ふっと目が覚めて、赤根は滅茶苦茶な心細さに襲われた。
 まだ入れて間もないだろうコーヒーのふくよかな香りが部屋中を満たしていて、確かにここには自分以外の誰かの存在があるはずなのに、自分の視界の中には誰もいない。
 見慣れない部屋、ホテルのように殺風景で生活感のない、でも誰かの、他人の匂いのする部屋。
 上体を起こしてずり落ちたキルトケットに気が付いて、ぎゅっと裾を掴んだ。そしてそのままソファに身体を沈め、固く目を閉じた。
 感覚を澄ましていると、階段がきしむ音がして、そっとドアが開いた。赤根のすぐ脇を通り過ぎて奥の部屋の方にそれが移動してゆく。空気の中に人が動いている気配が感じられて、ほんの少しだけ赤根は安心する。でもそれは酷く刹那的で、自らの望みの為に失ったとはいえ、その喪失感を僅かなりとも癒すことはない。ただ痛みを紛らわすだけの効きの悪い鎮痛剤に似ていた。
 「朱の空を抜けて星の原を駆けて……海の青を映す空まで……」
 ふと口ずさんだ歌は、懐かしい思い出が詰まっていた。そのバンドは、たった一枚のアルバムを残して解散してしまった。
 初めてその歌を聴いたのは、偶然通りかかった路上ライブ。
 あれから数年経った今でもその時の情景は鮮やかに思い出せる。
 張り上げたわけでも無いのに、その声は波紋のように辺りに広がり、その余韻が消えると同時に、静かに水面から演奏が浮かび上がり辺りを包んで、まるで一つの世界を創造したかのような、歌。
 ──気が付いていたのに。
赤根は薄く目を開いた。固く閉じたままの瞼に、過去の残像が甦りそうになったからだ。
 あの人とは、同じ世界を共有して生きていく事は出来ない。
 ようやく子供の時代を抜け出して、けれど大人の時間を刻むにも至らない、中途半端なはざまの時期に、とうに悟っていた事だったのに……
 小雨が降り出した深夜の路上で聴いたその歌にすっかり心を奪われて、濡れるのも構わずに立ち尽くしていた赤根を見ていたあの顔を、赤根は忘れた振りをし続けていた。他の誰にでもない、自分自身に。
 降りが激しくなり、彼らがそれ以上の演奏を諦めるに至るまで、赤根はその場を動かなかった。

「起きてた?」
 真崎の声に、赤根は頭を上げた。
「ごめんなさい、すっかり寝入ってしまって」
「疲れてたんでしょ。気にする事無いよ。お茶にしようか。それとも何か食べる? さっきミセス・グラスメアからシチューもらったんだ」
「だから先刻からいい匂いしてるんですね……ああ、ミセス・グラスメアにご挨拶くらいしないと……」
「明日の朝でいいと思うよ。多分もう寝てるから」
「じゃあそうします。」
 ぼうっとした様子で赤根は立ち上がった。
 窓から部屋の奥深くにまで橙色の光が入っている。それでも時計を見れば既に夜である。
「やっぱり戸惑う?」
「そうですね……いつまでも終わりがこないみたいで気持ち悪いかなぁ……」
「さすがに白夜にはならないけど緯度が高いしね。」
 時間的には既に夕食の時間さえ過ぎていたが、真崎も三食きちんと食べる規則正しい生活をしているわけでもなく、赤根もさして空腹ではないという事で、お茶の仕度をした。
 ふうわりと紅茶の香りが立ち昇る。
 どうしたんだろう?
