03, 何も知らない罪を

 いつもの、土曜日の午後。
 二学期の中間考査を控え、部活動も一切中止となっていることもあって、図書室はもちろん、校内もやたらと静かだった。
 秋分を過ぎてもずるずると続いていた狂気じみた熱さも去り、カーテンを揺らす風はさらりと肌に心地良い。
 さすが学年総合順位を一桁から落ちたことのない成績を保っているだけあると言うべきか、花南は、無駄口一つ叩かず、黙々と勉強に励んでいる。実のところ彼女は少しばかり機嫌を損ねていた。それを見破られまいとして、仏頂面を貼り付けているのだが、逆効果だと言うことには全く気が付いていないようだった。

「あれ、織羽一人なの?」
 部活動を引退してからは、自宅だと妹がうるさいからと言う理由を付けて、土曜日の午後はほぼ毎週図書室で受験勉強にいそしむようになった花南だが、それはあくまで半分、もしくは表向きの理由だ。
「上条君、今日は親戚の法事があるからって帰ったよ。あの人も律儀だよね、わざわざ早退する前に教室まで来てそう言ってから帰るんだから」
「そう。ふーん、法事なんだ」
 興味もなさそうな素振りを今更しなくても、とうに分かっているんだけれど。
 そのぎこちなさが可笑しくて、からかってみたい衝動には駆られるけれども、織羽は何一つ気が付いていないふりをする。
 一端始めてしまうと、凄まじいと形容したくなるほどの集中力を発揮する花南が、やたらとため息をついている所を見ると、ほとんど集中出来ていないのだろう。それでも、いつもの通りの振りを続ける辺りが、女の子らしい意地の張り方だなと思い、むしろ子供っぽいのか、と思い直す。
 
 図書室の利用者は少ない。場所もひっそりと校舎の片隅にあり、蔵書の貧弱さに加えて、六人掛けの大きな机が六つ、空調設備もないともなれば、近くに設備の整った広い自習室を備える市立図書館に流れるのも当たり前の話だ。
 徐々に空を覆い始めた雲が斑な影を地に落とし、時折聞こえる強くなってきた風の電線を鳴らす音が、ひやりとした空気を予感させた。
 カウンターには織羽、自習用の机には花南ひとり。
 その後、他の利用者が訪れることはなく、ゆっくりと静かな時間は過ぎ、壁の時計を見れば、三時三分前になっていた。
 土曜日の図書室利用時間はは三時までだ。
 そろそろ帰る支度をしてもいいだろうと織羽は立ち上がった
 窓の鍵を点検して回る織羽の姿を、花南がそっと伺っていることには、気が付いていた。
 なんだろう?
 振り向くのが怖くなるような視線を向けられたことなど、ついぞ無いのに。
 知らず、身体が震えていた。
 呼吸をするのが苦しいほど緊張していた。息を吸うことを意識してしまうと、うまくいかない。震えの止まらない指先をぎゅっと握り込んで、織羽は振り向きカウンターへ戻ろうとした。
「もう三時だし、帰ろ」
 花南の方を見ないで、織羽は声を掛けた。
 何か恐ろしい者がそこにいるようで、振り向くことが出来なかったのだ。
 がたん。
 けれど椅子が倒れる音に、反射的に振り返った。
 ただ唐突に花南は立ち上がったようだった。
「花南?」
 虚ろな瞳が織羽を見ていた。



 腕時計に目をやると、午後三時ジャスト。それでもまだ図書委員はいるだろう。
 尚人は返却期限ぎりぎりの本を脇に抱えて階段を駆け上がった。いったん帰宅してから、返却を忘れていた本があることに気付いて、わざわざ制服に着替えて再度登校するあたり、律儀と言えば律儀なのだが、恐らく花南がいるであろうことを思えば大したことでもなかったし、ヘタに期限を破ると、織羽に何を言われるか分からないというのも大きい。
 花南の最も近くにいる人間だけに、何かと衝突しつつもあまり悪い印象を植え付けたくはない。それに、同じ場所にいると、まるで小姑のような織羽に追い払われるが、本の理由で図書室を訪れることに、文句を言われたことはなかった。
 ドアノブに伸ばした手を一瞬引っ込めたのは、中から何かが倒れる音が下からだ。
 そんな粗雑な動きを花南や織羽がするとも思えず、怪訝に思いながら図書室に入った尚人は反射的に後ろ手にドアを閉めた。

 それは、たとえるなら、それは光で出来た獣だった。
 獰猛に燃えさかる炎のように、凶暴な。
 花南の全身から立ち昇るそれは、咆哮を上げるが如くに大きく口を開け、凶悪な牙を織羽に向ける。
 立ち尽くす織羽もまた、光に包まれていた。それは花南のものと同種のようでいて、水のように静穏な光だった。
 その獣は、ためらうことなく織羽の光に襲いかかった。
 喰ってる……?
