永遠の原

03, 夢の終わり


 夜の帳は緩やかに降りてくる。薄明るい中で、自転車のライトはまるで役に立たない。
 歩けば二時間近い場所も、丘陵地を越えるとは言え自転車で飛ばすと意外に近く、遠く緋色に染まった地平にそのシルエットはくっきりと浮かび上がっていた。
 平たい場所を探して自転車を立てて置くのももどかしく、適当にその辺りに倒したまま、真崎は赤根の姿を探した。
 汗を拭いながら、迷路を形作るように連立する石の間を巡り、彼方を望む涯てにようやくその姿を見つけた。もう数歩歩けば、崖の下に広がる森に飲み込まれて、二度と出てはこられないだろう。

 朱の空を抜けて
 星の原を駆けて
 海の青を映す空まで……

 細い歌声が、風に紛れて真崎の耳に届いた。

I stand still in a sea of the silver cloud
as long as I'm fast asleep
as long as you are happy……

 遠見の台のようにぽつりと立つ石に、赤根は所在なげに座って空を見上げていた。
「どういう……つもりだよ」
 最初からほとんど喧嘩腰の口調に、振り向いた赤根の顔は穏やかな微笑のみで応えた。それがさらに真崎を苛立たせる。
 どうしてメイベルが彼女にあれ程までに敵意にさえ似た感情をぶつけるのか分かったような気さえした。
「せっかくミセス・グラスメアが腕をふるってくれたっていうのに、何なんだよ、何考えてんだよ?」
 ざわっと風が一気に原を渡った。草のみでなく、石まで震えて鳴っているような耳で捉えかねる音が、夕陽の残滓が残る草原いっぱいに響き渡る。
 いつものバレッタは何処へ行ったのか、髪は風の思うままになぶられていた。
「ここにずっと居られたどんなにか……」
 ふてぶてしいまでの穏やかな面が、翳る。
「真崎さんは、どうしてここにいるんですか?」
 突然の問い。
 ふわりふわりとした、ともすれば他人をからかっているように見えない事もない軽い微笑は既にない。真摯な瞳が真崎を貫いていた。
「え……?」
 真崎は、その意味が分からない振りをした。
「どうしてこの場所にいるんですか? この『永遠の原』に?」
「それは──偶然、立ち寄ったこの町が気に入ったから……」
 本当に? とでも問いたげに小首を傾げた赤根の顔は、風に弄ばれる髪に隠れて見えなかった。おもむろにその髪をかき上げて、赤根は夜の闇が沈澱し始めた彼方を臨んだ。
 不意に、そのまま立ち上がって、彼方へ向かって歩いて行ってしまうのではないかという不安に襲われて、真崎は赤根の肩に手を掛けようとしたその時に、赤根は口を開いた。
「車が、突っ込んできたんです」
 「……?」
 唐突な切り出しだった。
「あの人、腕なんて組んで本当に幸せそうに歩いていて……そのままこっちに来たら、会ってしまう、私に気付いてしまうって、私、少し焦ってた。でも、杞憂でした。人混みの中だったし、まさかそんな所に私がいるとは思っていなかったせいもあるんだろうけど……顔を伏せて歩いていたら、私になんかまるで気付かずにすれ違って……少し、悲しかったな、やっぱり気付いて欲しかった。だから余計に意地でも振り向くなんて出来なかった。」
 くすり、と赤根は笑ったようだった。軽く肩が揺れる。
「でも……ブレーキの、急ブレーキの高い音がして、周り中から悲鳴やざわめきが聞こえて……。信じられます? 車が突っ込んで来たんです。二人並んでいたのにあの人だけが……倒れていた……ああ言うのを、血の海って言うんだなぁって……私、奇妙に冷静な気分で……助からないって分かってしまった。……私は多分願ってしまってた……。」
それは、少なくとも笑って話せる事ではないはずなのに、赤根の口調はまるで旅行先で、予定外に振られた雨の後に大きな虹が出たのだと話しているかのようだった。
 いったいどんな顔をして語っているのか。
 真崎の意識にその疑問が言語化して浮かび上がる前に、赤根の顔を隠していた髪は風に払われた。  口元には柔らかな笑み。少し目を細めて。
 なんと幸福そうな顔をしていることか。
「今でもあの石畳の上に広がった赤い血の色が目の端にこびりついて取れないんです。あの鮮やかな……」
 まるで、幸せでたまらないと話しているかのようにうっとりと赤根は語り続ける。けれど、真崎の脳裏に鮮やかに広がるイメージは彼を震わした。
 一面の、赤。
 まとわりつく感触。
 傷口から流れる血は、そのまま生命であるような気もして、子供の頃から恐怖に近いものを感じ続けていた。
「……どうして……そんなに幸せそうな顔していられる……?」
 肩ごしに、赤根は振り返った。真崎の言っている事の意味が分からないかのように、きょとんとした顔はすぐに見ている方までその幸福感に巻き込みそうな甘い表情に包まれた。
