05, そして彼女は扉を閉ざす

 初めて会ったときの事を、一樹は思いだしていた。
 会社の入っているビルで時折見かけていただけの篤子と、初めて言葉を交わした時のことはまるで覚えていないのに。
 一階のエントランスに片隅に、その場に似つかわしくない小学生と思しき女の子が一人、大きな観葉植物の鉢の影に隠れるように、小さな身体をより小さくして立っていた。不安そうな顔を俯かせて、目だけが行き交う人を追っていた。声を掛けようか迷っていると、ヒールが床を蹴る音が彼を追い抜いて行った。
 それが篤子だった。
「織羽? どうしたの」
 駆け寄るなり、目線の高さを合わせるように篤子はかがみ込み、今にも泣きそうだった女の子の頬に、そっと手のひらを添えた。
「鳴海のおうちに行っていい?」
「どうして?」
「お父さんのお母さん、亡くなったって」
 せぐりあげながら、女の子はどうにかそう告げる。
「……でも、織羽ひとりでは行けないでしょう。鳴海のおうちは遠いのよ」
「お母さん、お仕事忙しい?」
「ごめんね」
 ぎゅっと抱きしめられて、女の子は子供らしくほっとしたような、それでいて心底悲しそうに目を閉じた様子が大人びていて、そのアンバランスさが心にひっかかったものの、ちょうどエレベーターが来て、その後どうなったのか一樹には知ることはなかった。
 ただ、いつまでもその二人の姿を忘れる事が出来なかった。
 篤子とのと付き合いが始まってからも、その時のことを話そうとはついに思わなかった。それは、その後どうなったのかという部分に触れないではいられない自信がなかったことと、それは他人が聞いてはならない事だと感じていたからだった。
 その時から三年余りを経て、一樹は彼女たちと一緒に暮らし始め、後は婚姻届を提出するばかりという時に、篤子が事故で亡くなった。居眠り運転のトラックが、通勤時の交差点に突っ込んだのだ。死傷者は16人に上った。
 突然に母親を失った織羽よりも、手許に捺印済みの婚姻届を残して妻になるはずだった人を失った一樹の方が、そのショックの受け方は激しかった。そう見えたのは、織羽が既に父親を亡くすという体験をしていたせいかもしれない。葬儀を終えて、呆然としていた一樹の側を離れようとせず、ただ日常を取り戻そうとするかのように、子供なりに家事をし、数日後には一樹を会社に送りだした。
 十日ほどして、織羽を引き取りたいと織羽の父方の親類が訪れた。
 永瀬聡司と名乗るその男は年の頃は四十を少し越えたくらいだろうか。織羽の亡くなった父親の従兄弟にあたるという。厳つい印象の外見だが、果たして織羽の父親と似ているのかどうか、一樹には分からない。 
「では、よろしいですね? 織羽さん、これから鳴海の家で暮らすことになります。支度をしてきてください」
 決して高圧的な所はなく、やわらかな物言いだったにもかかわらず、まるで怒鳴りつけられたかのように織羽は身を竦ませて、一樹の腕に取り縋った。
「これから家族として暮らすはずだった方と別れるのは、名残惜しいこととは思いますが、それなら尚更、早く別れを済ませた方がよいのです。先に延ばせば延ばすほど辛くなります」
 優しく諭すように彼は言葉を継いだ。織羽はただ一樹の上着の袖をきつく握り、救いを求めるように見上げた。
「俺、別れるの? 織羽と?」
 たった今、目が覚めたような虚ろな声だった。
「なんで?」
 不機嫌そうに永瀬を睨み上げた一樹には、普段の折り目正しさは無かった。だが永瀬の方は臆することなく、やわらかに応えた。
「ですから先ほども申し上げましたように、織羽さんの親類である私が後見人となり、責任を持って養育します。無論そういった正式な手続きは後日になりますが」
「だから、なんであんたが?」
「織羽さんに一番近い親類ですし、家内も納得してくれていますのでね。それに、まだあなたはお若い。なにも好き好んで血のつながりもない他人の子供の親代わりになることはないでしょう」
「親代わり何じゃなくて、親なんだけど、俺」
「書類上はまだ他人です」
 雰囲気が剣呑なものに変わる。
 言葉もなく、睨み合う二人が作る険悪な空気を壊したのは、他ならぬ織羽だった。
 一樹の袖に額を擦りつけ泣き出した姿に、二人の間にあった、緊張感が一瞬にしてほどけた。
 初めこそ声を押し殺していた織羽が、そのうち大声を上げて泣き出すのを見て、先に立ったのは永瀬聡司の方だった。
「葬儀の席でさえ一度も泣かなかった織羽さんに、こうも泣かれては無理矢理連れて帰るわけには参りませんね」
 彼が帰った後も、しばらく織羽はそれまで泣けなかった分まで泣こうとしているかのように、泣き続けた。泣いて泣いて泣き疲れて眠ってしまうまで。
 織羽をベッドに運んだあと、ようやく一樹は篤子の死を受け入れる準備を始めた。
 ひたすらその事を考えないことで逃げ続けて、逃げおおせられるわけもない。
 自分がしっかりせずして、どうしてまだ幼いこの子を守れようか。
 一晩、思い出に浸るくらいで、決別できるほど単純で浅い過去ではないにしろ、新しい生活を始めようと言う決心くらいは付くだろう。
 頭に思い浮かぶこと全てを、無理に止めることなく流れるに任せることにした。
 やがて、居間のソファでうつらうつらし始めたとき、誰かの叫び声を聞いた気がして目が覚めた。
「何処? やだ、何処に行ったの?」
 織羽の部屋のドアが開いて、泣きじゃくった織羽が出てきた。
「どうした?」
「一樹さん? いるの?」
「いるよ。どうした?」
 寝ぼけているのか、そのまま一樹にしがみつくと、まるで駄々っ子のように泣き出した。
「大丈夫。ちゃんとここにいるよ、織羽」
 抱き上げて、背中を撫でていると、ようやく安心したのか泣きやんで、安らかな寝息を立て始めた。

