04, 幸福は掬われ、零れる

 春のやわらかい光を弾きながら、はらはらと桜の花びらが降る。
 何故、気になったのだろう。
 花南は、隣を歩く織羽の横顔をちらりと見た。
 最近は、顔色が悪い日が多くて、病院で検査してもらった方がいいと何度も言っているのに、少し貧血気味なだけだとか、寝しなに読みかけた本が面白くて寝不足なだけだとか誤摩化されるのが、少し腹立たしい。
 そのせいか、これまで以上に、白い肌、黒くつややかな髪、そして動かない表情が、人形めいて見える。

 覚えがあったからだわ。

 それは、中学三年生の夏。県大会出場を掛けての、決勝戦。
 少しでも注意力が散漫になった途端カットされるボール。僅かな隙があればドリブルで切り込まれ、マークが甘くなれば放たれる三点シュート。後半に入ってもまるでスピードの落ちない体力と途切れることのない集中力。ディフェンスは鉄壁。彼女の一対一になって、その先に進めたのは、花南でさえも数えるほどもなかった。そのチームで、唯一花南が手強いと感じたのは、彼女だけだった。
 接戦の末、花南の中学は敗北した。織羽の所属していた中学はその後全国大会でベスト8に入ったが、それが何の慰めになろう? そして、高校に進学して後、まるでバスケットのことなど忘れたような彼女を目にして、花南は、憤りさえ感じたのだった。

「足を痛めてしまったから」

 事も無げに、織羽は言った。
 バスケットを続けることよりも、普通に高校生活を送り大学へ進学することを選択したからこそ、花南もまた県下でも有数の進学校に進学したわけだが、もともと、そんな必要もない、有名私立大学の付属中学に通っていた織羽が、県立の高校に入学したというのが花南には解せなかった。

「経済的な問題。あの学校、高いから」

 織羽の言うとおり、確かに入学金、授業料、寄付金と、やたらと金がかかることでも有名だった。
 私立からわざわざ公立高校へ来たからでも無いだろうが、少なくとも織羽は浮いていた。いや、正確にはまるで存在していないかのようだった。クラスでもいるかいないか分からない、友人一人さえおらず、ただ、所属したと言うだけに過ぎない。
 花南が手を差し伸べるまでは。
 彼女の父親が、海外へ単身赴任したばかりで、織羽が人知れず気落ちしていた時期だとは、さすがに花南も知らなかったが、そう言う時期に花南は頻繁に織羽に声を掛け、そして、着実に友人として彼女の中に入り込んでいた。

 ……解ってる。あたしは、彼女の寂しさにつけこんだ。

 もし、中学の時に見知っていなかったとしても、確実に花南は織羽を見付けていただろう。
 彼女と一緒にいることで、織羽は異端の影をひそめ、やがて溶け込んでゆく。
 そうして、二人は一緒にいるのが当たり前になる。

 ……だって、そうしたかったんだもの。

 初めて織羽と言葉を交わしたのは、本来立ち入り禁止にされている屋上でのことだ。
 何があったのか、特に何もなかったのかも知れない、その日。
 どうしてフェンスを越えて、向こう側へ行こうとしたのか、今となっては思い出せない。まるで導かれるように、夕暮れの暗い校舎で、天井へと続く階段を上った日の事など。
 自分の内側に固く固く仕舞い込んでいたはずのどうしようもない脆さを、露呈した相手だからだろうか。

「一緒に帰ろ」

 下校時刻を待っていたかのように降り出した雨は、さすがに傘無しでその中に一歩を踏み出すことはためらわれるほどの激しさだった。アスファルトに叩き付けられた雨粒は、勢いよく跳ね上がり、音さえもが雨に支配されていた。
 ……あの時の。
 昇降口で所在なく立っていた織羽に、花南は声を掛けた。
 彼女が傘を持っていたのは、その日の雨を予想してのことではなくて、単に持ち帰り忘れていただけのことなのだが。
 織羽はありがとうと言って、首を横に振った。
 あの時のことを覚えているか、確かめる機会は未だない。