「だって、あの人は何処にもいなくなるけれど、その代わり誰のものにもならない。あの日々の幸せな思い出は私だけのものになる・・私だけが手にいれた幸福。その証が。この以上の幸せなんてないでしょう?」
 どくんと鳴った心臓の音に、真崎は驚いていた。知らず、固く握った右の拳を心臓の上に置いていた。
 感情が動くのが、こんなに物理的に実感できるものなのだとずっと知らずにいたからかも知れない。
まるで呪縛だ。
 がんじがらめに縛られ、夜の海に放り込まれて……沈んで行きながら、酸素を体中が狂ったように求めても、心は充分に満たされて笑っていられるはずが──ない。
 真崎は固く目を閉じ、頭を振った。
 どうして赤根がこんなに幸せそうな顔をしているのか、解らない。
心臓だけでなく、指先にまで激しい脈動を感じながら真崎はおもむろに口を開いた。
「それでも七年前の初夏に戻りたい?」
 ぷつりと。
 風が、止まる。
 ふわりと赤根の髪は降り、その凍り付いた微笑の半分を覆った。
夢から醒めたばかりのような寄る辺無さが、先刻までのふてぶてしいまでの満たされ尽くした幸福感を払拭していた。
 残酷な問いかけだという事を分かりきっていた。
 赤根の心を捕らえて離さないその人間に対して、真崎は嫉妬と呼ぶには悪意を含み過ぎた感情を抱いていた。それは赤根が抱いているものと似ていたのかも知れない。
 残照が辺りを奇妙なほど明暗をくっきりと浮かび上がらせていた。
 濃い影が長く長く伸びて、真崎の足元に届いている。
「本当に幸福だったのは──」
 その七年前なんじゃないのか。
 言いさした言葉を真崎が止めたのは、歪んだ赤根の面がそのまま砕けるかと思ったからだ。
 罪悪感を覚えるほど、纏っていたもの全てをはぎ取られて内面を顕にした姿は、均衡を崩した危うさがそのまま具現化したようではあったけれど、真崎の中に芽生えた感情はそのまま大きく膨らみ続けていて、そのまま赤根を壊してしまいたいという欲望と、呪縛から解き放って救いたいという相反する思いがせめぎ合う中で真崎は、言葉を継ぐ事を躊躇っていた。
泣き出しそうな子供の顔。
 ゆっくりと瞼が閉じられ、再び開いたときには、もうそこに垣間見えた赤根の内側は微塵も窺う事は出来なくなっていた。
 黒く艶やかなヘマタイトのような瞳が、その変化に戸惑う真崎を映し出していた。
「呪いを、かけたの──七年前に。」
 ビニール人形のような、安っぽい笑みが赤根の表情を支配した。
「あの人がいてくれて……幸せだった。あんまり幸せすぎて、だから、そんな日々が失われるのが恐くて恐くて仕方無かった。他の人と話しているだけで狂いそうなほど恐かった。だから、呪いを掛けてもらったの。あの人が誰のものにもならないように。」
 ざわり、と風が草を鳴らした。
 昏い金色の光が、奇妙に辺りを薄明るく照らしていた。
 とうに陽は沈んでいるはずなのに、光源はいったい何処からくるのか、空はくすんだ銀色に輝いている。
「だから、あの人死んだの。私の目の前で。呪いは成就された。代償は大きかったけれど、大き過ぎるなんてこともなかった」
「代償って……」
「あの人、死んだって言わなかった? 私が殺したようなものかも知れない」
 人形の顔をした赤根は笑う。
「そんなの、ただの偶然だろう、莫迦莫迦しい……」
 赤根の面に、人らしい怒りに似たものがすっとよぎった。
「偶然? 偶然と必然との差は何処にあるの?」
 返す言葉に窮して黙り込んだ真崎を追い詰めるような事は赤根はしなかった。ただ悲しそうな目を向けて、それもまた人形の面の底にすぐに沈み込んでしまった。
「あの歌を聴いたときに解ってしまってた。あの人とは同じ未来を分かち合う事は出来ない、いつか別れがきて、同じ世界でさえ生きていく事は叶わなくなる……。そんなのは、いや。でも現に七年経った今、あの人の隣に私の居場所はなくなってた……」
 ゆっくりと赤根はいやいやをするように首を振った。
「だからってその人が死んだのはそんなもののせいじゃ……」
「でも、私の目の前であの人は血を流して……その時の幸福感をどう説明したらいいの? だから今、とても満たされた気持ちなの。幸福だと感じる以上の辛さをもう感じなくていい。ただ私は幸福なだけだから……」
 ざわざわと草が鳴る。
 穏やかな赤根の瞳に、真崎の背中を不安が這い上る。
 ──何も、出来ないのかも知れない。
 赤根を壊す事も救う事も。
「……俺には解らない。自分の手には何も残ってないんじゃないか……?」
 ちらりと赤根は真崎に視線を向けた。
「この呪いを掛けてもらう前に、忠告……警告、と言った方が近いのかな……された。願いが叶うと言うのはそれ相応の代償を支払うという事でもあるって」