 そうして、二人の生活は始まった。

 なかなか永瀬総司も織羽を引き取ることを諦めず、細君を連れてやって来たりもしたが、二人の暮らしぶりを見て、一樹が信用に足る人物であること、そしてなにより織羽にとって、一樹のもとにいることが一番良いらしいことを、渋々ながらに認めたのだった。



 体温を失った白い頬をそっと撫でる。
 こんな日が来ることを覚悟するには、少し、時間が足りなかった。



* * *



 織羽たちの卒業式を祝福したのは、意地の悪い冬将軍が最後に残した風花だった。
 まるで気の早い桜の花びらの如く雪片が乱舞する中、冷えきった体育館で半ば凍えながら粛々と式は進行した。 
 卒業式が終わった後、織羽と花南はバスケット部の後輩たちから贈られた花束を手に、体育館から校舎へと移動している途中、
「ね、少し図書室に寄っていい?」
「うん、いいよ」
 織羽の頼みに、花南は快く頷いた。
 職員室で鍵を借り、校舎の片隅へと向かうそのあとを追うように、花束のフリージアが甘い香りを残して行く。
 あちらこちらから、賑やかな声が響いて、静かなはずの廊下も賑やかしい。
 随分とノリの良いクラスでは、誰かが持って来たらしいギターの伴奏で、校歌から始まって卒業式に歌われる定番の曲の合唱メドレーが行われているようだ。
 誰もいない図書室は、しんと冷たく、奇妙なほど静寂に包まれていた。
「それにしても寒いねー」
 花南はぶるりと身を振るわせ、両腕をさする。
「まさか雪が降るなんてね」
 窓の外は、うっすらと雪化粧した景色となっているが、おそらく明日の朝には跡形もなく融け去っているだろう。
「ねえ、織羽」
「なに?」
「もしかして、上条君に、何か言った?」
 某有名予備校で行われた夏の集中講義で一緒になったことをきっかけに、随分と距離を縮めた二人は、周囲からは付き合っているのだと目されている。特にそれらしいことといえば、せいぜいバレンタインデーにチョコレートを贈ったくらいのことなのだが、頻繁に一緒にいれば、そうなるのも当然だろう。
「何かって?」
「……分かんないけど、なんか、あたしのこと」
 多分それは、最近のことではなく。
 やはり、あのひと言を花南は聞いていたのかと織羽は確信した。
 ──これで満足?
 と同時に、これは絶好の機会なのだと悟る。
「言ったよ。花南の気持に気付いているくせに、友情壊すようなことしないでって」
「……いつ」
「二年の春休み前くらいかな。残り一年、花南と仲良くやりたかったし、男子と付き合うとか興味なかったし」
「それ酷いよ、織羽!」
 悲鳴のような声だった。
「でも、結果オーライでしょ。上条君の目は花南に向いたし、私は花南と仲良く親友でいられたし」
 敢えて、織羽はとぼけた口調でそう言った。
「なにそれ、もし織羽が上条君のこと好きで、付き合うとかだったら、あたし、」
「嘘ばっかり。気付いてたよ、上条君と話してると、花南がすごく嫌そうな顔してたの」
「してないよ!」
「じゃあ、無意識だったんだ」
「何でそんな意地悪言うの!」
 目尻に涙を溜めて、花南は叫ぶ。
 そう、あともう少し。
 織羽は嘲笑にも似た、酷く醜い微笑を顔に張り付けた。
「認めれば良いじゃない。だって、当たり前のことでしょ、嫉妬するとかって。きれいごとばっかり言ってたって欲しいものは手に入らないでしょ」
「織羽!」
 織羽の頬が、鳴った。
 衝撃よりやや遅れて、痛みというより熱さがじんわりと染み込んでゆく。
「図星だからって、キレないでよ」
 わざと織羽は吐き捨てた。
「そういうきれいごとばっかりの花南が、ほんとは大嫌いだった」
 花南の眦から涙が零れ落ちると同時に、図書室のガラスが全て割れたかと思うほどの衝撃と、何かが引きちぎれるような鋭い音が辺りを打った。
 それは、遂に絆が絶ち切れた音だと織羽は思った。




 それは、もとより予感めいたものがあったのかも知れない。
 織羽と花南の姿が見えないことに、尚人は何故か酷い胸騒ぎを感じた。
 三年の教室や職員室をざっと見て回っても見付からない。
 部活の後輩たちと話し込むにしても、この寒空の下では、早々に引き上げて来るだろう。
 もしかして。
 ちょうど司書を兼任している国語教諭を見付けて尋ねてみれば、資料室に置きっぱなしで忘れていた私物を引き取りたいからと、織羽が図書室の鍵を借りているという。
 胸騒ぎは、もはや確信に変わっていた。
 階段を駆け上がり、校舎の一番端に向かって全速力で走る。
 廊下を走ってはいけません。
 小学校入学とほぼ同時に教えられるのに、高校の卒業式を終えたばかりの今、それを堂々と破っているのかと思うと滑稽な気がした。
「永瀬?」
 何の躊躇もなく思い切りドアを開けた。




 一樹が、赴任先から駆けつけることができたのは、卒業式の翌日だった。
 もともと卒業式に参列する予定が、取引先とのささいなトラブルが重なって、来ることが出来なかったのだ。
「どうしてもっと早く話してくれなかったんです」
 尚人から連絡を受け、その日の夜に到着した永瀬総司は、怒鳴りこそしなかったが、それをぎりぎりの理性で押しとどめたことが分かる、感情を押し殺した口調でそう言った。
「まさか自ら随玉を与えてしまうなんて……」
 昏々と眠る織羽の傍らで、彼は無念さを隠すことなく立ち尽くしていた。
 やがて彼は告げた。
「症状としては、再生不良性貧血と診断されるでしょう。
 けれど、骨髄移植をしても、回復は望めません。ただ、終焉に向かうのを、見守るしかできないのです」