 薄い微笑を張り付けてはいるものの、赤根は心ここにあらずというのか、何処か不機嫌そうにも見えた。
「これ……あの女の子が?」
 テーブルの中央に飾ってあるにしては無造作に牛乳瓶に差してある花を、赤根は軽く指で弾いた。
「多分ね。昨日のお侘びの印、なんだと思うんだけど」
「それで花を贈るなんて、本当に可愛いですね。拗ねた顔なんて、まるでご機嫌斜めの天使みたいで」
「……なんか含みを感じるなぁ……」
「だって、そう思いませんか?」
「まぁね、メイベルは可愛いよ、でも変に勘ぐるのは勘弁して欲しいんだけど」
「……真崎さん、あの子が真崎さんにどういう感情を抱いているのか、分かってます?」
「そう言われてもなぁ……」
「私にはともかく、適当にあしらえると思ったら大間違いですよ、女なんですから」
「女って、まだ十三だよ。」
「その認識、改めた方がいいですよ。」
 不意に。
 笑みを作った赤根の唇の赤さに、真崎は軽口で返す事が出来なかった。今まで目の前にいた存在とはまるで別のもの、彼女は生身の人間なのだと意識せざる得ないほどの強烈な存在感がそこにあった。
「結構恐かったですよ、さっき睨まれた時、そう思って……」
 すっと赤根の視線が外れて、真崎は自分が息を詰まらせていた事に気が付いた。ゆっくりと息を吐き出して、少し渋くなった二杯目の紅茶をすする。
「……肝に銘じとくよ」
 どうにかそれだけ言って、おそるおそる視線を上げると、そこにはやわらかい微笑を湛えた赤根がいた。
 余程疲れていたのか、シャワーを浴びると濡れた髪をろくに乾かしもしないで赤根は寝てしまった。しかもさっさとソファの上でキルトケットにくるまって。
 真崎はベッドを譲るつもりでいたのだが、彼女の言い分としては、これ以上好意に甘えられない、という事らしい。
 成年男子としてはやや複雑な気分を抱えたまま、寝室に引っ込んで本を読んでいると、眠りに誘う軽やかな雨音が聞こえてきて、真崎は本を閉じた。
 翌朝は、初夏にしては肌寒かった。小雨はまだ降り続いていて、外は薄暗い。
 既に赤根が起きている事を気配で感じていた真崎は、少し厚手の長袖シャツに着替えて寝室から顔を出した。
「おはよう」
「おはようございます……」
 赤根は長袖の白いシャツの袖をまくって、台所で朝食の仕度を始めていた。既に髪はバレッタでまとめられて、薄い光を弾いている。
「適当に作ってるんですけど、いいですか?」
「いいもなにも、作ってもらえるだけでも有り難いよ」
 いつもトーストにせいぜい目玉焼きくらいしか並ばない朝食のテーブルには、昨晩おすそ分けしてもらったシチューとチャイブのみじん切りとチーズの入ったオムレツに、温野菜のサラダが見る間に用意された。
「先刻、ミセス・グラスメアにご挨拶してきました。と言うより、庭に出ていたら会ってしまったというかんじなんですけど、それでチャイブ頂いたんですよ。それから、一応真崎さんのいとこ、って説明しましたので」
「え、どうして?」
「だって変に誤解されたら申し訳ないし」
「俺、友人って言っちゃったんだよなぁ……」
「余計ややこやしくしてしまいましたね、ごめんなさい」
「そんなに気にすることもないと思うよ」
 できるだけ軽くそう言ってみたものの、赤根の方は引っかかった微笑を作っただけだった。
 作りはしたものの、赤根の食は進まず、義理で野菜をつまんでいるくらいで、オムレツは口を付けない内に冷めてしまった。
「朝は食べない習慣?」
「……そうでもないんですけど……」
 曖昧、というよりぼんやりとした様子で赤根はトーストに口を付けた。苦い物でも咀嚼しているようなぎこちなさに、真崎は赤根の額に手を伸ばした。それを予測していたのか、赤根は触れられる前に
「熱とかはないです、大丈夫」
 とその手を押しとどめた。
「夜に雨降り出してたから、冷えたかな」
「かも知れません」
 自嘲気味に赤根は呟いた。