 朱の空を抜けて
 星の原を駆けて
 海の青を映す空まで……

 霧雨の中で不意に広がった歌声が、赤根の脳裏に鮮やかに甦る。
 七年前の、梅雨が明けて間もない頃に聴いた、歌。

 強くなってきた雨に、誰もがその場から去り始めても赤根は動こうとしなかった。いや、動けなかった。歌の虜になっていた。早く帰ろうと袖を引っ張ぱられても、まるで無視して。
 必死に覚えようとしていた訳でもない。
 それからしばらくはむしろ忘れてしまっていた。
 部活動を終えた下校間際に空が光り、すざましい轟音がたたきつけるように空気を震わせたのを合図に、土砂降りの雨が降り出して、暫く校舎で雨宿りをする羽目になった時に、その歌は、唐突に耳の中で響き始めた。
 既に明かりも消されてしまった昇降口で、空になっている傘立てに腰掛けた赤根は、知らぬ間に口ずさんでいた。
「何、その歌?」
 不思議そうに問われて、赤根が歌を口ずさむ、と言う事自体が珍しかったのかも知れないが、初めてそれが、あの歌だと気が付いたくらいだった。
「……ほら、この間路上でやってた……」
「ああ、あれかぁ。あの日はさんざんだったなぁ……」
 心底うんざりしたその様子に、赤根は何かがひび割れていくのを感じていた。
 だから、私は忘れていたんだ、この歌を。
 それは赤根が必死に見ないでいた現実の象徴だった。
 いつか来る別離の。
 赤根は、扉を叩く。『時の環』と言う名の店の。
 噂では盲いているからだというが、目を黒い布で覆い、幾重にも重ねた更紗を目深に被り、着ている白い更紗で出来た衣装は襟元に細かな刺繍が施され、中東風に見えない事もない。アクセサリーの類は布を留めるための最小限のもので、ごてごてした雰囲気はなく、むしろシンプルで無国籍な感じの女性が、赤根をずっと待っていたかのように出迎えた。
「赤根理生さん、綺麗な名前ですね……私は──」
 テーブルの上にすっと差し出された名刺には、ほっそりした書体で、
 銀の環 店主 白鐘珠希
 と記されていた。
「しろがね、たまきさん?」
 店の隅で興味深そうに様子を見ていた犬が、大きな欠伸をした。
 パピヨンにしては少しばかり身体が大きい。退屈そうにぱたり、と一回だけ尾を振って、陽だまりに移動すると暢気に昼寝を始めた。
「ええ。どうぞよろしく。……なんて本当は余りこんな所とは縁がないほうがいいのだけれど」
 茶化した言い方ではあったが、その中に真摯な悲しみの色を赤根は見て取った。何故だろうと思うよりも早く、
「あなたの望みは?」
 珠希は尋ねた。
 ようやく本題に入るのだ。
 ここでは彼女の方から切り出すまで、自分の願いを口にしないのが作法だと噂で聞いていた。それを破ってもし彼女の機嫌を損ねるような事があれば、すぐさまドアの向こうにたたき出され、二度とその扉が開かれる事はないのだとまことしやかに囁かれている。
でも。
 優しい瞳をしていると、赤根は思った。
 赤根からは決して窺う事のできないその瞳も、その口元同様に微笑んでいると何故か確信していた。
「私は──」
 いざとなると、頭の芯がかっと熱くなり、喉が詰まって声が掠れた。
 自分の望み。
 そのドアをいったいどうして叩いたのか。
 自分の望みは──
「あなたの、心の中にずっと仕舞ってあったその大切な望みは、何?」
 やわらかな声は赤根の心に染み込んだ。
「あの人を──独占したい」
 珠希はじっと赤根を見つめ、その間、生きた心地もしないほどに赤根は緊張をしていた。あの黒い目隠しの向こうにある瞳に直視されていたら、それこそ生きた心地もしなかったかもしれないと、赤根は思った。
 もしかしてあの目隠しは、だからしているのではないだろうか。
 少し意識がずれて、赤根の無意味な緊張が少し解けたのを見計らったように珠希はおもむろに頷いた。
「それが、あなたの望み……。でも、私が掛けるのは誰もが幸福になる魔法ではない。必ずそれ相応の報いがある。そう言う意味では呪いというべきもの。そして、それは決して一面的な現象に留まる事無く、多面的に影響を及ぼす可能性が高い。損得勘定で言えばプラスマイナスゼロになれば幸運なくらいだわ。それでも、あなたはそれを願うの? あなたの願いにはそれだけの価値があるの? 時間はまだあるわ。よく考えなさ。」
 ぐしゃりと、赤根は波打つ髪を掴み、即答した。
「それが叶うなら、私の生命だって魂だって失くしても構わない」
「……正直に言いましょう。神ならざる身の、ただの人でしかない私には、ほんの少し運命の流れを変える事しかできない。結果として、あなたの望みは叶っても、それは酷い痛みを伴う事であるかもしれない」
「……どういう事?」
「あなたが独占したいという、その人はとても魅力的な人ね? あなたがそう願うのはその人はいつも人の中心にいて、あなたは疎外感を感じて不安を覚えるからでしょう? そして、自分とその人との間に決して越える事のできない何かがある事に気が付いているのね……やがて寄り添って歩ける日が終わる事を知っている……悲しい事ね、それは確かに辛いわ。
 でも、その人を変えたいとは思わないの? この先もずっと一緒にいられるようにと、願わないの?」
「それはあの人の本当の心が失われるってことでしょう? そんなのは嫌。私はあの人が、自分で選んでそばにいてくれるので無ければ……信じられない。あの人を信じる事が出来なければ……」
 珠希の指先が、赤根の瞳からこぼれかけた涙を拭った。
「そう、あなたはよく解っている……だから、これは心からの忠告よ。私の掛けるものは魔法じゃない。呪いよ。願いが叶うという事は、それ相応の代償を払うという事。それはあなたの大切な人がこの世から永遠に失われると言う事かも知れない。それでもいいの?」
 赤根はさして驚きもせず、ほんの僅かの間をおいて、頷いた。