 尚人が図書室に辿り着いたときには、全てが終わっていた。
 目の前にいる尚人にすら目を向けることなく、ふらふらと花南は出て行き、残されたのは、全てを喰らい尽くされた織羽だけだった。
 抱きしめて口付けて、その場で出来る限りの精を尚人は注ぎ込んだ。
 でなければ、そのまま冷たい骸になっていたかもしれない。
 そして、尚人は一樹よりも先に、預かっていた名刺にある鳴海本家の人間に、どうすべきかの指示を仰いだのだった。
 すぐに、輸血が出来る病院に搬送してほしいといわれて、すぐに対応出来たのは幸いだった。その時ほど、祖父が医師であったことに感謝したことはない。
 時に、織羽は自身のことを吸血鬼と悪趣味な比喩をしていたが、今の彼女に必要なのは、大量の輸血だったのだ。



「どういう、ことなんだ?」
 当然と言えば当然であろう一樹の問いに、
「織羽さんは、随玉を萩野花南に与えた。それは、精を生み出す源を失った、命を譲り渡したとも言えるかもしれません」
 永瀬総司は淡々と答えた。
「つまり、それは、」
「もう彼女に残された時間は、少ないということです」
 一樹は尚人の方に向き直るなり、社会人としての見栄だのなんだのをかなぐり捨てて、感情を叩き付けた。
「君は、このことを知っていたのか!」
 それもまた、彼の権利だったのだろう。
「織羽が望んだんです。俺には、止める権利も何も、なかった」
 一樹は尚人の胸ぐらを掴んだ。
「俺は、頼むと! あの子のことを頼むと君に……!」
「俺と織羽は……恋人とか、そういう関係じゃなかった。そうなれたなら、俺は彼女を何が何でも止めましたよ。でも、織羽は、俺じゃない、彼女を、萩野花南を選んだんだ」
「つまり、君はただあの子の……!」
「最初はともかく、そこまで堕落してませんよ。でも、彼女に必要だったのは、俺じゃなかった」
 尚人の胸ぐらを掴んでいた手がずるりと離れ、一樹はその場に崩れ落ちた。

 また、失うのか。
 一樹は慟哭する。
 三十路を越えた男が、身も世もなくなく姿など、まるで道化だと思いながらも、込み上げるものが抑えられない。
 床を拳で叩くなど、映画やドラマの中の演出に過ぎないと鼻で笑っていたのに、やりきれない気持ちをぶつける先が無い時は、本当に床を叩く他ないことも思い知らされる。
 友達が出来たと、嬉しそうに話していたのは、高校に入って半年もしたころだろうか。
 中学校では、部活動で活躍こそしたものの、部員たちとはうまくいっていないようで、毎日が本当に辛そうだった。初心者だった織羽がレギュラーメンバーに選ばれたことで、一緒に入部したクラスメイトから嫌がらせを受けていたらしい。
 どれほど水を向けても織羽は話そうとしなかったから、そのあたりのことは言葉の断片を繋ぎ合わせた一樹の想像なのだが、事実との乖離はさほど大きくはないだろうとほぼ確信している。