 雨の中、駅にまで行ったものの、未だ復旧の見込みが経っていなかった。代替えの交通機関もまだ運行しておらず、結局激しく横殴りになってきた雨にずぶ濡れになって真崎のアパートに戻るはめになってしまった。玄関の所で、心配して待っていたミセス・グラスメアがバスタオルでくるんでくれたものの、全身冷えきってしまっていた。
「とにかく、シャワー浴びた方がいい、本当に風邪引いちまう」
 遠慮してか、中に入るのを躊躇って入り口に水溜まりを作ってしまった赤根を半ば無理矢理バスルームに放り込み、自分も濡れた服を着替えて髪をタオルでがしがしと乱暴に拭いて、ようやく人心地付いた気分になった。
 まだ激しく雨は窓を叩いて、流れる水滴が外の風景は歪ませて、孤立してしまったような寒々しさが伝わってくる。
 赤根と入れ替わりにシャワーを浴びている間に、居間にはコーヒーの香りがたゆたっていた。
「ここは、時間が淀んでいて、いいですね」
 赤根は窓の外を眺めたまま言った。
 その言葉が何故か鋭さを持って真崎の胸を貫いた。
 どくん、と心臓の鼓動が激しくなる。
「もし、時間を戻せるならいつに戻りたいですか?」
 唐突な質問だった。
 もしあの時──というのは、いつもどんな時でもつきまとう。どれほど悩んで考え抜いた選択をした後でさえ後悔しなかった事はない。
 おもむろに立ち上がり、なみなみとコーヒーを注いだマグカップを手渡した赤根の顔には、発せられた言葉とは裏腹に虚ろな穏やかさがあるばかりで、真崎は答えを失った。
「赤根さんは?」
 そう問い返すのが精一杯だった。
 小首を傾げて、赤根は真っ直ぐに真崎を見つめた。
「……七年前の初夏」
「随分限定されてるね」
 赤根は口元にだけ微笑を残して目を伏せた。濡れた髪が落ちて顔を隠し、どんな表情をしているのか分からなくなる。
「真崎さんは?」
 すぐに出せる答では無かった。真崎は真っ直ぐに赤根の視線を受け止めながら、手の中のマグカップが熱いと感じていた。
 もし、時間を戻せるなら。
 苦い思いは簡単に甦ってくる。
 だからこそ。
「……俺は、別にない。多分、いつに戻ってもやり直しをしてその場は解決しても、きっとまた同じような問題はいつか降りかかる」
 驚いたように、赤根は顔を上げた。
 その目には一瞬憎悪とさえ見える光がよぎった。だが、すぐにそれはヘマタイトのような瞳の奥に沈んで、無表情を隠すような微笑の底に沈んだ。
 しばし沈黙が落ちた。雨音だけが、途切れる事無く鳴っている。
 真昼だと言うのに、夕暮れ時より薄暗く無彩色に染まった部屋の中で身動き一つしないでそこにいる赤根は、精巧に出来た人形に見えた。真崎の姿を果たしてその瞳が捕らえているのかどうかも分からない。虚ろな抜け殻に似て、そこに存在している事さえ怪しい。
「……私、知らなかったんですよ、あの人の新婚旅行先にロンドンが含まれていたなんて。ずっとパリだって聞いていたから」
 唐突な、それは独白だった。
 雨に霞む彼方を見つめたままの横顔に、髪を纏めるバレッタが、鈍く光っている。 
 あのバレッタは、『あの人』から贈られたものなのだと、問うまでもなかった。
「結婚式に招待されていたけど出たくないからこんなとこに逃げてきて。最初はロンドンにいたんです。そしたら、あの人いるんだもの。吃驚しちゃった」
 その不幸な偶然を幸運な必然として喜んでいるように見えて、真崎は混乱する。赤根がいったい何を言おうとしているのか全く見当も付かない。
「あんな幸せそうな笑顔見たことなかったな……。二人して腕なんて組んで、当たり前のように寄り添って……ほんの数年前まではそこには私がいたなんて信じられなくなって……」
 雨音が、低い呟きに変わった赤根の声に重なり、もう真崎の耳には届かない。

 やがて雨も上がり、薄日が差し込み始めた。
 淡い黄色の、午後の光。薄い雲が広がってシャンパンゴールドに輝く空。
 うとうととしていた赤根を真崎は揺り起こした。
「腹減らない? 何か食べに行こう」
 そのついでに駅に寄って聞いたところによれば、鉄道の復旧状況は芳しくなく、代行の交通機関もまだ対応が遅れていると言う事だった。