「願いは叶った。私はこの結末を知っていた。これが私にとっていちばん救われる結末だということも。」
「そんなはず無い……例えば、よくやってるじゃないか、両思いになれるおまじないとかなんとかそう言うのを」
 侮蔑に似た、冷ややかな目に射すくめられて、真崎は叱り飛ばされた子供のようにびくりと肩を震わせた。
 赤根は軽く肩をすくめ、面倒くさそうに溜息を付いた。
「そのまじないが本当に効いたとしたら、相手の本当の心は失われてしまった事になるんじゃないの? 私はそんな恐ろしい事は出来ないし、そんなものいらない。」
「でもそれは、相手がそれまで気が付かなかった自分の美点に気が付くとかで……」
「根本的に誤解してる。
 互いが、同じ時間と空間の中で生きていく事を、当たり前のように選択して行くことが出来ないと言う事と、両思いだと言う事は違う」
 ゆっくりと首を横に振った赤根の口調は奇妙に優しかった。
「一緒に生きて行くのに互いがどう思いあっているかなんてほとんど意味をなさない……。どんなに思っていても、別れが来ることもある……」
「そんなこと、ない、おかしいよ、どうしてそんなに簡単に諦めたんだよ、その人の結婚なんてぶち壊して」
「あなたに言われたくないわ! あなただって逃げてきた癖に!!」
「え……」
「『ゆきあかり』、あれはあなたが描いたんでしょう? どうして自分の作品だって主張しないわけ? こんな所に逃げて、何をしているの?」
「……あんた……知ってて……」
「あれだけ騒がれて、知らない人の方が珍しいんじゃないの。私でさえ知ってる位なんだから。とうにほとぼりは冷めたとでも思っていたの? おあいにくさま」
「俺はほとぼりを冷ますためにここにいるんじゃない」 
「どうだっていいわ、そんなこと。私の知った事じゃない」
 冷たく突き放されて、真崎の中でぷつりと何かが切れた。
「……そうだよな、人を呪い殺すくらいだもんな、知り合って数日の人間なんざどうだっていいだろうさ」
 胸の奥底で叫んでいる声が聞こえなかった。心の表面を覆い尽くしている怒りに真崎は全てをゆだねてあふれでてくる言葉を止めようとも思わなかった。
「あんたのしたことはただの自己満足で、相手の事なんて何にも考えてない。誰も幸福なんかじゃない。あんたは自分も含めて不幸にしてるだけじゃないか。自分の望みを押し付けて、それで幸福になんかなれるわけがない。あんた、先刻言ったよな、本当の心が失われる事なんか恐ろしくて出来ないって、でもあんたのした事はそれと変わらない、むしろ酷いくらいだ。結局あんたはその人の事を信じてなかったんだろ、それなのに誰のものにもならないようになんて冗談じゃない。あんたみたいなのに魅入られた方はその時点で既に不幸じゃないか!」
 どうして赤根を責めているのか、自分でも解らなかった。
制御できない凶暴な感情がそうさせているのか、本当にそう思っているのか、真崎の口を付いて出る言葉はまるで赤根の心をずたずたに引き裂くためのようなものばかりだった。
 その不幸な事故はお前のせいでは無いのだと、不運な偶然なのだと言えないのは……
「あんたなんかに呪い殺されて……、どうせなら、あんたが死ねばよかったんじゃないか!」
 それは呪文だった。
 一つの、解放の方法。
 真崎は夢から醒めたように、はっきりと自分の感情を掴み、取り戻した。
ゆらり、と赤根は立ち上がった。
 銀色の残照に伸びる影が、薄い。
 果たして何時からいたのか、それにもう一つの薄い影が重なった。怪訝に思って振り向くと、黒ずくめの格好をした少年が憮然とした表情で立っていた。明らかに地元の人間ではない。それどころか真崎の通っている大学を同じ構内にある高等部の生徒たちと変わるところは何もない。ただ、同じ黒ずくめでも学生服でないというだけだ。
「やっと、決心が付いた」
 赤根はその少年に向かってそう言うと、困惑している真崎に向き直り、微笑み掛けた。
「誰かにそういってもらうのを、……待ってた」
 もし時間を戻せるなら、という質問に隠された意味に気が付くには遅すぎた。
「ありがとう」
「ありがとうって、ちょっと待てよ、どういう……」
 黒ずくめの少年は、真崎の上着のポケットに勝手に手を突っ込むと、緑柱石の結晶を引っ張り出した。
「なっ……」
 少年の掌の中で、それは宙に浮き、頼りない明かりのように微かな光りを宿したかと思うと、一気に辺りを白銀の光で満たした。
 見る間に、赤根の身体は光に透けてゆく。
「先刻……酷い事言ったね、ごめんね」
「そんな事どうでもいい!!……いったい何がどう……」
 慌てて止めようとしてもその身体に触れる事すら出来なかった。既に実体でなくなっていた。
「呪いを解く方法は私が消える事……その決心を……付けさせてくれて……ありがとう……」
 幻のように、赤根は消え、光は失せた。
 それとも最初から幻だったのか?
 気が付けば、すっかり夜の闇に閉ざされて、代わりに十六夜の月が辺りを煌々と照らしていた。
 さわさわと、草を鳴らして風が渡って行く。
「全く……面倒な」
 忌々しげな少年の呟きに、真崎は我に返った。
「石を、返せ。」
 つまらない石ころのように緑柱石を手の中で弄んでいた少年は、それこそ面倒くさそうに真崎に視線を投げた。
「何故?」
「それは、俺のものだ」
 鼻先で少年は笑った。莫迦にされたと感じるには充分な仕草だった。
「いったいお前、なんなんだよ」
 少年は、親指と人差し指で石を挟むようにして、月の光に緑柱石を透かした。
「彼女から呪いを請け負った者の使い。」
「何だよ、呪い、呪いって! そんなもので自分の望みなんか叶うわけがないじゃないか。それに……彼女はなんだ、幽霊だったのか一体何なんだよ……!」
 少年と名乗った少年は軽く肩をすくめた。
「貴方にはおそらく一生縁の無い事だ。だから、説明する必要もない」
「縁があろうが無かろうか、目の前で赤根は消えたんだ、事情を知っているんだったら説明したっていいだろうっ。」
 月光の加減のせいなのか、少年の瞳が蒼みを帯びている事に激しながらも真崎は気が付いた。
「仕方無いな……」
 少年は軽く頭を振り、先刻まで赤根が座っていた石の上に飛び乗った。
「呪いっていうのは一方的なものに見えて、実際掛けた方にも相当なしっぺ返しがあるんだ。だから彼女はその呪いが達成されると同時に最も大切な人を失った。無論、掛けられた方からははどうしようもない。けどね……掛けられた方に僕はいつも最後の願いを聞きに行って、出来るだけの事をしてはいるんだ。呪いそのものを解く事は出来無いけれど、それに代わる事をするのは実は不可能じゃない。それを教えて上げるほど僕は親切じゃないけど。
 だけどあの人の願いは、どうして自分がそんな目に遭ったのか悟って尚願うにしてはかなり興味深くてね。だから赤根のためにタイムリミットを少し伸ばして上げたんだけど、この結果だ。今ごろ、あの人は病院で目を覚ましている事だろうね」
「目を覚まして……?」
「赤根はあの人は死んだのだと思い込んでいたけれど、意識不明の重体、何時死んでもおかしくない状態で生きていた。そして赤根が自分の命を引き換えにして呪いを無に返したからには、無事に回復して、本体の運命を生きるだろうさ」
 少年の身体が、つ、と宙に浮いた。
「石を返せ!」
「……今は駄目。本当に返して欲しいのなら、訪ねて来るといい。真詞は多分あんたにこれを託す事を選ぶだろうから」
「訪ねてって何処へ!」
「……『時の環』に。多分あんたを迎えるために、まことはその扉を開けるだろうから……」
 冷たい一瞥を残して、少年は消えた。
 『永遠の原』には真崎一人が残された。