 だから、そのままエスカレーター式に進学するのではなく、公立の高校に進みたいという織羽の願いに、なにも言わず賛成したのだ。
 やっと穏やかで楽しそうに過ごしていたように見えたのに、どうしてこんなことになってしまうのだろう。
 織羽の父方の血筋が、かなり特殊であることは、織羽の後見人になったとき、永瀬総司から聞いていた。
 荒唐無稽なお伽話と一笑に付してしまいたいような話だったが、基本的には出来るだけスキンシップをすれば良いだけのこと。それは、普通の親子なら当たり前のことで、特に意識する必要もなかったのだ。
 けれど、その触れ合いの意味は、やがて変容してゆく。
 母親の篤子によりも、むしろ父親の面差しを受け継いだらしい織羽だが、成長するに従って、横顔やちょっとした仕草に篤子の面影を一樹は見出すようになっていた。
 それは、彼に複雑な感傷をもたらした。
 最愛の女性と大切な存在を重ね合わせる罪から、彼は目を逸らした。
 ふと夜中に目覚めたとき、真正面で織羽もまた目覚めていた。
 ただ庇護を求めていた子供の瞳ではなかった。そこで互いが求めている物が同じであることは言葉にしなくても通じていた。
 一樹は手を伸ばして織羽を引き寄せると、その唇の端に軽く口付け、自分の懐に抱きかかえて目を閉じた。やがて規則正しい織羽の寝息につられるように、彼もまた再び眠りに落ちた。
 欲望は簡単に増長する。
 交わす口づけも子供の遊戯じみたものでは済まなくなった。そしてそれ以上を求めるのも。
 互いの唇を貪り唾液を啜り合いながら、気が付けば互いの肌に触れるようになるのに、さほど時間は掛からなかった。
 つ、と身体を離して、
「これ以上は駄目だよ」
 外れ掛けたたがを止めたのは一樹の方だった。
「どうして」
 いくらでも、理由を並べることはできた。でもそこに真実味が無いことくらい、この聡い少女に分からないはずもない。そして、聡いが故に、一樹の困惑も受け入れることが出来る。
 ゆっくり抱き寄せて、子供の頃からしているように、頭を優しく撫でる。
「時間をくれないか」
 頼る身内がいないことが幸か不幸か、歳不相応に大人びさせて、それは一樹にとっては有難いことではあった。時々、こんなにも物分かりが良くていいのかと不安にさせるほどに。
「いつまで待てばいいの?」
 鎖骨の上で囁かれて、反射的に一樹は身体を震わせた。
 いつまで。
 いつまで自分の理性を、感情よりも優先させていられるかの方が問題かもしれない。一樹は織羽の髪を指で梳きながら、苦笑した。
 織羽が同級生に関心を持ってくれればいい。
 その時に、果たして負の感情を全く持たずにいられるかどうか、自信はなかった。
「いつまで待たなくちゃいけないのか分からないなら、待たない」
 するりと一樹の腕をすりぬけ、半身を起こした織羽は一樹を見下ろした。
 その目に取り込まれるような気がして、一樹は瞼を降ろすと、胸の上に織羽を抱き寄せた。