 いつものカフェのカウンターにではなく、二人掛けのテーブルに座り、真崎はホットサンドとコーヒー、赤根はキッシュとカフェオレを注文した後、ずっと口をつぐんだままだった。
 険悪な空気こそ無いが、それでも前日とはまるで違う雰囲気に、マスターも素知らぬ顔をしていた。
 店には二人以外の客もおらず、ベーコンと野菜を炒める音がいやに響く。
 互いの顔を見ているようで、微妙に視線は外れていた。
 注文した物がテーブルに並び、無言でそれを口に運びながら、真崎は奇妙に意識していた。
 昨日までは全く気付きもしていなかったというのに。
 意識。
 自覚。
どうして、今この時まで?と疑問に思う事も出来なかった。
 自分の目の前にいるのは……
「その人、まだ居たの」
 すぐ脇に、学校から帰って来たばかりのメイベルが立っていた。その灰色がかった緑の瞳には、真崎には理解しがたい光が宿っている。
「紹介してよ」
つんと顎を上げて、赤根にちらと視線を投げた。
「彼女は赤根さん。この町で偶然知り合ったんだ」
「ふうん」
 睨め付ける視線をやんわりと受け止めて、赤根は柔らかな表情をメイベルに向けた。あからさまに敵意を送り返しているメイベルに、
「何も心配する事はないのよ」
 舌足らずな英語で赤根は言った。
「あたしが何を心配してるっていうのよ」
 メイベルは苛立たしげに眉根に皺を寄せた。
「……誤解なら、ごめんなさい。でも、私はすぐに消えて、再び真崎さんと会う事は決してない。だから……お願い、そんな目で私を見ないで」
「あたし、あなたが何を言ってんのかよく分かんないわ」
 それは、赤根のたどたどしい英語が理解できないと言っているようにも聞こえた。
「そう……困ったわ」
 そう言いながら赤根はメイベルに尚一層親しげな微笑を向けた。そして、メイベルには絶対に分かるはずの無い日本語で話し始めた。
「あなたくらいの歳の女の子って時々度しがたい程愚かしいことを平気で言うのよね。」
 優しい口調ではあったが、訳の分からない言葉に、メイベルは大人ぶった表情をいとも簡単に剥してしまい、怯えたようにさえ見える不安げな子供の顔で、赤根を見つめた。
「一体何が不安なの? 誰からも愛される要素をそれだけ持っていて、まだどんな可能性だって何一つ奪われていないのに、どうして何もない私なんかに優越感じゃなくて、そんな自分を卑下したような顔を向けるの? 本当にもったいないわ、あなたはとても笑顔が似合うのに。きっと……いつか何もかも失うときが来ても、あなたはその素敵な笑顔だけは失くさずにいられるんでしょうね、そしてまた全てを取り戻して」
「何言ってんのか分かんないっ!!」
 メイベルは思いきり両手をテーブルにたたきつけ、やわらかな微笑を湛えた赤根が、やわらかな言葉を自分に向けていることが耐えられないのだとばかりに、激しく頭を振った。もしかすると、直感で何を言われているのか分かったのかも知れない。
「ごめんなさい。でも、私にはあなたに分かるように話す事が出来ない」
 再び赤根は言葉を戻した。
「あんたが英語下手なのは分かってるわよ、もういいわよっ!」
 くるり、とメイベルは身を翻した。
「メイベル」
 赤根はその背中に呼びかけたが、まるで聞こえていないかのように足を止める事もなく、店の奥に消えてしまった。
 一部始終を見守っていたマスターは、ほっとしたように、小さく溜息を付いた。
「赤根さん、結構人が悪いね」
 真崎のその言葉をどういう意味に解釈したのかはともかく、赤根はにっこりと笑った。

 部屋に戻り、何をするでもなくソファに身を埋めている赤根は、見た目には穏やかな顔をしているものの、機嫌を損ねているように感じるのは気のせいだろうかと思いながら、真崎は話しかけるのを躊躇っていた。
 それにしても、厄介な事になってきたな。
 メイベルがどうしてあんなにも赤根に対して敵意をむき出しにするのか真崎には分からなかった。
