変容の章

雨の森、光の浜辺

─前編─

 三月に入ってから、寒い日が続いていた。二月までは、記録的な暖冬だったというのに、まるで季節が逆行しているかのようで、これから二、三週間後には桜の花びらがほころび始めるなど、とても信じられそうにない陽気だった。
 高谷(たかや)が、兄の孝司(こうじ)とこたつを囲むのは数年ぶりのことだ。外では度々会ってはいるものの、孝司がこの家に足を踏み入れるのは、両親が離婚し、母と一緒に行ってしまって以来のことになる。
「悪いな、急に来ちまって」
「何言ってんの。今でもここは兄貴の家だろ。部屋だってそのままにしてあるんだし」
 もちろん、荷物はほとんど無いのだが、いつでも戻ってこられるようにしてあるのは、母親の実家での同居がうまくいかなかった場合を慮ってのことだった。とりあえず杞憂だと分かってからも、そのままになっている。
「わざわざアパートなんか借りなくても、ここに住めばいいのに」
 大学進学と同時に一人暮らしを始めた孝司は、この家から割合近いところに住んでいた。大学に通うのに、母親の実家からではさすがに遠かったからで、他意はないようだった。とはいえ、この家に戻ってくるのは、さすがに気が引けるらしい。父親は昨年から海外に単身赴任で、正月も面倒くさがって帰ってこないのだから、かまわないだろうにと思うのだが。
「ここからだと、近いわりに電車は乗り継がなきゃいけなくて面倒なんだよ。あそこなら徒歩で通うの、楽で良いし」
「バイクで通えば?」
「雨の日とか大変だよ」
「でもさー、生活費が浮けば、バイトしなくて済むじゃん」
「バイトは好きでやってるだけだからいいんだよ」
 そんなやりとりも、いつものことだ。
「で、明日、誰の葬式なの?」
「んー、ちょっとした知り合い」
 微妙な歯切れの悪さが気になって、高谷は疑問を重ねた。
「……なんか義理でもある人?」 
「まあ、そんなところ。それより、父さんの喪服、あった?」
「うん、そこに出してあるよ」
 孝司がここを訪れたのは、父親の喪服を借りに着たのだった。それまで親戚に不幸があったときは、二人とも制服で用が足りていたから、まだ誂えていなかったのだ。
「上着は大丈夫だと思うけど、ズボンは丈が心配だよね」
「今頃、くしゃみしてるぞ」
 笑いながらサイズを確認すると、さすが親子と言うべきか、ややウエストが緩いだけだった。高谷にせよ孝司にせよ、体格は父親の遺伝子を引き継いでいたが、顔立ちの方は、高谷は母親似だったから、互いにあまり似ていない。
 誰の葬儀なのか、話してもらう必要はないのだが、うまくはぐらかされて流されたことが気に掛かる。
「今日は泊まってくだろ?」
「そうだな、うん、今日はそうするよ」
 穏やかな表情は、高谷のよく見知ったもののはずなのに、そこに何か不安をかき立てられるような暗さを感じたのは、単に他人の不幸の場を訪れることが気鬱なだけかもしれない。それでも、気になって仕方がなかった。
 翌朝、着慣れない喪服に身を包んで出かけた孝司の後を付けてみようなどと思ったのは、そんな理由だった。まだ春休みには入っていないが、遅刻したところで単位に問題は無かったから、行き先を見届けて、多少気分をすっきりさせてから登校するつもりでいた。
 朝から小雨の降る中、孝司が向かったのは、電車で一駅離れたところの一軒家でしめやかに行われている中学生の少女の葬儀だった。そこかしこでセーラー服の少女たちのすすり泣きが聞こえ、とてもじゃないが、関係者ではない高谷が近寄れる雰囲気ではない。
 物陰から伺っているのも怪しげだし、どうしたものかと考え倦ねて、焼香の列に並んだ孝司の方を見やると、その袖をセーラ服を着た少女が掴んでいた。なんと声を掛けたのかは分からないが、ひどく険しい顔をしており、そのまま孝司を連れて人の群れから抜け出してゆく。高谷はその後を追った。
 行き先は近くの児童公園だった。天気が天気だけに、ひとけは無く、静まりかえっている。
「何しに来たの」
 問いつめるような鋭い口調で詰め寄られていた孝司は、ひどく青ざめ、固い表情をしていた。
「あなた、あの事故に無関係じゃないよね?」
 少女は、二十センチはあろうかという身長差に臆する様子もなく、孝司の襟を掴んで睨み付けていた。
 孝司は、ただ口許を固く引き結んで、何も答えようとはしない。
「車の運転手に、全部背負わせるつもりなの?」
「……それは……」
 しばらく、少女は孝司の言葉の続きを待っていたようだったが、やがて襟元から手を離した。
「そりゃあ、あなたは何も悪くないものね? 信号を渡っていたら、突っ込んできたのは車の方。勝手に避けてくれたのも」
「君は、あれを見て……?」
 声が震えていた。表情ばかりは、取り繕ったように平静さを保っていたが。
「私は誰にも何も言わない。あなたを責める理由が見つからないんじゃ、おばさんたちが可哀想なだけじゃない」
 沈黙が落ちた。
 少女は、孝司の言葉を待っていたのかも知れなかったが、先にその沈黙の重さに耐えきれなくなったのか、
「……が死ねば良かった」
 と吐き捨てるように呟くと、足早に公園を出ていってしまった。
 孝司は俯いたまま、雨に濡れていた。とはいえ、高谷も声を掛けることは出来ず、逃げ出すようにその場を離れてしまった。
 登校はしたものの教室には向かわず、図書室に直行して、ここ数日の新聞を調べてみた。高谷が通う高校の近くで、交通死亡事故があったのは知っていたが、そこに、自分の兄が関わっていたかも知れないなどと、誰が想像し得よう?
 詳細はともかく、飲酒運転でハンドル操作を誤ったワゴン車が歩道に突っ込み、そこにいた女子中学生を撥ねたこと。運転していた男は自転車を避けようとしたためだと供述しているが、目撃者もいないため、引き続き警察は捜査を続けているらしいことは分かった。
 ざわりと背中が粟立ち、高谷は思わず、自分で自分を抱きしめるように両腕を掴んだ。
 いくらなんでも、孝司が事故に関わっていながら逃げるようなまねをするとは思えない。
 では、何故、あの少女の葬儀に?
 きっと、何か理由があったのだと、思いたかった。
 帰宅すると、セーターにジーンズというラフな格好に着替えた孝司が、夕飯の支度を始めていた。
「おでん、食べるだろ?」
 自分が見たのは、白昼夢だったのだろうかと疑いたくなるほど、孝司の様子は普段と変わらず、表情も穏やかだった。
「雨、大丈夫だった?」
「俺は焼香に行っただけだからね」
 それ以上、孝司はそれについては話さなかったし、高谷もどうにも切り出しかねてしまった。
 帰り際、喪服はもうクリーニング屋に出してあるから、一週間後に取りに行って欲しいと引き取り伝票を渡された。
 あの時、きちんと聞いておけば良かったと後悔するのは数日後の事だ。
 最後の冬の足掻きのような霙の降るその日、孝司はバイクでの事故で病院に運ばれ、意識の戻らぬまま、他界した。
 仕事の都合で葬儀を終えたその日に勤務地へ戻ってしまった父親と、悄然としたまま、何も手のつかない様子の母親の代わりに、大学への届けやアパートの解約などをこなしたのは高谷だった。
 1DKのアパートに残された遺品の中に、日記帳代わりの手帳があった。両親が離婚する前からそれは孝司の習慣だったから、あるに違いないと高谷には分かっていた。さほど重要なことは書かれていない。その日の天気や、夕飯の献立、部活の練習試合の結果、単に『眠い』という一言の日もある。
 その日については『何か理由があればよかった。ただ、恐ろしかった』と、異様に高い筆圧で書かれていた。それが何を意味するか、分かるのは高谷かあの少女くらいのものだろうが、その手帳を焼き捨てた。