 そうして。
 結局、一樹は逃げたのだ。
 会社からの海外赴任要請を利用して。
 織羽が、自分に父性を求めなかったことを一樹は分かっていた。
 いっそ素直に騙されてくれる愚かな少女であったなら、幼い思慕を利用して、一樹は織羽を篤子の代わりにし続けることが出来たかも知れない。
 一樹が逃げたことすら許して、全てを振り出しに戻すことを受容した織羽に、彼が出来たことは、距離を置き、後見人として相応しい情愛を注ぐことだけだった。
 それなのに。
「一樹さん、私ねえ、幸せだったよ」
 嘘のない笑顔で告げられた。
「だから、ちゃんと幸せになってね」
 それは遺言だった。
 




「鳴海本家から紹介される病院っていうから、もっと田舎だと思ってた」
 日当りの良い、こじんまりとした個室で、穏やかに織羽は微笑う。
 織羽が入院した病院は、偶然にも尚人が入学した大学に割合近いところだった。
「まだ生きてるなんて、変な感じ」
 一時的にでも、織羽が健康を回復したのは、擬似的な随玉を与えられたからだ。しかしその効能は永続的なものではない。
 鳴海本家の方では、花南を処断すべきという声もあったというが、花南自身が、その特異な体質を自覚しないままであることや、織羽の随玉を得たことで、おそらくはこの特質も眠りに付くことは確実であることから、不問に伏されることになった。
 何よりも、織羽自身が命と引き換えにしてまで守ったものを、無碍に奪うことは、さすがに躊躇われたのだろう。
「でも、そんなに長くは保たないんだってね」
 静かに生きていれば、半年くらいは命を繋ぎ止めておけるらしい。
 余命半年。
 尚人にはどう受け止めて良いか分からなかった。