 尚人の視覚では、竦んで動けなくなった子鹿の喉元に食らい付き、いましも肉を引き裂こうとしている白虎がそこにいた。その顎に更に力が入り、吹き出した血に口元が赤く染められてゆく。
 血腥い匂いがしているような気さえするほどに、それは生々しい光景だった。
 ついに肉を引き裂き食いちぎると、満足げに咀嚼し、再び牙を立てた。
 花南と織羽のほんの数歩の間で起きているそれが、果たして夢幻なのか、現実なのか、ただ、尚人はドアを押さえるようにもたれて、知らず震えていた足で身体を支えていた。
 織羽を包む光が、淡く揺らめいた。
 それを貫いて、救いを求めるのではなく、まるで彼女を救おうと、抱きしめようとするかのように、彼女の腕が花南に向かって差し伸べられた。
 ふらりと足が前に踏み出され、そしてそれは半歩も叶わぬまま、織羽の身体は崩れ落ちた。花南の光も消え、力無くその場にしゃがみ込んだのは、ほぼ同時のことだった。
 その瞳にはいつもの溢れる生気はなく、緩んだ口元は呆けたように開いて、魂を抜かれたかのような有様のまま、ぴくりとも動かない。
 ち、ち、ち、ち……。
 秒を刻む時計の微かな音をどれほど数えたころだろうか。まだ床に倒れたままの織羽が両肘をついて、僅かに身体を起こそうとしているのに気が付いて、尚人もまた我に返った。
 肘を付き、ようよう半身を起こした織羽は、花南の方へ這って近付くと、今度こそ、彼女を抱きしめ、耳元で何かを囁いた。
 虚ろな瞳に、一瞬光が宿ったかどうか。
 見開かれた目は、すぐに瞼に閉ざされ、ぐったりとした身体は無防備に織羽に預けられた。
「……一体……何が……?」
 呆然としている尚人を、織羽の視線が射抜く。
 いつからそこに尚人がいたことに気付いていたのか、慌てるでも戸惑うでもなく、存外にしっかりとした意志を秘めたそれに、彼女はこの事態を正しく理解しているのだと尚人は悟った。
「花南を保健室に連れて行ってくれる? 貧血を起こしたみたいなの」
「貧血って、おい、冗談だろ」
「見てよ、この青ざめた顔。根を詰めて勉強のしすぎなんじゃないかな。保健室で少し休ませて、それから自宅までは私が送って行くから」
 今更、何を誤摩化そうとしているのか。
「あんたの方がよっぽど青い顔してるよ」
 こんな状況ですら、素直に頼ろうとしないことに、尚人は苛立つ。
「私は別になんでもない。花南をお願い」
 それでも、声の裡に懇願の色を感じて、言われるままに、尚人は花南を抱き上げた。思っていたよりも重いのは、いくら華奢に見えても、バスケットを通じて鍛えた筋肉故だろうなどと思う辺りが変に理性的だと、実のところ非常に思考を混乱させながら。
「……後で、話聞かせてもらうからな」
 言い捨てて、尚人は花南を連れて行った。

 それを見送って、ほとんど受け身もなく織羽は再び床に倒れ込んだ。打った肩の痛みに顔を歪む。
 少なくとも、花南より先に回復出来るとは思っていなかったが、それでも、花南をフォロー出来るのは自分しかいないという事実は、なんとか気力を奮い立たせる力になるだろうと高を括っていた。
 冷たい床に伏してしまうと、それがどれだけ甘い考えだったか思い知らされる。
 意識を手放してしまいそうだ。
 それだけは避けたいのに。
 床がまるで泥のように感じられた。そのまま沈んで行きそうな奇妙な感覚の中、指一本動かす事さえ億劫になっていた。
 せめて、彼がここに戻ってくる前に立ち上がって……
 そんなことを考えるほどの間もなく、彼女の意識は暗い淵へ落ちていった。



 暖かい。
 始めに感じたのは、心地よさだった。
 一樹さんが帰ってきた……?
 無意識に手が誰かを捜した。
 織羽にとって、頼ることの出来る唯一の人間が一樹だ。
 先週から海外に出張中の彼が、ここにいるはずはない。
 けれど。
 伸ばした手のその先にはなにもない。それは予想の範疇と言うよりも確信だった。
 が、その手を緩く掴む温かさに、織羽は混乱した。
 帰ってきた?
