変容の章

雨の森、光の浜辺

─後編─

 何処とも知れない浜辺。
 足許の砂を改めて踏みしめる。
 微かな波音。
 夜明けとも夕暮れともつかぬ薄明の中、振り向けば黒々とした海が広がり、紺青の空の底に深い橙色が沈んでいる。
「ようこそ、迷い人」
 正面に立つのは、クラシカルな焦げ茶色のワンピースを着た少女だった。年の頃は十二、三歳くらいだろうか。襟や袖口を飾る繊細なレースと相まって、ずいぶんと大人びた空気を持っている。
「誰、お前」
 険のある声音にも動ずることなく、少女はやわらかく微笑んだ。
「沙都子(さとこ)。事象の観察者です」
 成人した人間に言われたなら、頭がいかれているんじゃないかと迷うことなく疑うところだ。けれど、幼さの残る面立ちに老成した光を湛えた目のアンバランスさからは、狂気は窺えなかった。
「ここは、何処?」
「『岸辺』です」
 端的に言われても、逆によく分からないし、むしろここは『浜辺』だろうと高谷は眉を顰めた。
「……そういう、ことじゃなくて」
「あなたが属している世界群を私たちは『真界』と呼んでいます。ここは『虚界』。真界のはざまに存在する空間。その入り口となっているこの場所を『岸辺』と呼んでいるのです」
 そう言われても、いまひとつ要を得なかったが、ふと嫌な想像が浮かび、間抜けたことと承知して尋ねてみる。
「……まさか、ここって、あの世?」
 その問いが余程意外だったのか、沙都子は思い切り目を見開いた。何度か瞬きを繰り返して、ようやく少しばかり困ったような笑みを浮かべると、ゆっくりと首を横に振った。
「いいえ。ここは死者の来るところではありません。神もいませんけど」
「悪い夢でも見てる気分だ」
 あの、雨の日から、終わる事の無い悪夢を見続けているだけなら、どれだけ救われるだろう。
 そんなことを高谷は思う。
「悪い夢?」
「だって、そうだろう、気が付けば、こんな訳の分からないところに居るし、訳の分からない御託は聞かされるし、これが悪夢じゃなくて、なんなんだ?」
「そうではないでしょう?」
 すっと、沙都子の目が細められた。
「あなたにとっての悪夢は、ここに迷い込んだことではなくて、兄の死であり──」
 びくりと、目に見えて高谷の肩が揺れた。
 無表情を装いながら、一層きつくなった視線に、沙都子はその続きを飲み込んだようだった。
「悪夢でも、なんでもいい。俺は、さっさと帰りたい」
 それは、沙都子に向けられたものというよりは、呟きに近かった。
 ただ、一言、言葉を投げつける事さえ出来ればよかったのだ。
 それが出来なかったとしても、あんな姿を見さえしなければ。
 僅かに俯いていた高谷は、沙都子が溜め息をついたのには気付かなかった。
「このまま、放っておけば、あの子はあの子の望みを叶えるでしょう」
「望み? 自己満足の罪悪感に浸りきって、それで兄貴を追い詰めた罪を償ったつもりになるって?」
「ええ」
「冗談じゃない、兄貴は誰かを殺したわけじゃない!」
 地団駄を踏む高谷の足許で、微かに砂が鳴った。
 真相は分からない。孝司がどういう形であの事故に関わっていたのかは。それでも、あのワゴン車が飲酒運転などしていなければ、起こるはずも無い事故であったことは確かだった。
「あいつは、死ねば良かったって言ったんだ。その通りに兄貴は死んだ。満足だろうさ。雨に打たれてりゃ風邪ぐらい引くだろうが、そのうち、自分が口にした言葉も、兄貴の死も忘れて、のうのうと暮らしていくんだろう。
 なあ、罪深いのは、どっちだよ、兄貴か? あいつか?」
 沙都子は、ゆっくりと首を横に振った。
「私は、その問いに対する答えを持ち得ません。
 ですから、あなたが、自身の質問に答えを得るだけの事象をお見せしましょう。どうしますか?」
 それは、やや挑戦めいていた。
 真実を見る勇気があるのかと。
「……見る」
 それは、意地だったかも知れない。こんな訳の分からない事を言う小娘に莫迦にされてたまるかという。
 沙都子は肩越しに振り返った。
「各務(かがみ)、来てちょうだい」
 いつの間にそこに居たものか、足音も無く、沙都子の横に立ったのは、二十歳前後の女だった。黒の巻き毛に、グリーンのきつい瞳が印象的な。
「彼女は、夢語(ゆめがたり)の各務」
「夢語?」
「巫女のようなものです。真界で起きた事象を他者に見せることが出来ます」
「……そんなのを信用しろって? 生憎オカルト系は信じてない」
「では、あなたが此処にいることは、夢だと? そう、夢かもしれませんね。それなら尚更、あなたの都合の良い夢が見られると思いませんか」