 仮に赤根の言っていた事が正しいとしても、そこまであからさまに感情をぶつけるというのは余りにメイベルらしくない。いずれすぐにその仮面は剥がれるにしても、取りあえずは彼女お得意の大人ぶりっこをするはずだ。それがいったいどうしたことか、あれではただのだだっ子ではないか。
 それ程までにメイベルを圧倒する何かが赤根にあるようには真崎には感じられない。先刻まで奇妙なまでに意識していた何かは既に消え失せて、彼女はまた存在感を薄めて、そのまま空気に溶けたところで不思議とは感じられそうにない。
 部屋の片隅には、ボストンバッグの脇に壁に立てかけられたスケッチブックが置いてあり、乱雑に束ねられた画用紙の何枚かが端から描かれた何かを覗かせている。時間は持て余すほどあるだろうに、赤根は開こうとはしない。
 画家の卵かと尋ねたときの、その言葉に対して見せたあの強烈な嫌悪の様子に、真崎はもう一度絵を見せて欲しいという事すら言えずにいた。
 所在無く、真崎は階下に降りた。
 雑貨店の方に顔を出して、驚きの余りに血の気が引いた。
「……何してんですか。」
 椅子の上でつま先立ちになって、棚の上から何やら重そうな箱を引っ張り出そうとしているミセス・グラスメアの姿に、真崎は慌てて駆け寄った。
「あら、いいところに来てくれたわ」
 真崎のさしだした手につかまって、よっこらしょ、とミセス・グラスメアは椅子から降りた。
「申し訳ないんだけど、あの箱を降ろしてもらえるかしら」
「分かりました。」
 ひょいと椅子に上がり、その箱に手を掛けてみると、結構な重量があった。こんな物をミセス・グラスメアが降ろすなど無謀以外の何物でもない。持ち上げた時にした音で、中身がどうやら陶器らしいと分かり、慎重に床の上にそれを置いた。
「ありがとう、助かったわ」
「今度こんな用事があったら、いつでも気軽に言って下さいね。転んで怪我でもしたら大変ですよ」
「そうね、そうするわ」
 照れ笑いでごまかすように、小さく肩をすくめていそいそとミセス・グラスメアは箱を開けた。
「よかった、やっぱりこの箱だったんだわ」
「何なんですか?」
 のぞき込むと、そんな箱に無造作に入れて置いていいのかと慌てたくなるような、白地に金とミントグリーンの模様で縁取られた、一目で高価な物だと分かる食器が入っていた。
「せっかくのお客様ですからね……」
 そっと取り出した一枚をいとおしそうに見つめるミセス・グラスメアの姿は、何処と無く少女めいて、遠い記憶を懐かしんでいるようにも見えた。

 真崎がそっと部屋を出て行った事に赤根が気が付いたのは、随分経ってからだった。
 空気がひんやりとしてきたような気がして、ふと見回すと先刻まで居たはずの真崎の姿がなかったのだった。
 真崎の部屋は、不思議と居心地がよかった。自分の家に居るような、という表現は赤根にはできない。自分の家に居るという感覚を味わった事がない。早くに両親を失い、親戚の家をたらい回しにされた挙げ句に養護施設に入れられた、というわけでもない。一生子離れ出来そうにない過保護な母親に、家庭には無関心なのかそう装っているのかはともかく仕事優先でそのくせ妙に話す事は説教くさい父親、やたらと愚痴と要求と文句の多い祖母、優秀で物静かな兄の五人家族で地方都市のベッドタウンの一軒家で生まれ育ち、高校卒業後就職をし、一人暮らしを始めたという何処にも特記すべき点のない日々を送ってきていた。
 自分の感じ続けてきた違和感を、赤根は誰にも話したことはなかった。話そうと思ったこともなかった。幼かった頃にはあったにしても、それは誰かに解ってもらえる事でも無ければ、解ってもらえたとしても恐らくはどうしようもなく、もっと歯がゆい思いをする事を早々に悟っていた。
 こてん、とソファに横になると、途端に眠気が襲ってきた。
葉ずれの音が微かに聞こえてくる。
 
「朱の空を抜けて星の原を駆けて……海の青を映す空まで……」  既に懐かしさすら感じる歌を、脳裏でリフレインしながら。

真崎、信乃。
 不意に赤根は思いだした。
 才女で売っている女優の盗作騒動でそんな名前が出てきたような。