 自分がどこにいるのか、ついさっきまでどういう状態にいたのか、まるで忘れて、その温もりを離さないように握る手に力を込めた。幸せな朝がまた訪れたのだと夢を見ていた。
 それでも浅い眠りから目覚めるのに大した時間は掛からなかった。
 ゆっくりと開けた目に映った天井はまるで見知らぬ物だった。そっけない、白いだけの天井。
「気分は?」
 明らかに、一樹の物とは違う声に、幸福な夢は瞬時に覚めた。自分が握っている手が、求めている人のそれではない。力が抜けた。
「ここ、は?」
「祖父んとこ。って、おい、まだ寝てろって」
 身を起こそうとした肩を尚人に押さえられなくても、おそらくは起きあがることは出来なかっただろう。それほど倦怠感は酷く、身体が重かった。
「花南はどうしたの」
「保健室に連れて行って、すぐに先生に家に電話してもらった。そしたら母親かな、迎えに来て帰ったよ」
「何か……言ってた?」
「別に何も。迎えが来るまでにカバンとか荷物は保健室に届けておいたし、萩野さんも帰ろうとして貧血起こしたみたいだって自分で言ってたし」
「そう」
「で、あんたまで保健室に連れてくと、俺がなんか言われそうだったから、じい様に迎えに来てもらってここに連れてきた」
「じい様……?」
「ああ。医者なんだ。萩野さんより、あんたの方がよっぽど具合悪そうだったし、勝手に携帯電話見させてもらったけど、誰が家族だか分かんなかったから掛けられなかったし。
 納得した?」
 納得したと言うよりは、更に警戒心を深めたのか織羽は眉間にしわを寄せた。
「……何を見たの。何を聞きたいの」
「見たのは、あんたが萩野さんに喰われそうになっていた所。あんたから出ていた光が、萩野さんから出てきた光に、かな。それが、だんだん虎に喰われる鹿みたいに見えてた。それが一体なんなのか訳がわからん。でもあんたは分かっているようだから、どういうことか聞きたい」
 簡易ベットの脇に置かれた丸椅子に腰掛けている尚人は、ずっとそればかりを考えて付き添っていたのだろう。よどみない返答だった。
「手を離して」
「ああ、悪い。って先にあんたが……まあいいか」
「……お願いがあるんだけれど」
「何? 水でも飲みたい?」
 すぐ脇のテーブルに用意されていたベットボトルに尚人は手を伸ばした。
「水も飲みたいんだけれど、その前に……」
 言葉を濁らせ、横を向いて早口に呟かれた言葉に、尚人は沈黙した。
「それが、一番手っ取り早いから」
 色事とはまるで無縁な申し出らしいことに、
「……分かった」
 とは言ったものの、織羽の上にかがみ込んだのはしばらく逡巡した後だった。
 唇が触れる手前で戸惑っていると、冷たい手が彼の首筋に触れて引き寄せられた。
 体温が感じられないせいで、まるで人形と触れ合っているような錯覚を覚えたが、乾いた感触が彼の唇を慣れた動作で軽く開かせ、誘うように舌が入ってきて、ようやく生身の人間が相手なのだという実感がせり上がってきた。
 思えば不思議な事だった。好きな女でもない。けれど、これまでの相手にありがちな恥じらいや不慣れさを演出するような無駄のない分、絡ませあった舌の感触は剥き出しの快感を呼び起こし、やがては自分から求めて織羽の唇を貪った。
 何かが自分の中から彼女へと流れ込んでゆくのが分かる。それは一方的なものに感じられないのは、そのせいなのかもしれなかった。
 名残惜しささえ感じながら、ゆっくりと離した唇を繋ぐ細い銀糸にも似た唾液が切れて、ようやく我に返った。
 途端、くらりと目の前が暗くなる。
 貧血?