「どうして? きっと、しばらく止まないよ?」
 そういう花南の言葉に、
「あなたが濡れてしまう」
 ぽつりと織羽は答えた。
「大丈夫。それに、途中までは通学路一緒でしょ。だったら、ちょっと遠回りになるかも知れないけど、うちに寄ってくれれば、傘を貸すわ。そのまま雨宿りしていっても良いし。こんなところで雨が止むの待ってたら、風邪引いちゃうよ」
 強引に花南は織羽と腕を組むと、雨の中に連れ出した。
 幸い、傘は折り畳みではなかったし、彼女たちは身長こそ平均を上回っていたものの、体積はその逆だったこともあって、織羽が心配するほどは濡れずに済んだ。それでもやがて轟きはじめた雷鳴に、花南は織羽を自宅に引き留めた。
「おかーさーん、タオル二枚取ってーっ!」
 玄関を開けるなり、そう叫ばれては、織羽も傘だけ借りてすぐにいとまを告げることは出来なかった。
 花南の母親は、いそいそとホットミルクの支度をし、濡れた制服を乾かすまでと、着替えを用意して、恐縮しきりの織羽をもてなした。
 実を言えば、花南は人懐こい所はあっても、さほど開けっぴろげなたちでもない。ろくに口も聞いたことのないような友人とも呼べない人間を、簡単に自宅に招いたことなど無かった。

 ずっと織羽のことが知りたかった。
 多分、あの時から。

 花南たちの中学が最後の試合を終えて、涙にむせぶその向こうで、更に上を目指していた織羽たちは地区予選での優勝に大げさな喜びを表すことなく、次の試合に向けて、緊張感を継続するためだろう、厳しい表情をした監督ともとに集まっていた。その中でも織羽は、他のメンバーたちと距離を置いていたように見えた。上気した顔で、互いの方をたたき合ったり、無言でも喜びを分かち合っているメンバーとは明らかに違う表情をしていた。
 こみ上げてきたものを流し終えて、我に返った花南は、まだ涙の止まらぬチームメイトの背中を撫でながら、終えた試合にはもう興味もないという顔にも見える織羽から、目が離せなかった。
 最初は、怒り。
 何故?
 どうして、そんなにも冷めているのかという。
 けれど、やがて怒りは潮が引くように醒めた。
 まるで部外者のように、その輪の一体感から外れた彼女の姿が、何故か悲しくなった。監督の話が終わって、解散となった後でさえも、織羽が誰か喜びを分かち合う様子を、花南はついに見ることは無かった。
 振り返れば、織羽は決して目立っていたわけではなかった。派手なプレイをする選手は他にもいたし、むしろ織羽はそういった選手のサポートをしていたに過ぎない。それでも、花南にとって、手強かったのは彼女一人だったし、彼女がいなければ、負けることはなかったと、今でも確信していた。
 その事を一番分かっていたのは、他ならぬチームメイトのハズなのに、何故あれほどまでに彼女に無関心でいられたのか……。
 織羽に対する『何故』を、花南はずっと抱え続けていたのだ。
 チームメイトとはうまくいっていなかったらしいことは、言葉の断片から知ることは出来たが、当時のことを織羽は語らない。
 自分以上に強固な鎧で身を固めて、決して弱みを見せようとしないのだ。
 でも。
 彼には、それをさらけ出しているのだろうか。
 ふ、と横目で織羽の顔を窺う。
 あのひとは、織羽のどこが好きなのだろう。
 見た目?
 静かで落ち着いてるとこ?
 花南は図書室のカウンターで並んでいる二人の姿を思い浮かべる。
 話したいのに何を話していいのか分からなくて、織羽のことを話しても、後になって思い返せば、あんなことを聞かされても、上条を困らせていただけだろう。会話がまともに成立し始めて、楽しそうな顔を花南にも向けるようになったのは最近のことだ。
 最初は、織羽の近くにいる人間という意識が、いつから変わり始めたのか明確には分からない。
 ただ今は、織羽に向けられるやわらかな熱を帯びた視線を、自分に向けて欲しいと望んでしまう。
 時には、胸が苦しくなるほどに。
 