 真崎が帰ったのは明け方になってからだった。
 そっと音を立てないようにドアを開けたつもりだったが、ミセス・グラスメアは疲れた様子を押し隠して真崎を出迎えた。
「お帰り。よかった、無事に帰ってきたんだね。」
「心配掛けてすみません……でも、赤根が……」
 どう説明しようか言いあぐねていると、ミセス・グラスメアは
「お腹、空いていない? どうしてかしら、昨日のお夕飯、たくさん作りすぎてしまっていてお鍋が空かないのよ。」
 どういうことだろう?
 赤根が一緒に帰ってこなかった事をどうしてミセス・グラスメアが問わないのか、すぐに真崎は悟った。
「おかしいわね、食器も一人分余計に出ているのよ。」
「ミセス・グラスメア……赤根という人を知りませんか?」
「アカネ?」
 首を傾げて、しばし考え込んでからとても申し訳なさそうに
「ごめんなさい、知らないわ」
 と首を振った彼女に、真崎はぎこちない笑みを向けた。
「いえ、いいんです。少し眠ってから……それ、頂いてもいいですか」
「もちろんよ」
 二階に上がり、朝の光に明るくなりはじめた自室の中には、赤根がいたという名残はほとんど残っていなかった。彼女が残していったはずの荷物も何もかもが始めから無かったかのように、見当たらなかった。ただ、部屋の隅に細かに引き裂かれてた絵の欠片が二、三、落ちていただけだった。
 昼近くまで眠り、食事をしてからカフェに出かけた。
 河を越えると後ろから学校帰りのメイベルの、
「マサキ!」
 という元気な声が真崎を呼び止めた。
「やぁ」
「どうしたの、眠ってないの? 酷い顔してるわよ」
「夢見が悪かったんだ」
「子供みたい」
 くすくすとメイベルは笑う。昨日までの不機嫌さが嘘の様な朗らかさだ。
「そうだ、今日お父さん特製のパイ焼くのよ。食べに来るでしょう?」
「ん……そうだね……」
「何よぅ、その気の無い返事は。まるで失恋でもしたみたい」
 その例えがあながち外れていた訳でもなく、真崎は力無く笑った。
「かもしれない」
 ぎょっとしたメイベルも、それをすぐに冗談と受け取ったのだろう、
「嫌だ、失恋の夢なんて見てたの?」
 慰めるように、ぽん、と真崎の背中を叩き、ポケットに突っ込んだままの真崎の腕にぶら下がるように自分の腕を絡ませた。
「そういえば……鉄道は復旧したのかな」
「なあに、それ」
「事故で暫く動いてなかったろ?」
「何の冗談なの? 全然面白くないわよ、それ」
 そう言いながら、メイベルは可笑しそうに笑った。
 何事も無かったかのように、穏やかな日常が戻っていた。
 いつものように、カフェでのんびりとした一時を過ごし、メイベルのたわいもない話に耳を傾け、それから街なかをぶらぶらと歩き、家路を急ぐ人たちの流れに逆らって駅向こうの河を渡り、『永遠の原』までは行かないまでも、ヒースの紫が揺れる大地の起伏に添うように、曲がりくねって伸びる小道を導かれるように進む。その姿を見る者がいたら、いにしえの妖精に惑わされる旅人を連想させかも知れない。