 興奮しすぎたのだろうかと、なにやら恥ずかしい気分になってきた所に、
「ありがとう」
 思いも寄らぬ言葉が掛けられた。
「これでもう大丈夫だと思う」
 半身を起こした織羽の顔色はいくらか血色を取り戻していた。楽に身体を起こしていられるように、どこからかクッションを二つばかり持ってきた尚人は、手慣れた様子で織羽の背にあてがった。
 ペットボトルのミネラルウォーターを満たしたグラスを手渡されると、余程喉が渇いていたのか、織羽は一気に喉を鳴らして飲み干した。
「今、あなたの生命力を少しもらったの。さっき、すっかり花南に喰われてしまったから」
 血の気が引くような感覚の後、指先が冷えていることは感じていた。
 そして同時に、さっき自分が見た光景が意味する所を理解してもいた。
「貧血を起こすほどももらってないから大丈夫。それに、ほとんど肉体的なダメージはないはず」
 手のひらを眺めていたことに気が付いたのか、織羽は言い添えた。
「あまり害のない吸血鬼みたいなものだと思ってもらえると有り難いな。そういう血筋なの。花南は多分、この血筋の傍流なんだと思う。普通はこの特質が出るはずもないような。
 さっき、あなたが見たというのは、肉体的接触を介することなしで、花南が私の生命力を奪い取ったところ。それを視覚的に感じることが出来る理由までは分からない」
「なんか、分かるような分からないような……」
「でも、実際に体験してみると、ヘタな説明より納得出来るでしょう?」
 あの、血の気が引くような、引きずり込まれそうな感覚。確かにそれを言葉で説明されたとしても、想像すら叶わない。
 織羽の自嘲めいた言葉に、尚人は無言で頷くほかなかった。
 スリッパの音が近付いてきて、程なくノックの音がした。
「気分はどうですか」
 入ってきたのは、すっかり白くなっているが、歳の割に豊かな髪はきちんと整えられ、背筋の伸びた姿勢の良い老人だった。すっかり柔和な表情をしているが、若かりし頃は、もっと気性の激しい性格だったのではないかと思わせる鋭さが潜んでいるようで、どことなく人を緊張させる空気も持っていた。
「だいぶよくなりました」
「ちゃんと睡眠と食事は摂っていますか。貧血気味のようですが」
「普段はきちんと食べているんですけど、ちょっとここ数日睡眠は足りなかったかも知れません。今日はしっかり眠ります」
「もし具合が悪くなったりしたら、遠慮無く連絡を下さい。夜中でも構いませんから」
「有難う御座います」
「動けますか?」
「はい。もう、大丈夫です」
 慌ててベッドから降りようとする織羽を彼はゆっくりでいいですよと留めた。
「じゃあ、自宅まで送りましょう」
「いえ、そこまでご迷惑は掛けられません。もうすっかり気分もよくなりましたし」
 多分このままだと、しばらくこの掛け合いが続いてしまうことは容易に想像がついて、尚人はすくっと立ち上がった。
「じゃあ、俺が送ってくよ」
 何か言いたげに間を置いた後、
「送り狼にならないように」
「あのな、じー様、俺にも好みってのがあるの」
「綺麗な娘さんじゃないか」
「はいはい、じー様の好みなんだね、永瀬は」
「バカなこと言うもんじゃない、まったく。お前もちゃんと自宅に帰るんだぞ」
「送っていったら、そのまま帰るよ。大丈夫、おやじとはうまくやってるから」
 羨ましいほどの軽妙なやりとりではあったが、傍目には恵まれているように見えても、誰しも事情は抱えているものらしいと、織羽は少しばかり、尚人の能天気にしか見えない態度の見方を変えてもいいような気持になっていた。
 


 自転車の後ろに乗るように促され、織羽はおとなしく荷台に横乗りした。いつもであれば、ぐずぐずと文句のひとつでも口にしたかもしれないが、そんな余力は欠片もない。
「ちゃんとつかまってろよ」
 もう大丈夫とは言ったものの、身体のだるさは取れておらず、遠慮がちに尚人の腰に手を回してつかまっていたのが、次第に背中に頭を預けていた。他人の体温を感じながら目を閉じているだけで、ほっとするような心地がする。
「学区の境目なんだな、あんたの家」
「よく分からない。公立の学校じゃなかったから」
「私立中学から公立の高校に来たわけ?」
「そう。通学に一時間近く掛かるのもうんざりだったし、あのままエスカレーターで大学って言うのもなんだかね」
「楽でいいじゃん。どこだったんだよ」
「紅葉学園」