「花南」
 思いの外強い力で腕を捕まれて、いつの間にか交差点に差し掛かったことを知った。
「あ……ごめん……」
 近くの国道のバイパスにされて、道幅が狭い割には、交通量の多いその交差点では事故が絶えない。
「珍しいね」
「何が?」
「花南が考え事してぼーっとしてるのが」
「うーん、ちょっと寝不足かな」
「最近顔色悪いし、大丈夫?」
「それは織羽の方でしょ。ちゃんと食べてる? なんだったら夕御飯、うちに来なよ。お母さんもそう言ってるし」
「ありがと。でも大丈夫。今週は一樹さん、帰ってくるから」
 海外出張が多く留守がちな一樹が、織羽の父親ではなく父親になる予定だった人だと知ったのは、割と最近のことだ。
 再婚の直前に事故で母親が亡くなり、近しい親戚がいなかった為に、一樹が法的な後見人になってくれたのだという。大変だと思う一方で、なんだかそれだけでドラマティックな人生のようで、不謹慎だと分かっているから決して口にしないけれども、ほんの少しだけ、憧れのようなものも感じてしまう。
「今度はいつまでいるの?」
「ゴールデンウィーク明けまではいるって」
「良かったね」
「うん」
 嬉しそうな織羽に、ちょっと意地悪な気持が浮かんだ。
「でも、ちょっと残念だね」
「何が?」
「せっかくのゴールデンウィークなのに、寺島君と出掛けたり出来なくない?」
「……どうしてそこに寺島君が出てくるの?」
「付き合ってるんだよね?」
 織羽の顔色がさっと青ざめたのを見て、鎌をかけたつもりが地雷を踏んだのかと花南は焦った。
 スーパーマーケットで、一緒に買い物をしているところを見かけただけではあるけれど、それは、二人の中を勘繰るには十分な材料だった。
 上条とは、挨拶を交わすだけでなく、昼休みや下校時といった時間に余裕のあるときなら立ち話をするくらいには、つまり友人といえるくらいには親しくなっている。
 今はまだ、そんなとこで満足しなくちゃと、受験を控える身としてはそんなことを思いながらも、受験が終わって、志望大学に合格していたら……、というささやかな想像を何度したことか。
 そんな初心さだから、織羽は黙っていたのかも知れないと思いながら、
「なっかなか話してくれないから水臭いなーって思ってたんだけどなー」
 殊更明るい調子で言っては見たものの、織羽の表情は微かに強張っていて、早々に花南は後悔していた。



 変化などうまく隠しおおせていたつもりの織羽は、花南の言葉に文字通り血の引く思いをしていた。
 あれ以来、花南は全くの無意識のうちに、織羽の精気を搾取している。故に、織羽は体調を崩しがちで、寺島に助けられることも度々だったが、花南がいる場ではそんな様子はおくびにも出していなかった。
 ……はずだった。
 思わぬ綻びが、あちらこちらにあるのだと諦めて、いっそ、付き合っているのだと嘘でも言ってしまった方がいいかもという思いが、頭の片隅を掠める。