「海が、見たいな」
 唐突に織羽が呟いたのは、梅雨が開け、窓の外に鮮やかな青空が広がった日の事だった。
「緑川先生が良いって言ったら、連れてってやるよ」
 病院の近くにある書店に出掛けるくらいは目こぼしをもらっていたが、さすがにそれは、医師の許可を得ないわけにはいかない。
 織羽の担当医師である緑川は、最初は許可を出し渋っていたが、尚人が付き添うことやその他諸々の注意事項を守ることを条件に、外出許可にサインをした。
 一番近場の海は、様々な商業施設が集まっていて、余りに情緒がないということで、車で二時間ほど掛かるところへの遠出となった。
「う、わぁ……」
 もう海水浴シーズンに入っていたが、そこは地元の小学生が遊ぶくらいの、小さな浜だった。尚人の祖父母がその近くにある。
 一歩踏みしめるごとに、きゅっと独特の音がする。
 ふわりと風に浮いたつば広の麦わら帽子を押さえながら、織羽は浅瀬を歩いた。
「暑いんだから、水飲め! 熱中症なんかになったら、俺が緑川先生に怒られるんだぞ」
 尚人は織羽の手首を掴む。
 怖かったのだ。
 そのまま、彼方へと去ってしまいそうで。
「ありがとね」
 安心させるかのように、織羽は尚人に微笑んだ。
 夕暮れの光を弾いて海が黄金に輝き、やがて降りて来た夜の帳に空が海に融けるまで、織羽は帰ろうとしなかった。

 それは、彼女にとって最後の外出となった。

 織羽に幾ら精を注ぎ込んだとしても、それはひび割れた器に水を注ぐようなものだと言われたが、尚人は織羽の病室に毎日のように通い続けた。
 一樹も地方支社の海外事業部から、首都にある本社の営業部に異動したことで、週末には必ず訪れている。
 傍らで静かに手を握る。
 目を覚まさない日もあった。
 それでも。


 終わりの日は静かに訪れた。
 その日、聖誕祭を間近に控えて、電飾で彩られた街を、雪が白く覆い尽くしてゆく。

 なんて、あたたかい、て。

 しっかりと握られた手から伝わる熱を、織羽は最後まで感じていた。
 どんな顔で尚人が自分を見つめているのか、もう視界は昏く閉ざされて判然としなかったけれど、なんとなく分かるような気がした。
 
 しあわせ、だ。

 ほわりと、胸の奥は暖かい。

 ぶっきらぼうに、まもってくれていたこと。
 おしみなくそそいでくれたのは、あい。
 わかってたよ。
 でも、これは、わたしがとらなければならないせきにん。
 かのじょのなかにねむる、どうぞくのちをめざめさせてしまったことの。
 だから、ほんとうのことはいわない。

 あいしてるなんて、ぜったいに。



* * *



 夏の海だというのに、尚人以外、その浜にはいなかった。
 真っ白な砂の上に座り、ジャケットのポケットに突っ込んでいた一樹からのハガキを手に、少し、笑う。
 ほとんどの用件はメールで済ますような世の中で、律儀に結婚したという報告だ。
 時々は、上条と連絡を取り合うようになって、かつての日常を尚人は取り戻しつつある。
 あの日再会した花南は、どうやら遠距離恋愛中の彼氏に会いに来ていたという話だとか、その彼とは別れて、今は新しい恋人が出来たらしいだとか、そんな話も聞いた。
 大丈夫だ。
 しっかりと、伝わっていたよ。
 彼は胸の裡で告げる。
 何よりも、繋げた手から伝わる温もりは、雄弁だ。

 ──迷惑じゃなかったら、もらってくれる?

 渡されたのは、見るからにアンティークな指輪。

 別に大した意味じゃないの。
 捨ててしまってもいい。ただ、私にはもう何も返せるものがないから。
 せめて何か、って、私の自己満足なんだけど。

 左手の中指にちょうど納まったそれ。
 碧色の、おそらくは、翡翠。
 幸福を願う石だ。
 ようやくそれを身に付けることが出来るまでには、気持ちは落ち着いた。

 織羽の思いも願いも、ひとかけらも零さず受け止めた。
 尚人はそう思っている。

 みんな、元気に、それなりに幸せにやってるよ。

 立ち上がり、海に背を向ける。
 そして、一度だけ、振り返った。
 あの日のように穏やかな海をその目に焼き付けんばかりに見つめると、今度こそ尚人は在るべき場所に向かって歩き始めた。

……fin.
2011.01.29


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