「うわ、一流どころじゃん。そこから県立の野代高って変わってるよ、あんた」
「高い学費を払ってまで通いたい学校じゃなくなったから」
「そういうもん?」
「そういうもん」
 深刻な感じではなかったが、扶養されている立場でそれを学費を気にするというのは、何か問題を抱えているのだろうと尚人は感じて、それ以上は言葉を継がなかった。
 地図で調べたとおり、大通りを一つ越えて公園の脇を過ぎてすぐのところに、彼女の住むマンションは建っていた。
「ここだろ」
「ありがとう」
 学費を気にしなければならないような人間が住むとは思えない、瀟洒なエントランスと、きちんと手入れされた前庭には、夕闇にも見て取れる鮮やかな花々が咲いている。
 荷台から降りるなり、織羽は身体をふらつかせた。
「おい、大丈夫かよ」
 慌てて自転車を留めると、尚人は織羽の身体を支えた。
「危なっかしいから部屋まで送ってく」
 いつもなら憎まれ口の一つや二つ叩くのだろうが、既にその気力すらないらしかった。半ば抱えられるようにして部屋までたどり着いたときには、既に自力では立っているのがやっとというくらいだった。
「部屋の鍵は?」
 制服のポケットから出すと言うだけの動作でさえもつらそうだった。
「中、入るぞ」
 靴を脱がせると、織羽を抱え上げた。抵抗のひとつもないことに、どれほど我慢していたのかと、怒りを通り越して呆れてしまう。
「おじゃましまーす……」
 織羽の家族に連絡を入れようと何度電話しても誰も出なかったから、不在なのは分かってはいたが、そのがらんとした空気は昨日今日に始まったことではないだろう事を尚人は感じ取っていた。
 廊下の奥が居間になっており、そこのソファに織羽を降ろした。
「おい、大丈夫か? 永瀬?」
「大丈夫、ありがとう……」
「全然大丈夫に見えないんだけどさ、別にじー様のところじゃなくてもいいから、病院に行った方がいいんじゃないか?」
「……眠って、休めば回復すると思うから……」
「取りあえず帰るけど、その前に携帯貸せ」
 赤外線通信でさっさと番号の登録した。
「何かあったら連絡しろよ、何時でも構わないから。俺のとこでも、じー様とこでも」
 素直に連絡を寄越すとは到底思えなかったが、念を押さずにはいられなかった。
「……ありがと」
「玄関の鍵、締めろよ」
 家族の誰かが早く帰ってくればいいんだが。
 そう思いながら尚人はマンションを後にした。



 翌日、昼近くになって織羽の携帯電話に掛けてみたものの、出なかった。
 もしかしたら、病院に行っているのかもしれないし、一晩眠ったらけろっとしていて、朝から出かけているのかも知れない。殊更に心配する筋合いもないのだが、午後になっても尚人は落ち着かない気分のまま、自室に閉じこもっていた。
 出掛ける気にはなれなかったし、かといって居間なぞにのこのこ顔を出して、ヘタに家族に、特に父親と顔を合わせれば、険悪な言葉を交わしかねない。そうしたいわけでは無いのだが、相手がそう仕向けるのをうまく交わせるだけの余裕が未だ持てない。
 午後の光が黄みを帯び始めた頃になると、落ち付かなさは不安になり、胸騒ぎになった。仮に出掛けているのだとしても、まるっと半日以上、携帯電話を見もしないというのは考え難く、いくら険悪な相手からの着信だからといって、昨日のことを思えば、織羽の性格上、折り返して連絡を入れてくるような気がする。
 台所で夕飯の支度をしていた母親に「出かけてくる」と言い残して、自転車をとばした。
 途中のコンビニエンスストアでスポーツドリンクと栄養機能食品をいくつか買って、マンションに着いたのは家を出て二十分足らずのことだったのだが、妙に時間が掛かったような気がした。
 エントランスの入り口で呼び出しをしたものの、応答は無く、昨日聞いた暗証番号を打ち込んだ。
 8階の一番東の部屋。呼び鈴を押しても返答はない。こわごわドアノブに手を掛けると。
 回った。
 施錠されていないのだ。いくらエントランスがオートロックだとはいえ、不用心過ぎる。
「こんにちはー。永瀬……さん、いますか?」
 昨日帰ったときと、何ら変わらない様子に、尚人は意を決して中に入った。もし、誰かがいたとしても、昨日の織羽の様子を考えれば、心配してのことだと納得してもらえるだろう。
「永瀬?」
 居間には。
 昨日と変わらない制服姿のまま、ソファに横たわる織羽の姿があった。眠っているにしては呼吸が浅く、早い。