 それは、春休みを前にした三月の半ば、いつものように過ごしていた土曜日の午後のことだった。
 あと十日もすれば、気の早い桜の蕾が綻び始めるだろう、そんな予感もする暖かな陽射しが窓越しに入っているおかげで、時に手がかじかみそうなほど冷える図書室も、過ごしやすい室温になっていた。
 いつもと違うのは、花南と寺島がいないことだ。
「お母さん、うるさいんだもん」
 愚痴とも言えぬささやかな不満を漏らして、花南は春休みに行われる予備校の集中講義に申し込みに行っている。織羽の訪問を笑顔で歓待し、おいしい夕飯や手作りの菓子を振る舞ってくれる花南の母は、実に教育熱心でもある。学年の上位一桁から落ちたことのない花南の成績であっても、心配らしかった。
「じーさんは強引なんだよ。俺は受験生だっつの」
 一方、寺島の方は祖父から何やら手伝いを言い渡されたらしい。こじんまりとした医院の待合室の配置換えをするのに、通いの中年女性看護士に力仕事をさせるのは忍びないとのことらしい。
 静かだった。
 相も変わらず利用者は片手の指で数えられる程度で、自習用の机には誰もいない。
 だからというわけではないが、織羽はまた資料室に籠っていた。
 いくら予算が少ないとはいっても、定期購入している雑誌は十冊余りあるし、毎月新刊購入もある。それらにラミネートカバーを付けるのも図書委員の仕事だ。カウンターで作業をしてもいのだが、すっかり片付けの終わった今となっては、広々とした作業台が確保出来た資料室でのほうが効率的だ。
 そろそろ雑誌のバックナンバーの処分しないといけないな。
 ぎゅうぎゅう詰めになっている棚を見て、そんなことを考える。
 基本的に、三年分を保存しておくことになっているのだが、面倒だからなのか単に気付いていないのか、既に五年分くらい溜まっているものもある。
 その中の一冊を手に取ると、六年前の科学雑誌だった。
 まだ自分が小学生の頃かと思いながら、ぱらぱらとページをめくっていると、背後でがたがたと音がした。
 長いことこの資料室がほったらかしにされていたのは、余程立て付けが悪いのか、引き戸でもないのに開けるのにコツがいる扉のせいもあるのだろう。
「何か手伝おうか」
 ひょいと上条が顔を覗かせる。
「ごめん、もう出る。少しさぼってた。やることは終わってたんだけど、こんなのがあったから」
 手にしていた雑誌のバックナンバーを見せると、興味を持ったのか上条も資料室の中に入ってきて、雑誌を覗き込んだ。
「へえ、こんなの保管してあるんだ……、うわ、これ俺らがまだ小学生の時だよな、この万博、尚人たちと一緒に行ったんだ」
 目玉は1000万個を超える星を天球に映し出すプラネタリウムだったことは織羽も覚えている。実際は、よほど澄んだ空のある田舎でもなければ、夜空に千の星を見ることも難しい。さぞ壮観だったことだろう。
 不意に当時を懐かしんで浮かべていた子供のような笑みを引っ込めると、
「……あのさ」
 言いかけて、上条はいったん言葉を止めた。
 真剣というより思い詰めた表情に、織羽はその先に嫌な予感を覚えた。
「ねえ」
 だから、先に封じてしまうことにしたのだ。
「この高校って、長閑でいいよね」
「え?」
「中学まで通ってた私立は、みんなすごいプライド高くて、きつかった。全然友達とか出来なくて誰にも助けてもらえなかったし。そのせいかな、どう親しくなればいいか全然分かんなくて、花南が声を掛けてくれたこと、ほんとに嬉しかった」
 ぱさりと雑誌を閉じて、上条の方に向き直る。
「だからね、花南には笑っていて欲しい。あの子のいい友達でいたい。
 ……言ってる意味、分かるよね?」
 射抜くような視線のまま織羽は告げた。




 あれから、ほんの少しだけ上条との距離が空いた。
 それは織羽の気のせいかも知れないが。
 表面上はなんら変わらなくとも、向けられる視線に何か含むものがあるように感じるのだ。そして、なんとなく、ではあるが話しかける対象を徐々に花南に移しているようでもある。
 幼く愚かで拙いやり方であったとしても、織羽は上手くやる術を知らない。