 すっかり陽が落ちてから、真崎は帰路についた。闇の中でぽつりぽつりと家の明かりが暖かだ。
 裏口のドアを開けると、いつものように、ミセス・グラスメアが出迎えた。
「おかえり」
 まるで、帰ってこなくなるのではないかと恐れているのようだ・・初めて真崎は柔らかな笑みの中に怯えにも似た影が潜んでいる事に気が付いた。
「……ミセス・グラスメア、俺、帰ります」
 一瞬目を見開き、何か言いかけようとしたのか開いた口を閉じるとミセス・グラスメアはゆっくりと頷いた。
「明後日には、発ちます」
「……急なのね」
「今、帰らないと、俺、一生ここに居付きそうだから」
 冗談とも本気とも取れる言葉に、
「それでも私はかまわないのに」
 ミセス・グラスメアも同じように応えた。

 一時間も列車に揺られると、風景は都会そのものになる。
 セントラルステーションから空港に向かい、ありとあらゆる人種に囲まれると、それまでの日々が幻想であったことが正しいような気がしてきた。
 長々と滞在していた割には、真崎の荷物はささやかな物だった。
 大きめのボストンバッグ一つに、ショルダーバッグが一つ。みやげ物といえば、秀則に紅茶の葉と国立美術館のDVDが一枚だけで、連絡を待ち続けていたであろう母親へのものは何もない。
 大した物でなくても、何か、と思わなかったわけでは無かったが、どんなささやかな気遣いさえ示す事への強い躊躇いを打ち消す事はどうしても出来なかった。
 飛行機に乗り、一時間もしない内に、真崎は眠りに落ちた。
 さほど疲れを感じてはいなかったのだが、神経の方は久しぶりの都会の喧騒に、随分と興奮と緊張の持続を強いられて、臨界に来ていたらしい。
 夢とも現ともつかぬ、ゆらゆらと心地よい眠りの感覚が、不意に鮮明になった。
 さわさわと乾いた風が頬をなぶってすり抜けて行く。
 真崎は目を開いた。
 そこは『永遠の原』だった。
 薄曇りの、夕暮れ。銀色に輝く空の下で、赤根はすらりと立っていた。
 振り向いた。
 赤根は、幸せそうに笑って真崎に手を振った。
 風が、草を鳴らす。
 音が辺りを包み込む。
 空気が震えて、結晶となって崩れてゆき……
 真崎は目を覚ました。