「永瀬? おい、何やってるんだよっ!」
 乱暴なくらいの勢いで肩をゆすられて、けだるげに織羽は目を開けた。
「誰……寺島君? 何……」
「病院行くぞ」
 問答無用で抱き上げようとした尚人の手を払って、のろのろと織羽は首を振った。
「行っても無駄。それに、外部に知られたくない。鳴海か宇野の家に、どういう経緯で花南の事が伝わってしまうか分からない」
「何のことだ?」
「花南は私を喰わない限り、生きていけない……」
 そんなバカな。
 とはいえ、昨日見てしまった光景を、幻だと思うことは出来なかった。
 けれど。
「バカなこと言ってないで、病院に行くぞ」
「花南は、何も知らない。知らなくたって、普通に生きて、普通に他人と接触して得られる精気だけで、十分に事足りたはずなの。同族の私が側にさえいなければ……」
 苦しげに織羽の表情が歪む。
 これ以上言葉を紡がせたくなくて、強引に彼女を抱え上げようとした尚人の手が止まった。
「同族を喰らう者を、一族は許さない。でも、花南が私を喰うのは、私のせい、だから」
 許さない、とはどういう意味なのか。
 ざわりと肌に冷たいものが這う感覚に尚人は、日常とかけ離れたところに足を踏み入れたことを思い知らされた。
「私は花南の側にいたい。その代償に喰われる。それだけのこと……」
「それだけって」
「大事な、友達だから……、バカみたいでしょう」
 自嘲して織羽はゆっくりと目を閉じた。
「花南は、本当に上条君のことが好きなのよ。でも嬉しいことに、私のことも好きでいてくれてる。そうなると、ジレンマが起きる」
 上条が好きなのは……花南ではない。
「花南の性格は……そういう曖昧さに弱い。抑えようとして逆に恋情が募って、多分、私のことを憎み始めてる。どうしていいか分からないのかもしれない。その感情の発露が、こんな形になったんだと、思う」
 まなじりから、雫がこぼれた。
 常に花南と一緒にいるかと言えばクラスも違うこともあってそうでもなく、それでも、何故かいつも一緒にいるイメージが強かった。クラスでは、休み時間に仲間たちと楽しげに過ごしている花南とは対照的に、一人で静かに過ごしている織羽。その姿もまた彼女らしかった。
 図書室にいるときも、花南といるときも、彼女は何も変わらない。ただ、そこに自分が関わると、ほんの少し、感情をあらわにする。でもそれは、花南の為だ。
 そして今、また彼女の為に声もなく、静かに泣いている。
 閉じた瞼の間から、まつげを濡らして、ただこぼれ落ちる感情のように、涙が流れていた。
「一緒に巻き込まれてよ」
 力無く伸ばされた手が、尚人の頬に触れた。
 その手に自分の手を重ねて、唇を触れ合わす。
 昨日と変わらない、冷たく乾いた唇。柔らかな感触もそのままだが、体調の悪さを反映してだろう、少し、ささくれ立っている。それも、どちらのものか分からない唾液で湿ってしまえば、すぐに気にならなくなった。
 それは決して愛欲からのものではなかったはずなのに、優しく髪をなで、手を握りあっていた。
 相手を貪り尽くしてしまおうかとしているような、長い口づけを終え、唇が離れても、まだ視線の距離は驚くほど近く、互いの吐息が感じられた。
「お願いだから、助けて……」



 尚人は、そっと身体を起こした。
 闇の中でも、白い身体がぼんやりと分かる。ようやく体温を取り戻した身体が冷えてしまわないように、毛布をそっと掛けた。
 さっきまでの、早く浅い呼吸が、深くゆったりした寝息になっていることに、安堵する。
 ベットの下に散乱した服を身につけながら、言葉にならない不安が押し寄せてくる。胸苦しさに、そっと部屋を出て、キッチンで何杯か一気に水を飲んだ。喉は潤せても、何か引っかかったような感覚がぬぐえない。それは肉体的にというよりは、感情的なものだったが。
 自分がモラリストだとは思っていない。けれど、好きでもない女とそういう行為に及べたことに、言いようのない感情が胸の奥に凝る。よりによって、それが織羽なのだ。
 好きでもない女。
 嫌いなのかと言われれば、嫌いだと即答するだろうが、蛇蝎のごとく嫌っている、と言うわけではない。憎まれ口も叩くが、遠慮会釈なく言葉を交わせるのだから、嫌いだと言いながらも、友人なのかと尋ねられたら、違うとも言えない。かといって、肯定もしづらいものがあるのだが。
 では何だ?