「あの、ごめん、詮索するつもりはなかったの、ただ、ほら、隠しごとっていうか……話してくれないのがちょっと寂しいなって……だって、織羽、上条君とあたしが話せるように資料室に籠ってたんだよね? 寺島君が話しかけて来るときも、うまくあしらってくれて、だから……」
 唇を噛んでばつ悪げに俯いていた花南が、いつになく歯切れの悪い口調で言うのを聞きながら、織羽は少し驚いていた。
 なんだ、ちゃんと現状把握、できていたのか。
 何も気が付いていません、と顔に貼ってあるわけはないにしろ、花南の天然さは、気付いていないフリと思えるようなわざとらしいものではなかったから、てっきり、自分以上に鈍いのかと織羽は思い込んでいたのだった。
「花南、花南、ちょっと待って、話聞いて」
 織羽は花南の制服の袖を引いた。
「あのね、多分、誤解があると思う。
 春休みあたりに、寺島君とスーパーで買い物してたのは、ほんとなんだけど、あの日、お医者帰りだったの」
「病院?」
 花南は驚いて顔を上げた。
「ちょっと体調が悪いのが続いていたから、思い切って近所のお医者さんに行ったのね。そしたら、そこ、寺島君のお祖父さんがやってるとこで、たまたま寺島君が来てて、それでお祖父さんが送って行けっていうから」
「やっとお医者さんいったんだ。で、どうだったの?」
 秋頃から、とみに顔色が悪い日が続いているのを指摘し、さんざん病院に行けと繰り返していた花南は、別のところに食いついてきた。
「いわゆる鉄欠乏性貧血気味だって。ダイエットなんかしてないで、きちんとした食事を採るようにって怒られた」
 ダイエットなんかしてないんだけどな、とぽつりと呟くと、
「当たり前でしょー! それ以上痩せてどーすんのよ!」
 笑わせるつもりが、怒りの方のスイッチを入れてしまったようだった。
「帰りがけに買い物するつもりだからって断ったんだけど、だったら荷物持ちしろって。で、買い物に付き合ってもらったの」
「へえ、寺島君のお祖父さんって、フェミニストなんだ」
「すごく丁寧だし、医院の雰囲気もよかったよ」
「もしかして、寺島君って、将来医者めざしてるのかな」
「さあ」
 理系のクラスにはいるが、将来についての話はしたことがなかった。
「そういえば、上条君は建築家目指してるんだって言ってた」
「建築家? 大変そうだね」
 以前聞いたことはあったが、さも初めて聞いたように織羽は返した。 
「なんか、そうやって目指す将来があるっていいね。あたしなんか、漠然と英語を生かした職業とかって思ってたけど、今って英語が出来て当たり前で、商社なんかだと中国語まで必要だとかって聞くじゃない? なんか、将来、どうなっちゃうんだろって……」
「花南、英語得意だもんね。通訳とか翻訳家とか、専門的な方向とかは?」
「ムリムリムリー! だって、英検で何級、TOEICで何点取ってます、って就職のときに有利な資格で利用したいだけなんだもん。それで食べてこうなんて」
 もげそうな勢いで花南は首を横に振った。
 頑張り次第では、国内最高峰の国立大学合格も夢ではないような頭の持ち主にしては、随分と悲観的だが、そう言いながらも、海外資本の商社あたりで秘書にでもなっていそうな気がする。
 きっと優秀で。
 でも、たまに大ポカしてそうだな。
 ふと想像して、織羽は思わず口許に笑みを浮かべてしまった。
 分かれ道の三叉路で、
「あのさー、ほんとに遠慮しないで夕飯、食べにきて。お母さんも、たまに連れてらっしゃいって言ってるから。ほんとだよ?」
「ありがと。じゃあ、今度、お邪魔させてもらうね」
「きっとだよ!」
 手を振って、ほんの少し、数秒にも満たない時間、織羽は花南の背を見送る。
 それもいつものこと。
 違うのは、強い疲労感に苛まれていることだ。
 嘘は言っていない。
 ただ、黙っていることがあるだけで。
 それがこれほどに消耗することだと、織羽は知らなかったのだった。