 空港から秀則のところに電話を入れて、自宅ではなく、秀則のアパートに向かった。電車から見える風景は、時間の経過のせいなのか記憶の中にある物と変わりはしないのに、酷くよそよそしい。
 最寄りの駅に付くと、まるで変わった様子もなく、秀則が迎えにきていた。
「なんだ、わざわざ来る事もなかったな、随分荷物、少ないじゃないか」
「そうか? 別に買い物旅行に行ってた訳でもないし、それに余計な物、全部置いてきたし」
「ふうん。それにしても急だったな」
「……なんとなくね」
 秀則はそれ以上追求しようとはしなかった。
 アパートに着いて、早速真崎から土産でもらった紅茶を秀則は淹れた。少し癖のある香りが部屋いっぱいに広がる。
 すぐにパソコンが起動されて、DVDの画面が現れた。3Dで緻密に作られた美術館の入り口のコンピューターグラフィックに続いて所蔵されている作品が現れる。
「すごいな、これ。」
「だな。向こうはこういうところ、進んでるよって、俺がいたのはすごい片田舎だけどさ」
「だよなぁ。郵便物が届くのに、今時二週間かかるなんて、何処の砂漠の真ん中だよって思ったくらいだからな」
 消印を意識した事がなかったから、それが本当の事かどうかは分からなかったが、意外な気がした。確かに田舎は田舎だったが、都会からさほど離れてもいない、ちょうど開発から外れてしまっただけの場所だと思っていたからだ。
 秀則がパソコンの画面に見入っている内に、真崎はテレビをつけた。
 夕方のニュースが始まって、久しぶりにメディアに触れた、という感じに、不思議と安心覚えて、それが何処と無くおかしく感じられた。
 それから、結局一週間真崎は秀則のアパートに居候を続けた。その代わり炊事洗濯掃除といった家事全般をこなしていたからではないだろうが、秀則は迷惑そうな顔一つせず、家に帰る事を促しもしなかった。いつまでもそうしていられない事を、最初から承知していたからかも知れない。
 その日の夕方のニュースに、真崎は引っかかりを覚えた。
「……秀則……」
「ん?」
「このニュース……」
「それか? なんでもロンドンで交通事故に遭って、意識不明の重体だったらしいんだけど、向こうではやっぱやってなかったか?」
「交通事故……?」
 今更のように、あの街に居た間、ほとんどテレビを見なかった事に気が付いた。ミセス・グラスメアも、台所でラジオは好んで付けていたが、果たして彼女がテレビを持っているかどうかも分からない。もしかしたらなかったかもしれない。真崎自身も、部屋に居るとき、大抵ラジオを付けていたが、ろくに聞き取りなぞ出来はしなかったから、どんなニュースが流れていたか、ほとんど知らなかった。
「新婚旅行先のロンドンで二人列んで歩いていたのに、まるで片方だけを狙ったかのように、自動車が突っ込んできたんだってさ。頭を酷く打ったのと、出血が多かったらしくて、回復の見込みがないと言われてたらしいのが、意識を回復して一週間余りで帰国できるくらいになった、って言うんだから、奇跡だとか言って騒ぐのも無理無いかもな」
 食い入るようにテレビ画面を見つめている様子に、秀則は怪訝な表情を向けた。
「真崎?」
 返事もなく、放心したような真崎に、
「なぁ、この人、何処となくお前に似てるな。」
 と何気なく言うと、びくり、と真崎の肩が揺れたのに気が付いて、秀則はそれ以上の軽口を叩き損ねた。
「そう、か。彼女が……」
 真崎の呟きの意味を、とうとう秀則は聞く事は出来なかった。全てを自己完結させて、第三者の介入を一切拒絶していた。
 翌日、昼近くになって秀則が目を覚ますと、テーブルの上には朝食兼昼食がラップを掛けられて置いてあり、布団もきちんと畳まれて、真崎の姿はなくなっていた。そこに居たのが誰なのか、まるで分からない、真崎が真崎であるという痕跡は、一切残っていなかった。それが真崎らしいといえば真崎らしい。
 軽く溜息を付くと、手探りで捜し当てた眼鏡を顔に押し込んだ。

