星月夜の森へ

─ 55 ─


 グローディ河を挟んで、ルウェルト、グリヴィオラの両軍は対峙していた。
 河の水量は少なく、その中州までは、深いところでも膝を越えるか越えないくらいだ。
 上空では激しく雲が流れ、目紛しく様相を変えていると言うのに、地上では生暖かな風が吹き、空気を重く湿らせていた。
 ぽつりと落ちた雨の、最初の一粒を合図に、互いに鬨の声を上げ、まずは騎馬兵がその後を歩兵たちが大地を強く蹴り付けて相手方に躍りかからんと駆け出した。

 どうして。

 馬上で、ヒナコは震えていた。
 近いうちに、再び刃を交えるであろう事は何も聞かずとも空気で分かっていたつもりだったが、それが今日この日であるなどと、夢にも思わなかったのだ。
 怪我を負った兵たちに薬を塗り、包帯を変え、動けぬものの口に湿した布で水を含ませたりと、救護用の天幕内を忙しなく動き回っているときに、唐突に退避しますとクウィルズに腕を掴まれた。
「直ぐにここを離れましょう」
 陽菜子の手から落ちた包帯が、ころころと転がった。
「戦闘が始まります」
 最初、その言葉はすんなりと陽菜子の中に入って来なかった。
 そこが戦場であるという事実を、これだけの生々しい負傷者を前にして実感出来ていなかったのは、ひとえに死の不在のせいだろう。
「でも」
「ヒナコ様、クウィルズ様の言う通りにいたしましょう」
 そっと袖を引くソナの顔は蒼白だ。
「でも、まだ」
「ヒナコ様、お願いですから」
 まろみのすっかり削げた頬に、涙を伝わせながらソナは懇願した。
 怖くて仕方が無いのだった。
 この世界に祖国の無い陽菜子と違って、ソナに取っては戦場であるより何より、ここは異国であり、寄る辺なき地なのだ。アズフィリアやクウィルズの親切は有り難いが、それを無条件で信用など出来はしない。
 侍女という立場にいるとはいえ、ずっと友人のつもりでいた陽菜子は、そこまでソナに我慢を強いていた事に、申し訳なさと羞恥とでいたたまれなくなってしまった。
 僅かな沈黙の間に、
「いいではないか。【金の小鳥】殿には、我と共に来て頂こう。そこが一番安全であろうよ」
 と剛胆に言い切ったのは、ばさりと音を立てて扉代わりの布をまくり上げて天幕に入って来た、グリヴィオラ王イェグランだった。すでに装飾性の高い板金鎧を身に着け、あとは騎乗するばかりの格好だ。
「王!」
 異を唱えようとしたクウィルズに、ちらと視線を送っただけで、イェグランはその先を言わせなかった。
「先の戦闘では、無様なところをお見せしたが、今度はこちらも全軍を向け、ルウェルトなど蹴散らしてご覧に入れよう」

 そうして。

 陽菜子はイェグランのすぐ隣で、クウィルズに抱えられるようにして馬上にあった。
 体格も小柄で、性格も大人しく優しい馬になら、アズフィリアの手ほどきで乗ったりもしたが、今、陽菜子を載せているのは、本来は主人と認める者しか触れる事すら許さない、猛々しい軍馬だ。グリヴィオラ国内ですら、その数は少なく、また、扱える者も限られている。そのひとりがクウィルズなのだった。
 馴らすにも命懸けという話は誇張でもなんでもない。主人と認められないままに、強力な足で蹴飛ばされ、死に至ったり、獣の如く噛み付かれ、武器を振るべき腕を使い物にならなくされた騎士も少なくないのだ。
 その危険を乗り越えた代償として得られるのは、戦場においてこの上なく頼りになる相棒だ。どんな相手であれ怯む事無く敵を蹴散らし、死の瞬間まで主人に尽くすという。
 グローディ河を挟んで対峙する両軍の先頭に立つのは、ルウェルト皇国時期皇王サリュー、そしてグリヴィオラ王イェグランだ。
 その姿を互いにその目で確認したのは、その時が初めてであった。
 たわけた話ではあるが、総大将同士の目礼は古式ゆかしい戦のならいでもある。
 サリューの方はいざ知らず、イェグランの方は単に相手の総大将をその目で見たかっただけという、いささか気が抜けるような理由で、その場にいただけなのだが。
 陽菜子もまた、その場で久しぶりにサリューの、彼女に取ってはルサリアの姿を見ていた。
 穏やかに微笑し、空や花の話をした彼が、鎧を纏い、さらには敵方の陣の先頭にいる。