「高谷、これ重てーよ」
 そう言いながら、クラスメイトの牧村が高谷に渡したのは、中学の卒業アルバム。あの少女と同じ中学を卒業したばかりの、彼の弟のものだ。
「お、さんきゅ」
「何に使うのさ?」
「んー、ちょっと人探し」
 そう、ただ一言、これで満足だろうと言う為に。
「何、目、付けたコでもいんの?」
「ばーか」
 牧村のノリに合わせて、高谷も殊更に軽く返した。
 真新しい卒業アルバムを捲る横から、「このコ可愛くねえ? この高校に入って来ねーかな」などという横槍を受けつつ、目的の少女を見つけた。
 折よく、廊下の方から、
「牧村、春休みに入る前に、貸したCD返せよ!」
 と声がした。
「わりぃ、明日持って来る!」
 のんきなやりとりが交わされている隙に、少女の名前の住所にさっと目を走らせ、高谷はアルバムを閉じた。
「なんだ、もういいのか? 持って帰ったって良いぜ?」
「こんなかにはいなかったみたいでさ。重いのに、悪かったな」
「別にいいけどさ」
 怪訝な顔をしながらも、それ以上、つっこんで聞いて来なかったのは、高谷の様子に何か感じるものがあったのかも知れないし、単に興味がすぐ他のクラスメイトとの会話に移ったからかも知れない。
 いずれにせよ、事故で兄を亡くしたばかりの友人を、それとなく気遣っていたのは確かな事には違いない。