 しん、と。
 空気が冷たかった。
 門から玄関までの、ほんの数メートル。
 玄関に手を伸ばして、おもむろに引くと、想像よりもよそよそしい空気が流れ出てきた。
「……信乃?」
 久しぶりの、声。耳は正直だ。懐かしさがこみ上げる。
 おそるおそる台所から顔を覗かせた暁子は、一瞬絶句した後、ぱたぱたと真崎を迎えに出てきた。
「信乃!」
「……ただいま。」
 案外にあっさりとその言葉が出てきた。
「お帰りなさい。……お腹空いた? お風呂どうする?」
 渡欧した事は秀則以外に話した覚えはなかったが、秀則のところには居らず、旅に出ていた事に、薄々気付いてはいたのだろうと思われる暁子の言葉は、取りあえずはその事について深く立ち入る事はしないと言外に言っているようでもあった。
「どっちもいいよ。一週間くらい、秀則んちにいたんだ。」
「そう……。」
「一枝さんからもらった金、ほとんど使った」
「え……」
「だから、いいよ。もう、そんな風に気、遣わなくても」
 框を上がり、自分の脇を通り過ぎた息子の背の高さに、暁子は初めて気が付いたような顔をしていた。
「……でも……」
 階段を昇りかけた足を止めて、
「取りあえず、荷物置いてくる」
と真崎は言うと、急ぐでもなく二階に上がっていった。
 お茶は何にしようかと考えて、戸棚に最中が残っていた事を思い出して、暁子は緑茶の缶を手に取った。
 線が細く、いかにも今風の若者に見える外見をしていても、真崎の好物は饅頭や善哉といったものである。ついでに言えば、甘いものは好きでも、チョコレートよりは塩煎餅の方が好みでもあり、要するに、和菓子と渋目の緑茶を用意して、縁側でぼんやりしているのが、真崎にとっては非常に幸福感を満喫できる時間であったりする。
「信乃、お茶淹れたけど……」
「あ、もらう」
 台所のテーブルの、いつもの定位置に真崎は座った。子供の頃から、父親が居た頃からの、場所だ。
「……何ヵ月か、片田舎の町に居たんだ」
 猫舌気味の真崎は慎重に冷ましながら、湯呑みに口を付けた。
「本当は一箇所に腰据えるつもりじゃなかったんだけど、結構いいところで。下宿屋みたいな部屋を借りて」
「……そう。」
「人のいいお婆さんが、二階が開いてるからって。紹介してくれたのはカフェのおやじで……その前は、B&Bにしばらくいて……」
「B&B?]
「BED & BREAKFASTの略で、要するに、寝るところと朝飯を提供してくれる安い宿。でもミセス・グラスメアは親切な人で、しょっちゅう夕飯に呼んでくれて、結構美味かったよ。」
 暫く沈黙が続いた。
 長い旅から帰ってきた真崎は、まるで何事もなかったかのような穏やかな顔をしている。暁子はどんな顔を息子に向けていいのか戸惑っていた。
 息子と親友を天秤に掛けて、彼女は親友を選んだ事を後悔はしていなかった。暁子にとって一枝は、女神にも等しい存在だったから。
 だからといって、息子を裏切った事を正当化する事など出来ない事も、彼女が、ただの女であり、女神などではない事も分かっていた。
「……あのね、今更って……思うのも無理ないけれど……」
「一枝さんのした事を許す気はないよ」
 きっぱりと真崎は言った。
「もらった金を使っておいてと思うかもしれないけど、その事を蒸し返すつもりはないし、誰かにその事を話す事も多分一生ないだろうから、その事は安心してくれていいよ。だけど、だからって一枝さんを許した訳じゃない。ただ、忘れるつもりはないけど、でもそこでいつまでも引っかかってるつもりもないんだ」
 決して暁子を責めているのではない、けれど、無駄な気遣いの省かれた真崎らしい穏やかな口調だった。
 まっすぐに向かい合って話をするのは、いったいいつ以来の事だろう?
 屈託のなくなった真崎の顔に、暁子は自分の中でがちがちに固まっていたわだかまりを、ほんのわずか、解くきっかけを見いだした。
「そうね……、それが、いちばんいいことなんだわ……」
 ようやく普段見知った柔らかな表情を取り戻しつつある暁子の呟きに、真崎は軽く肩をすくめ、お茶をすすった。
「……一枝とは、もう長い付き合いなの。小学校の時に引っ越しをして……新しいクラスに一枝がいて。転校生はいつだって異物なのよね、いじめられこそしなかったけど、なかなかなじめなくて……でも一枝と家が近い事が分かって、一緒に登下校するようになって……気が付いたら、始めからそこにいたような顔で新しいクラスにいたわ」
 不意に始まった昔話に、真崎は怪訝そうに首を傾げた。
「……私にとって一枝は……特別なの。雛鳥みたいに、離れられないのよ。一枝さえいてくれれば他にはなんにもいらないなんてね、思っていた時期もあったわ」
 くすり、と暁子はその頃の事を懐かしんでか、微笑んだ。
「共生関係だと、ずっと思っていたわ。一枝は私に依存される事で、自分を支えているのだと……最初はそうだったの、確かに。私はいつまで経ってもその関係が続くのだと……ずっと思って……でも、一枝は別の道を選んで自立して……私一人取り残されたのね。その事に気が付いてからは……必死だったわ。一枝に忘れられないように、一枝に捨てられないように。……自分でも滑稽だと思うけれど……」
「俺にはそういうのってちょっと理解し難いんだけどさ、母さんが言わんとしてる事は、何となく分かるよ」
「……言い訳をしたくて話しているのではないの……でも、そういってくれると嬉しいわ……」
 そう言うと暁子は、二つ目の最中に手を伸ばした真崎の手をぎゅっと握り締め、
「信乃がどうでもいいわけじゃないの。信乃は大切な息子だわ。でも……どうしても……恐かったの、一枝の頼みを断ってしまったら……」
「いいよ、母さん。」
 真崎は暁子の手をしっかりと握り返した。
「それはさ、母さんは俺なら絶対に母さんを捨てたりしないって信じてるってことだろ?」
 少し悪戯めいた笑みを口元に浮かべて、真崎は立ち上がった。
「お茶、ごちそうさま。」



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