 にこりと沙都子は微笑った。
 その言い草は癇に障らないでもないが、高谷は抗う言葉を飲み込んだ。
「分かった。見せてくれ」
 何を見せられるのか。
 全てを覆される事への恐怖は確かにあった。それでも、兄の死は現実としてそこにあり、それ以上の悪夢などないと高谷は肚を括ったのだった。
「彼女の目を見て下さい」
 言われた通りに、真正面に立った各務の目を見るなり、深く澄んだその色に魅入られて、そのまま意識が引きずり込まれた。一瞬、暗闇に閉ざされて身体の感覚を失うと、やがて、ゆっくりと視界が開けてきた。
 小雨の降る中、交差点の風景が広がっている。
 傘を差して自転車に乗っている青年は、孝司だ。
 横断歩道を渡っていると、そこに白いワゴン車が突っ込んできた。
 耳障りなブレーキ音が高らかに響く。
 白いワゴン車は、歩道に乗り上げていた。
 雨に黒ずむアスファルトに、エメラルドグリーンの傘が転がり、その影から、表情を無くして立ちすくむ少女の足許へ鮮血が流れている。
 孝司の姿を探そうにも、高谷の視点は自分の意志で動かす事が出来なかった。
 風景が流れたかと思うと、そこはペールグレイの廊下に変わった。病院の処置室の外だと何となく分かる。
 やがて、悲痛な顔の医師が扉の向こうから現れ、少女の死を告げた。
「どうして、私の娘が死んで、あなたが生きてるの……?」
 そう言って、あの少女に取りすがっているのは、中年の女性。おそらく亡くなった少女の母親なのだろう。
 少女の顔が歪み、救いを求めるように、傍らの女性の方を向いた。それは彼女の母親ではなかったか。
 けれどその女性は、
「……ほんとにあんたは……」
 忌々しそうに、娘の視線から逃げた。
 言葉の続きは濁したものの、その厭わしげな様子は自分の娘だけが無傷であることの体裁の悪さばかりではないようだった。
 風景が流れ、見覚えのある室内は、孝司のアパートで、部屋の主がちょうどテレビを付けたところだ。
「またしても、飲酒運転による事故です」
 眉間にやや皺を寄せたキャスターの平板な口調が聞こえてくる。
 孝司は蒼白な顔をしていた。歯の根が合わない程に、震えて。
 さらに風景は変わる。
 セーラー服を着たあの少女が、小雨の中、立ち尽くしていた。同じセーラー服を着た少女たちは、ハンカチを片手に次々とその家の門をくぐっているのに。
 そこに、孝司が現れる。彼もまた、躊躇っていた。
 ようやく意を決したように焼香の列に並んだ孝司に少女は声を掛け、近くの公園へ連れて行った。そして、捨て台詞を吐いて去って行く。
 高谷の記憶のある通りだ。
 が。
 聞き損ねていた言葉が、思い込んでいたものとはまるで違う事に、文字通り高谷の目の前は真っ暗になった。
 血の気が引く思いと言うのをその身で味わっていた。
 とん、と足の裏に地面の感覚が戻ると、夜明けの、暖かな色の光が、浜辺を満たしていた。
 白い砂浜は、崖に囲まれた小さな入り江である事が知れる。
 夢から覚めたような気分だった。
 既に各務は沙都子の傍らに控えていた。
「……これが、事実なのか?」
「あなたが存在する世界においては」
 それならば。  あの涙の意味は、高谷が感じた通りの意味なのだろう。
 認めたくはなかったけれども。
 高谷は、重く溜め息をつき、そのまま深々と項垂れた。
 もう、どんな感情を誰にぶつければ楽になれるのか、分からなくなっていた。
 知りたかった事のほとんどは、分からずじまいのままなのに、胸の中ですとんと落ちたものがある。高谷を頑なにさせていたものの正体は、事実を知らない事では無く、あの言葉、ただ一言だったのだ。
「あなたの原点はここにあるのですね」
「え?」
 顔を上げると、朝の光の中で、年相応のあどけない顔の沙都子は笑っていた。
 さっきまで気にもならなかった波の音が耳に障った。
 この、夢に似た時間が終わるのだ。
 何故か知っていた。
 いつの間にか潮は満ちて、波が引いても膝下まで海に浸かってしまっている。
「あなたを帰す波が、来ます。世界を渡る波が」
 沙都子が指を指す方に振り返るとほぼ同時に、高谷は波に飲み込まれた。
 不思議と冷たくはなかった。
 体を包む水の感触が消えたとき、高谷はまだ林の中に居た。
 傘を叩く雨音に、そういえば、あの浜辺で、傘はどうしていたんだろうと、ばかばかしいことがふと気になった。
 少女はやはり同じ場所に横たわっていて、ただ、もう目蓋は閉じられていた。傍らに腰を降ろし、頬に触れてみれば、骸かと思える程の冷たさだ。
 口許に手をかざし、微かな呼気を確かめると、高谷は携帯電話を取り出した。
 