 翌日は、朝から雨が降っていた。
 昼過ぎになっても止む様子はなく、暦を裏切る冷え込みで吐く息が白い。
 まるであの日を思い出させるようなその符合に、高谷は苦い笑みを零した。
 何か策を巡らすつもりはさらさらなく、住所を頼りに自宅を訪ねると、小太りで、いかにも主婦といった風情の中年女性が出てきた。
 ボタンの掛け違いのように、算段が狂ってしまったのはそこからだった。
「先週から帰って来ないのよ」
 そんなことは、これまでなかったんだけれど、と言う割には、さして心配そうでもない様子に、果たしてその女性が、少女の母親かどうか疑問を持ってしまったのだが、おそらく母親なのだろう。世間様の目もあるし、困っているのよね、とこぼすあたりが。
 なんとなく気が抜けて、高谷は霧雨の中を歩いていた。
 傘を差していても、細かな水滴がまとわりついて、じっとりと体中が濡れてくる。
 行き着いたのは、子供の頃、孝司とよく遊んだ雑木林だった。道路に面したところは木で作られた遊具のある公園になっていて、その奥は散策路になっている。
 ゆっくりと林の奥へと足を伸ばす。薄暗い中を進みながら、こんなに奥行きがあっただろうかと不思議に思いながら、足を止められなかった。
 いつの間にか、霧が流れていた。辺りは霞んで、木立の影がぼんやりと浮かび上がっている。
 やがて、開けた場所に出た。
 高谷は予め分かっていたような気がしていた。
 探していた少女が、冷たい雨を遮るものがないその場所で横たわっていることに。
 傍らに立っても、ぴくりとも動かない。
 虚ろな目は、ただ空を見上げている。
 少女の顔からはすっかり血の気が引いていた。涙が流れていなかったら、良く出来た人形に見えたかもしれない。
「何をしている」
 高谷が求める応えがなんであれ、少女は傍らに立つ人がいることにすら気付いた様子もない。
 いつからここで、こんな莫迦なことをしているのか。
 せめて、かなしみの色くらい浮かんでいたなら、事は単純に済んだのかも知れない。ただそれだけを高谷は受け取れば良かったのだから。
 忌々しさに舌打ちをすると、高谷は踵を返した。
 そのまま放っておけばいい。
 仮に重篤な状態になったとしても最悪の事態になってしまったとしても、良心が痛むとは思えなかった。
 友人の死を悼むのなら、部屋に籠ってひっそりと泣けばいい。もしくは誰かとそのかなしみを分かち合えば。
 何故、一人で、こんな場所で涙を流さなくてはならない?
 感じていたのは怒りではなかったが、それにとてもよく似ていて、多少、我を失っていたのかも知れない。自分のおかれた状況のおかしさに気付いたのは、踏みしめる地面が程良い堅さの土でなく、不意に不安定な砂地になってからのことだった。



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