 穏やかに季節は移ろい、梅雨明けがやってきた。
 ほぼ同時に学校は夏休みに、同時に受験生にとっては勝負を左右する重要な時期に入った。
 織羽の体調は目に見えて悪くなっていった。
 高校で行われる夏期講習も度々休むほどだったが、それでも無理を押して通ったのは、花南と会う為だ。
 同族の精という最上の味を覚えてしまった花南は、もう他者からの精を受け付けていない。
 自分の血に流れる特異性を知っていたなら、なんらかの対処法もあっただろう。けれど、織羽はそれを知らせようとしなかった。
 何も知らぬまま一生を送る者もいるのだ。
 吸血鬼のように血を啜るわけではないのだから、ほんの僅かな接触、日常の当たり前のスキンシップの中で、無意識に精を補給することなど造作もない。
「鳴海の家に連絡した方が良くないか?」
 夏期休暇をとって帰国していた一樹は、お盆の間、ほとんど寝込んでいた織羽に何度もそうい言った。
 彼は、彼女の特異性に関わる血の源である鳴海家とは無縁の人間だ。
 織羽の母、篤子が亡くなった時、鳴海本家から織羽の後見人となり養育するという話はあった。それを固辞したのは他ならぬ一樹だった。
 篤子に続いて織羽まで手許から失ってしまうことなど、耐え難いことだったからだ。
 一樹の意志に折れた鳴海家の人間は、もし何かあれば必ず連絡をするようにと約束させた。また定期的に電話があり、年に一度、会いに来る。本来なら、織羽の方から行くべきなのかも知れないが、仰々しいことは本家当主が嫌うとのことで、ただ、健やかに育っているならそれでいいと、今に至っているのだった。
 が、もう健やかとはとても言える状態ではない。
「大丈夫、ほんとに、ただの夏バテだから」
「本当に?」
 居間のソファで織羽を抱き込みながら、脅すような口調で一樹が問い詰めても、織羽はただの夏バテだと言い張った。