「たまたま、見付けただけなんです」
 到着した救急隊員に、高谷はそう言った。
 少女とは、何の関わりもないのだと。あながちそれは間違いでもない。
 そのまま一緒に救急車に乗る羽目にはなったが、運ばれてきた急患が重なったどさくさに紛れて、病院を後にした。
 あのまま、放っておいたら、彼女の望みは叶っただろう。
 そう思うと、高谷の胸の内に苦いものが広がる。
 彼女の望みは、自己満足の贖罪などでは無かっただろうことに、気付いていたから。
 あの日、午後から降り出した霙。
 スリップして制御を失い、ガードレールに突っ込んだのだという、目撃者の証言がある。現場に残された痕跡からも、それは証明されていた。
 それでも、ただの事故だと受け取れぬ者はいる。
 ニュースで、その事故が報道されたのを高谷は他人事のように見ていた。小さな記事だが新聞の片隅にも載っていたのを、葬儀の後、散らかった部屋を片付けている時に目にした。
 孝司が少女の死を知ったように、彼女もまた、そうして知ったに違いない。
 ──私が、死ねば良かった──
 そう呟いた少女は、何を思っただろう。
 少なくとも、彼女は孝司の生を呪ってなどいなかった。
 呪っていたのは、むしろ、自分自身。
 あの姿を見た時に、高谷はそれを悟りながら認められないでいただけなのだ。
 ふと、手持ち無沙汰な気がして、高谷は立ち止まった。
 傘を病院に忘れてきてしまっていたのだ。安手のビニール傘ではないが、わざわざ取りにいくのも面倒だし、誰かが勝手に使ってくれるだろう、と放っておく事にした。
 雲の切れ間から射す光に、水滴がきらきらと光っている。
 頬を撫でる風が暖かくなっている事に気付いて、高谷は蕾が膨らみ始めている桜の樹を見上げた。
(了)


一応、これから主要登場人物のなる(はず)の二人のお話です。
あまりにも、何がなんだかなモノになってしまったので、おまけの補完編があります。

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