 尚人は自問する。
 好きな女の親友。多分、それが一番近い。
 その名にふさわしく、南国の花のような花南。蘭の花に例えるにはまだ幼さが勝つけれども、いずれ艶やかな大輪の花を咲かせるに違いない。今でも充分に人目を引きつけているのだ。高校では成績の優秀さもあって、おそらく知らない生徒はいないだろう。
 一方織羽は特に目立つところもない、むしろ地味な少女だ。図書委員を自らかってでているという酔狂さはあるものの、特別クラスに入るほどでもない成績、地味で取り立てて特徴もない容貌。花南と変わらないのは運動神経くらいだろうか。
 体付きも身長こそほぼ同じだが、花南には弱々しさはない。ほっそりとしているのに、少しばかり骨太な感じがあって、力強ささえある。逆に織羽は相手チームからは格好の鴨に見えたのではないかと思われる。が、実際ちょっとやそっとで倒されるような柔な鍛え方はしていなかったらしく、むしろその見てくれを利用していたのだろうというのが、上条と一緒に応援に訪れた地区大会の決勝戦で感じた印象だった。
 そういえば、最初はマネージャーをやってたんだっけか。
 最後の大会くらいはと口説いていたところは何度か目にしていたが、選手よりもマネージャーの方がしっくりくる見た目に、果たして使えるのかと疑問に感じた覚えがあった。
 あんな細い……
 ふと自分の触れた織羽を思いだして、尚人の心臓が音を立てた。



 満ちてゆく。
 浮遊感の中で、喰われて空になった器に十分過ぎるほどの精気が注ぎ込まれたことを感じていた。
 再びこのようなことがあれば、自分がためらいもなく己の身を差し出すだろう。
 でも。
 さすが親友同士というべきか、尚人が上条以上のお人好しだったから、今回ばかりは助けられたけれども、この先もそれを期待するのは愚かというものだ。
 会えるはずの上条が、たまたま法事でいなくて会えなかった、ただそれだけのことがあれほどまでに花南の精神を揺らすことになるとは、全く想像すらしていなかった。
 最初は八つ当たりしたい気分、という程度だったろうに、それがどう踏み違えて、あんな攻撃的に形を変えたのだろう。
 知っている以上に、花南は感情的な人間なのかも知れない。
 初めて出会った時のことを思い出して、織羽はため息を抑えられなかった。
 織羽が属す一族は、ひっそりと存在し、穏やかに暮らし、その血筋は恐ろしいほど徹底的に管理されている。それに、他者から精気を分けてもらう必要があるとはいえ、肩を抱く程度の日常的な接触で、普通は十分に事足りる。吸血鬼のように牙を突き立て血を啜る必要などない。
 例外は、同族を喰らい、その味を知った者だ。
 他者の精気では満足出来なくなり、飢え続けることになる。味を覚えた同族の、精気を生み出す核そのものである随玉を喰わせることが、唯一、飢餓感を治め、正常に戻す方法だという。
 彼女にとって、昨日が初めての捕食だ。
 次はいつになるのか分からない。
 それまでに、喰らわれても大丈夫なだけの精気を蓄えることが出来るだろうか。
 織羽の中で、不安はひたすらに募ってゆく。
 一族は、共食いした者の存在を許さない。
 それがなくとも、いずれ互いの生活圏は離れてゆき、何も知らない花南は、訳の分からない飢餓感に苛まれることになるだろう。それは時に狂気を呼び起こす。
 どのみち、自分の随玉を与える他ないのか。
 温かな水の中をたゆたうのに似た心地よさに、半覚醒の状態にすっかり身を委ねて、何時来るか知れない、けれども確実に訪れる日のことを考えていた。
 それでもゆっくりと瞼を開いたのは、現実には空腹感からだった。
 もし明日死のうと思っていても、お腹は空くんだろう。
 自嘲気味に苦笑を漏らすと、織羽は身を起こした。



 ドアの開く音に、びくり、よりはぎくり、と尚人は顔を上げた。すっかり闇の中に慣れた目に、白い影の様なものがドアの隙間からするりと出てくると、そのまま廊下の方へ行ってしまい、程なく水音がし始めた。
 尚人自身も長風呂では決してないが、さっとシャワーを浴びただけなのだろう、顔を合わす心構えもろくに出来ないうちに、水音は止まり、やがて今の灯りが点いた。
「……いたの」
 Tシャツにショートパンツというラフな格好で現れた織羽は、開口一番、聞きようによっては失敬極まりない一言を発した。尚人が言葉に詰まっていると、
「電気付けてもよかったのに。なんか、気を遣わせたみたいだね」
 苦笑いを向けられ、
「夕飯作るけど、食べてく?」
 まるで、何事もなかったかのような顔で問われて、尚人の緊張はあっけないほど簡単に解けた。
 面白いくらいに、帰宅が遅くなった友人を夕食に誘っているとしか思えない口調と、雰囲気と。