 昼間は三十五度を超え、夕方になっても風はぐずぐずと熱を帯びている。
 それでも、窓を開け放して通してしまえば、エアコンの快適さとは別の心地良さがあった。
 居心地悪そうではあるが、馴染んだ様子で寺島はソファに身体を沈めていた。
 ガラステーブルに供された紅茶はとうに冷えている。
 夏場でも熱いお茶を出すというのは、どうやらこの家のしきたりみたいなものらしかった。
「わざわざ来てもらったのに、待たせて悪いね」
 急に仕事がらみの電話が掛かってきたせいで、彼らがすべき話は、挨拶をしたところで中断されていた。
「ああ、麦茶でも出そうか」
「結構です。……織羽は?」
「まだ眠ってるよ。最近は眠りも浅いようでね」
 一樹はため息を付いた。
「いろいろと織羽が世話になっているようで、申し訳ない」
「いえ、俺は、何も」
 織羽と寺島が、感情的にはどうあれ、そういう関係になっていることは一樹も知っている。
 冗談のようなタイミングだが、帰宅して玄関を開けた一樹と織羽の部屋から出て来た寺島がばったりと顔を合わせてしまったのだ。互いにばつの悪いことこの上なく、その話を蒸し返すことはない。
「あの子から、体質のことは何か聞いているかな」
「一応。他人との接触が必要だってことは」
「そうか……、なら、話は早い。どうか、織羽のことを頼みます」
 膝に手を付くと、深々と一樹は頭を下げた。
「あの子の今の状態を考えれば、側にいてやるべきなのは分かっているが、仕事も今が正念場で、放り出すわけにはいかないんだ。陳腐な言い訳だが……」
「あなたが会社を辞めたりしたら、織羽が気に病みますよ。そういう奴でしょう?」
「……そうだね。ちゃんとあの子のことをわかってくれているなら安心だ。……そんなことを言える立場じゃないか」
 なんとも自嘲めいた苦笑で、一樹はその端正な顔を歪ませた。
「織羽には、父方の親戚から養育するという話はあったんだよ。それを僕が強引に引き取ったんだ。なのにこんな体たらくとはね……。本来、頭を下げて頼むべきは、受験で大変な君にではなく、そっちの親戚なんだが、織羽がどうして嫌だと言うんだ。
 何か聞いていないだろうか」
 顔を上げた一樹が途方に暮れているのは、その憔悴した声音からも手に取るように分かることだった。
「いえ……」
 すぐに花南のことに思い当たったが、尚人は何故か一樹にそのことを話そうとは思わなかった。
 織羽の体調がここまで崩れているのは、花南に精気を根こそぎ奪われるようになっているからだと、彼は知らないのだろう。
 最近は、織羽と花南が一緒にいるところを見るのすら、尚人には苦痛だ。
 あの時のような光景を目にすることはないが、淡い光が繋がって花南の方へと流れて行くのを感じてしまうからだ。
 この頃目に見えて体調が悪いのは、花南に奪われる分を補うのに、追い付いてはいないのだろう。織羽が望めば幾らでも相手になるつもりではある。尚人も精を奪われればある程度の疲労は感じるが、食事と睡眠をたっぷり取れば解消される。ただ、ちょうどそういう盛りの時期でもあるとなると、堂々と言うには羞恥心が勝るのだが。
「本当に済まない。何かあれば、連絡を……、それと、もし、本当にどうしようもなくなったら、ここに連絡を入れてもらえないか。僕よりは早く駆けつけてくれるはずだ」
 一樹は二枚の名刺を尚人に差し出した。
 一枚は一樹のもので、個人の携帯電話の番号も手書きで入っていた。
 もう一枚は、肩書きは弁護士のものだった。
「これは、鳴海本家の人で、織羽のこともよく知ってくれているよ。ちょっと見た目は厳ついけれど、良い人なんだ」
「分かりました。一応、もらっときます。使うことがないといいんですけど」
「そうだね」
 ふつりと会話が途切れたのを見越したように、織羽の部屋のドアが開いた。
「……起こしてくれればいいのに。もう夕方じゃない」
 開口一番、膨れっ面で文句を言った織羽は、まだ眠そうで気怠げではあったが、多少は回復したのか顔色も悪くなかった。
 何かに気付いたのか、不意に織羽は開け放たれた窓の方を振り返ると、
「あれ、夕立が来そう」
 と呟いた。
 言われてみれば、見事に赤く染まった夕焼け空に、入道雲が勢いを増して大きくなっていた。
 先ほどまで温かった風も冷たくなっている。
 びゅうと風が鳴ったかと思うと、あっという間に灰色の雲は空を覆い尽くし、大粒の雨を落とし始めた。
 暇を告げるタイミングを失った尚人を構うことなく、織羽は台所で夕飯の仕度を始めた。下ごしらえはもうしてあったらしく、程なくして呼ばれたダイニングテーブルの上には、カセットコンロと、ぐつぐつと肉や野菜、白滝が煮え始めたすき焼き鍋が乗っていた。
「夏に鍋ってのも変なんだけどねー」
「すまないね、僕がなかなか向こうで食べられないものをリクエストしてるものだから」
 一樹も悪びれることなくそう言う。
 客に振る舞うに相応しい上等な霜降り肉が、明らかに二人分以上あるあたり、確信犯らしかった。
「いえ、有り難くご馳走になります」
 もう窓は閉められて、エアコンが稼働していたから部屋は十分に涼しい。
 ナスやオクラが入っているあたりが、夏バージョンと言ったところだろうか。
 最近、家族で鍋をつついた覚えがないことに尚人は気付いた。
 仕事で帰宅の遅い父親と一緒に夕食の席につくのは、せいぜい祝日や週末くらいのものだが、尚人がさっさと食べて先に席を立つようになってからだから、母も何がしか感じるところがあるのだろうと思う。
 堅実な人生を、例えば公務員だとか、一流大学に入って名の通った会社に就職するだとかをあからさまに望む父親と、そういうのを押し付けられるのだけはごめんだと拒絶しているうちに、本末転倒なことに自分の将来を見失ってしまっている現状は、尚人自身、辛い。
 どんな将来を選択するにせよ、第一に自分の意志で決めたいのだ。能力の足りなさ運のなさで、それが叶わぬこともあるだろうが、他人の意志に強制されるより遥かに納得出来る。
「暑いさなかに鍋も悪くないでしょ」
 いつになく寛いだ顔で、織羽が微笑っている。
「そうだな、さすがにおでんだったら引いたかも」
「あれは身体が芯からあったまるもんね」
 そんな他愛無い話をしているうちに、雨はすっかり上がり、尚人が帰る頃には晴れ渡った空に夏の星座が昇っていた。