 もちろんサリューの側からも、陽菜子の姿は見えていた。
 まるで見せつけるように、王の隣にいるのだ。しかも、おそらくグリヴィオラでも五本の指に入るであろう、立派な軍馬の上に。
「どうした?」
 キノアは、総大将であり、ようやく兄弟という意識を持つ事が出来始めたサリューが酷く表情を強張らせているのに気付いた。
 はっきりいって、今回は勝算があるとは言えない。正直に言えば無いに等しい。
 カーラスティン国の王太子が、小規模の軍勢を連れてタラダインに向かっている事も、【金の小鳥】が敵側の陣営にいる事も伏せてあった。そんな情報は、軍の士気を下げるだけだ。それでもいずれは知れる事。その前にとキノアは再度、戦いを挑むべきだとサリューを説き伏せたのだった。
 しかし。
 先の先頭で痛手を被った事で、グリヴィオラ軍を本気にさせてしまったらしい。奇策は、重ねて弄すれば効果を失う。イェグランの性格からして、全軍の投入までにはまだ間があると思っていただけに、それは大きな誤算だった。
「大丈夫だ。あの高慢な王の喉元にまで、必ず詰め寄ってみせる」
「……頼りにしている」
 無理矢理に浮かべた事が分かる微笑に、キノアは眉を寄せた。
 愚かな戦を起こしたと、今更悔いているのか?
 怪訝に思いながら、表情を窺う。
 恐怖や後悔、では無い。
 ではなんだ?
 ……【金の小鳥】、か。
 キノアはサリューの目が向けられている方向を見やった。
 王の隣には、まるで騎士に護られるように抱えられて軍馬に騎乗する少女の姿がある。
 それはあまりに戦場には不似合いだ。
「これで、カーラスティンとの友好関係も終わるかも知れないな」
「え?」
「あれだろう、【金の小鳥】と言うのは。どんな事情であれ、カーラスティン最高位の巫女があそこにいると知っていて、弓を引くんだ。いくら友情に篤いラエル王太子とて、それこそ面子にかけて許すわけにはいくまいよ」
「それもそうだな」
 階の違う露台で、ただ、他愛の言葉を交わしただけの間柄でも、雌伏せねばならなかった時期に、それはどれほどの安らぎをもたらしたか。
 それを兄に理解してもらおうとは思わなかった。分かってはもらえないだろうという諦めではなく、それはあまりに個人的な感傷に過ぎない事を、よく分かっていたからだ。
 【金の小鳥】に弓を引けば、これまでグリヴィオラに対抗する意味もあって、長年に渡って築き上げて来た友好関係に終止符が打たれる可能性があると、キノアも理解しているならば、そこに自身の弱音にも似た感傷を紛れ込ませるわけにはいかなかった。

 ふと、爪の間が赤くなっているのに気付く。
 先ほどまで、怪我人の手当をしていたのだ。指先が血で汚れていて当たり前だ。
 そう、どうして、ではなく、サリューが敵方にいることも、当たり前のことなのだ。
 ラエルもそう言っていたではないか。
 サリューと敵対する、と。
 けれど、自分がいては兵を引くしか無い、という言葉はどうやら間違いだと分かる。
 彼ひとりの胸ひとつで、簡単にそんな事が出来るほど、事態は小さくない。

 閧の声が、上がる。

 イェグランと陽菜子、及び二人を護る為の近衛数名を、まるで河の小石のように避ける流れのように騎兵たちが駆けて行く。
 こんな時になって、ようやく陽菜子は現実を肌で感じていた。
 同時に、熱に浮かされたような、奇妙な高揚感があった。
 恐怖や緊張ではなく、ひたすらに『どうして』という疑問はやがて形を失って、熱へを姿を変えた。
 不意に陽菜子を載せていた軍馬が前足を蹴り、後ろ足で立ち上がった。そんな動作の気配も感じていなかったという油断もあったろうが、まるで誰かに突き飛ばされたかのように、クウィルズは落馬した。
 己を主人と認めさせ、自在に操るに至るまで半年余りと手は掛かったが、その甲斐は十分にあった相棒とも言うべき愛馬による、これは裏切りだ。
 咄嗟に受け身を取り、己の愛馬だけでなく、他の馬の脚からも身を護るべく、頭を抱えて身体を丸めた。視界の端に愛馬のたてがみを掴んで、馬上にあった陽菜子の姿にほっとしたのも束の間、愛馬は高く駆け上がった。


2008.12.27


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