 あの人が、普段は本なんて触りもしないのに読んでいた……確か『ゆきあかり』とか……
 封じられた土地で、永遠に生き続けているかのような、一族の物語。
 薦められて赤根も読んではみた。
 ところどころ、後から他人が勝手に挿入したかのようなとんちんかんな文章があるのには首を傾げたが、嫌いな小説では無かった。そして、以前に出された本を読んでみて、赤根は酷く混乱した。
 結局、全部の著作を読んだ後、作者と『ゆきあかり』との間に、つながりを見いだす事が出来なくなった。書評などでは、彼女の新境地を開いた作品となっているが、前にどんなものを書いていたのかともかく、新境地と言うよりは完全に化けたと言うべきで──やはりあれは盗作だったに違いないと、赤根は思っていた。かといって、それがどういう経緯でそうなったのかなど、赤の他人にわかるはずもなく、特別に感慨を抱く事もなかった。ただ、偶然見たワイドショウの中で、不躾に突きつけられるマイクを完全に無視していた真崎の姿は、おもしろい、と感じたくらいだった。
 おもしろいんだよ……って薦めた癖に、途中で訳が分からない、って放り出してたな……まったく。
 『ゆきあかり』を薦めた本人が、そうあっけらかんと言った時のとぼけた表情を思い出して、赤根はくすりと笑いを漏らした。およそ叙情的なものに対する感受性というものが、いや、かの人と共通した感覚などほとんどなかった。それでも互いが隣に居る事は当たり前の事でありえた日々が、確かに存在はしていた。幸福だったかどうかはともかくとして。
部屋の片隅に無造作に置いてあるスケッチブックに手を伸ばした。
 綴じ紐を解くと、腕の中で暖かな色彩の風景が広がった。その一枚を手に取り、赤根はすっと目を細めた。
 最初からこうすればよかったのだ。
 意外な程静かに、紙は二つに裂けた。重ねてもう一度裂く。
 その作業を繰り返す内に、一枚の紙は床にこぼれる紙片の群れと化して、窓から滑り込む風が部屋中に散らしてて行った。
 そして、もう一枚を手に取り、同じ事を繰り返した。もう一枚、もう一枚と、飽く事無く赤根は紙を裂き続けた。
 紙をいくら裂き続けても、描かれた風景を千々に散らしても、記憶を裂いて散らしてしまう事は出来ないのは分かっていた。でも、その記憶を呼び覚ますものを赤根は失くしてしまいたかった。
「赤根さん?!」
 真崎の声に、赤根の意識は現実の中に像を結んだ。
「後で……掃除します……」
「そんなのはどうでもいいけど、どうして……」
 ぴりりりり……紙が、裂けてゆく。
 何の躊躇いもなく、赤根の指先から柔らかな色が千切れてゆく様は、まるでその身を裂いているように痛々しく、真崎は止めずにはいられなかった。
 急に手首をつかまれた赤根は不快気に真崎の顔を見上げた。
「……ミセス・グラスメアが……今晩夕食に招待してくれるって……」
「そうですか」
 真崎の手を払って、更に赤根は紙を裂いた。先刻よりも、ずっと乱暴な音がした。
「赤根さん!」
 彼女の膝の上の紙の束を、真崎は取りあげた。赤根は手の中にある紙を裂き続ける。
 ぴりりりり……
 ぴりりりり……
「止めなって!」
 とうとう真崎に両手首を強く掴まれて、赤根の手から裂けた紙片が床に落ちた。
 部屋には一面、まるで花畑のような色彩に満たされていた。
 切ないほどに、やわらかなやわらかな色たちが、やがて窓からの風に部屋の隅に吹き寄せられて行った。
ひやりと冷たい手が、真崎の手の中からすり抜けた。
 ゆっくりと上げた赤根の顔に、感情が浮かび上がるまでのほんの数瞬、真崎は酷く緊張していた。
 鏡面のようなその瞳に、果たして何が映っているのか・・
「……何も失わずに得られるものなんて無いんですよ」
 抑揚のない声だった。能面のような面には血の気もなく。
「でも、何かを捨てて得られるものも無い……。だから、自分から何かを手放してはいけない、絶対に」