 その年は、九月に入るとまるでスイッチが切り替わったかのように、厳しい残暑が終わりを告げた。
 まだ真夏日になる日はあっても、からりとした空気は心地良く、夕方になれば風も涼やかになり、下旬に行われる学校祭の準備も捗ろうというものだった。
 もっとも、三年生はほとんどやることはない。
 文化祭の展示や体育祭の応援合戦は、一年から三年までの縦割りで団が作られ、二年生主導で動くからだ。
「……なんか、雰囲気、良くね?」
 尚人が織羽の腕を肘でつつく。
「……予備校の集中講義だとかで一緒になったんだって」
「そういやそんなこと言ってたな……」
 帰りの昇降口で、随分と親しげに話す花南と上条に、微笑ましいものを感じつつ、織羽と寺島は、壁にもたれて二人の会話が終わるのを待っていた。
「最近、体調はどう?」
「一樹さんがいてくれたから。でも、今度はお正月まで帰って来れないって」
「……いつでも、頼れ」
「……ありがと」
 互いの顔を見ることなく、ぼつぼつと言葉を交わす二人は、傍目にはただ黙ってそこに並んでいるようにしか見えなかっただろう。
「ごめーん、おまたせー」
 やがて、花南が織羽の方へ駆けよってきた。
「ね、駅前のドーナツ屋さん、皆で行かない?」
 そう言ってひらひらと見せたのは、今日までの割引サービス券だった。
 安くて美味しいことで定評のある店のものだ。
「いいね、あそこのチョコレートクランチ好きなんだ」
「大納言もいけるよな」
「あたしもそれ好き。今日、あるといいね」
 一日に店頭に並ぶのは十種類ほどだが、半分ほどは日替わりで変わる為、お気に入りの一品が定番商品でないと、必ず食べられるとは限らなかったりする。そこが人気のひとつかもしれない。

 運良くそれぞれにお気に入りの一品で、疲れた脳をすっかり癒した四人が店を出たときには、橙色から菫色のグラデーションが西の空を彩っていた。
「うーん、やっぱり新作のあれ、買って帰る。ちょっと待ってて!」
 店から出て、ほんの数歩のところで、何やら思い詰めた顔をしていた花南がくるりと踵を返した。
「新作のあれって……」
「白玉きな粉ドーナツじゃない? 散々悩んでたから」
「ああ、この世の終わりみたいな顔してるから何かと思ったら、それか」
 上条がほっとしたように息を吐いた。
 部活動を引退してしまうと、大抵悩まされるのが、体重増加の件だ。花南も例外ではないようで、ドーナツひとつに随分と煩悶していたさまは、事情を知っていると滑稽なほどだったが、本人は真剣そのものだった。
 家族の分も買ってきたらしく、少し大きめの袋を抱えて戻ってきた花南を迎えて、四人は帰路に付いた。
 駅前ということもあって、行き交う人が多い中、
「これで、満足?」
 不意に肩越しに上条の声がした。
「……え?」
 振り返ったときには、ほんの僅かに彼の微笑の残像が見えただけだった。
 程なく着いた交差点で、最初に織羽ひとりがそこで別れた。
「ばいばい、また明日ね!」
 手を振る花南の笑みに、暗い影を見たのは、織羽の気のせいだったのかどうかは分からない。

2011.01.25


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