 それがとことん意図的なものであるに違いなくても、尚人は素直にそのことに感謝したい気分だった。
 帰宅時間が何時になろうと、それが朝帰りであっても文句は言われない。ただし午後六時までに連絡もなく帰宅しなかった場合は、自動的に夕飯は用意されないことになっている寺島家の食卓には、尚人の分は既に無いことが決定している時間だった。
「簡単なものだから、わざわざ食べていってっていうほどのものでもないけど」
「……お言葉に甘えます……」
 簡単なもの、と言われて、冷凍食品やレトルト食品を想像していた尚人の前に並べられたのは、ジャガイモとベーコンのオムレツに付け合わせの温野菜サラダ、ロールキャベツの入ったスープと、短時間で作ったとは思えないものだった。
「豪華じゃん」
「毎日作るのは面倒だから、週末にまとめて下ごしらえだけして、冷凍庫に入れてあるから」
「自分で飯作ってんの?」
「じゃなきゃ、誰が作るの?」
 織羽は憮然とした顔で答えた。
「……そういえば、そろそろ親、帰ってくるんじゃないの? 俺、居て大丈夫?」
「帰ってこないから。今、海の向こう」
「……大変だな」
「そうでもない。家事は慣れてるし」
 あっさりと織羽は言う。
 手慣れた料理、綺麗に片付いた部屋。
 ほんの少し尚人よりも早く食べ終えた織羽は、ヤカンを火に掛けて、食後のお茶の支度を始めた。作りながら、合間合間で使った食器や鍋も片付けていたらしく、後かたづけもあっという間だった。
 柑橘系の香りのする紅茶をすすりながら、すっかりくつろいでいた居間には、台所にある家電から発せられる微かな音しかしない。だから、雨音と遠雷に気付くのもすぐだった。やがてそれは、断続的な激しい雷鳴と共に、強く吹き始めた風と共に窓ガラスを叩き始めた。
「すぐ……止むよな」
「それが一、二時間、と言う意味なら止むと思うけど。傘を貸してもいいけど、寺島君が構わなければ帰るのは雨が止むのを待ったら?」
「そうさせてもらうよ。傘借りても、自転車だし」
 激しさを増すばかりの風雨の音だけが支配する中、何をするでもなく、テレビを付けることもなく、ただ、時間が過ぎてゆくのに、先に飽きたのは織羽の方だった。
「私の父方の一族にはこんなおとぎ話が伝わっていてね。
 昔、戦国の世だったころ、山奥にあった一族の村に星が落ちてきて、たくさんの村人が死んでしまったのだそう。助かった村人たちはその後奇妙な病気に冒されて、結局生き残ったのはほんの僅かになってしまった。でも、生き残った人たちには不思議な力が備わったというの。時代が時代だったから、その力は武将たちに目を付けられて、捕まって利用されたり殺されたりしたそうよ。
 なんとか逃げた一族の者が身を潜めたのは遊郭だった。他者から精気を得るにも都合が良かったんでしょうね。
 そこで富と平穏な日常を得た一族は、自分たちを守る為に様々な決まり事を作った。その中に、同族を喰ってはならないっていうのがある。
 強い力を持つ者は、その力を使うと酷く消耗するから、他者の精気を大量に必要とするらしいのだけれど、その回復に最も有効なのが、同族の精気。代わりに、一族でない者からの精気を受け付けなくなってしまうことが分かっているの。つまり、生きる為には同族を喰い続ける必要があるということ。
 だから、出産を控えた女性だけは例外にされたそうだけど、同族を喰った者は、例え本家の者であっても許されなかった。例え逃げても、一族の狩り手から逃れることは不可能だったし、それに、精気を得られなければ、いずれ命を落とすか飢餓感で狂気に陥るか、悲惨な末路は目に見えてる。
 もっとも、狂気に陥って手当たり次第人を襲うようなことがあれば、一族の双眸の機器だから、その前に始末されていたはずだけれどね。
 でも、ま、今では、血も薄まって不思議な力を持つ者なんて、本家の者くらいだけれど、その代わり他人の精気もさほど必要ではなくなり、私なんかは普通に暮らしているというわけ」
 どこの伝奇小説のあらすじかという内容にも、尚人の中で、それを作り話だと一蹴出来る材料はなかった。
「……本当におとぎ話、のようだな」
 と応えを返すのが精一杯だった。
「本当に、ただのおとぎ話だったらよかった」
 ソファの上で、織羽は膝を抱えた。
「本家は、共食いした同族の存在を許さない。一族の平穏を守る為に、それは仕方がないことだとは分かってる。でも、花南は狩らせない」
 それは覚悟を決める為かと思わせるほど、強い言葉だった。
「何か、俺に出来ることは?」
 答えは、聞かなくても分かっていた。

2011.01.19


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