 戸惑ったような、怯えたような曖昧な表情をした真崎を映した瞳がおもむろに閉じられ、再び開いた時には硬質の光が消えて、柔らかな微笑が浮かび上がった。それは神託を終えた巫女のようだった。
「……預言みたいだね。」
 抽象的でどうとでも取れる言葉だからこそ、まるで今の自分の事を指しているように思えたのだろうと、思った。
 少し困ったような顔をして、赤根は軽く頭を振る。
「預言かもしれません。子供の頃から時々ふと浮かぶんです。映像が浮かぶ事もあれば言葉である事もあって……自分では意味がよく分からない。でも伝えた相手には何となく解るみたいだから、自分の中にしまい込まないようにしてるんです」
 やはり、赤根は自分の事を知っているのだろうか。知っていて何も言わないのは──何故。
 そんな疑惑が頭をもたげる。
「他人に言わせると、自分で意識していない情報を勝手に頭が処理しているだけで、大した意味は無いんだそうです。つまり記憶力が悪い上に白昼夢を見ているんだって事みたいですね。」
 面白くもなさそうに赤根は肩をすくめた。
「……俺は何も手放そうなんて思ってない。欲張りだからね」
 知らず顔が強ばっていた真崎の表情をどう思ったのか、赤根は口を閉ざして、両手を真崎の方へ伸ばした。
 水面のような感触。
 哀しそうな目をしていたのは果たしてどちらだったのだろう。
 柔らかな唇はやはり冷たく、何故か真崎は泣きたくなった。
「ほうきと……ちりとり、借りますね。」
 ふんわりと、赤根は微笑み、立ち上がった。
 手際よく部屋中のあちらこちらに吹き溜まった紙片を掃き集めて、ごみ箱を一杯にしていった。
 まるで残された絵を守るように、真崎は膝に抱えた。
 楽しそうに、赤根は部屋の隅から丁寧に掃き始めた。微かな歌声も聴こえてきた。
 途切れ途切れの、細い声。
知らない歌。
 童謡や学校で習わされた歌ではなさそうだった。

「七年前に……この歌、初めて聴いたんです。今みたいに、地下鉄の事故で足止め食った挙げ句に、結局夜の繁華街を歩く羽目になっちゃって……その時に偶然、路上で演奏してた人たちがいて……」
 赤根が口にしたバンドの名前は、そういったものにとことん疎い真崎でさえも聞いた事があった。シングルカットされた曲なら、知っている。
「でも、一緒に聴いたはずのあの人は……全然覚えてないんですよ。おかしいでしょう?」
 ちりとりに最後のゴミを掃き込んだ赤根は、ちらりと真崎の手の下にあるスケッチブックを見た。思わず、真崎はぎゅっと手に力を入れた。
「少し……出掛けて来たいんですけど」
「夕食までに帰って来るんなら全然構わないよ」
 にこりと笑みを見せて、赤根は出掛けて行った。

 夕飯の時間を過ぎても、赤根は帰って来なかった。
 苛々と真崎は表の道で赤根の姿が現れるのを待っていたが、ついに夕食には間に合わなかった。
 無論事故か事件に巻き込まれた可能性が全く無いとは言えなかったが、中心部ではともかく、少し外れた辺りでは家に鍵を掛けない家がほとんどのこの平和な町は、およそ都市型の犯罪というものには縁がない。
 赤根の分は別に取っておいて先に頂いてしまいましょうとミセス・グラスメアにダイニングルームに誘われ、テーブルに並べられた手の込んだ料理の数々を前に真崎は謝る事しか出来なかった。
 気にしなくていいのよと終始笑みを絶やさなかったミセス・グラスメアに恐縮しっぱなしの夕食を終えた真崎は、探してきますと言い置いて、薄暮の町に自転車で飛び出した。
 宛てがあったわけでもない。慌てて引っかけた上着のポケットの中には、ミセス・ヘイワードからもらった石が入っており、必ず赤根を見つけられると言う確信を何故か抱かせていた。
町の中心部に向かい掛けて、真崎はきっとブレーキを握った。
違う。
 彼女は、あそこにいる。
 日は暮れ始めている。
 あの場所に近づいては──いけない。
 ミセス・グラスメアならそう警告するだろう、そう思ったが、真崎は『永遠の原』に向かった。



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