星月夜の森へ

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 陽が差したかと思えば直ぐに翳り、これから晴れるのか雨が降るのか分からない、気もそぞろになる落ち着かない空のもと、ティレンはアズフィリアの馬車の同乗していた。軍装ならともかく、これから王にお目通りするというのに、騎乗してしまっては、せっかく着替えた服も乱れてしまうからと、アズフィリアが勧めたのだ。
 王太子以下星宮騎士団に対する牽制の為の人質と取れなくもなかったが、アズフィリアの持つやわらかな雰囲気のせいか、女性らしい気遣いとしてティレンは受け取った。
 それでも、いつもよりは多い警護の者に固められた馬車の中は、特に重苦しい雰囲気などはないのだが、やはり多少の緊張感を伴った。その上、何か気配でも感じるのか、ティレンは居心地悪げに身じろぎを繰り返していた。
「イェグランは、強引な性格ではありますけれど、決して頑な人ではありません。ちゃんと分かってくださいますわ」
 これからグリヴィオラ王イェグランとの対面、【金の小鳥】との再会に対する緊張で落ち着かないのだと、アズフィリアは誤解をした振りをして優しい言葉を掛けた。
 アズフィリアが隠している球体の存在を彼女は感じ取り、軋みに似た違和感を覚えているのだと気付いていながら。
「ありがとうございます。そういって頂けると心強い」
 さすがに表面上だけは完璧な笑みを作り上げ、ティレンは礼を述べる。
 彼女は、何を何処まで知っている?
 艶やかな黒い巻き毛にばかり目がいってしまうけれども、その空色の瞳も、ありふれているようで、光の加減で珊瑚色のようだったり、薄紫色のようだったりと変化して見え、そこに常ならぬ者であることを窺わせた。
 ずっと、ただの与太話だと思っていた存在が、目の前にいる。
 ヴィスタリア一族。
 例えば、異なる言葉を使っていても意志の疎通を可能にするものといった、【古き叡智】と呼ばれる不思議な道具の数々は、彼ら先祖の手で作られたのだという。今でも、失われた太古の智慧を密やかに護っているという話さえある。そればかりか、神から授けられた不思議な力をその身に宿しているのだとか。それ故に、隠れ里でひっそりとその血脈を細々と繋いでいる……というのは、全て風聞の域を出ない。
 単に、世にも珍しい闇色の髪という容姿から造り上げられた戯言であるに過ぎないのかも知れない。
 いずれにせよ、聖宮が、【地の星見】が、【金の小鳥】を異世界から捕らえてきていることだけなら、よい。
 でも。
「【金の小鳥】は、カーラスティンという一国のみだけでなく、この世界の安定に必要な存在ですもの、手放したくないのは分かりますわ。でも、そんなものを必要とする世界なんておかしいと思われませんか?」
 アズフィリアが口にした事は、あまりに根源に近過ぎる。
 おかしいことは言われずとも分かっている。少女の一生を否応無く拘束するような、こんな方法が正しいなどとも思わない。
 けれど、人ひとりの人生と世界の安寧を天秤に掛けて、導き出される答えは火を見るより明らかで、だからこそ、【金の小鳥】には出来うる限りのことを尽くしているのだ。
 それに。
「……かつては、神に捧げる供物として、生け贄を必要した時代もあったとか。そんな野蛮な行為をしているわけではありませんから。精一杯のことはさせて頂いております」
「暖かな家族から引き離して?」
「泣き暮らしていたヒナコさまを見るのは、辛い事でした。けれど、今は万人から愛され必要とされ、彼女もまたそれに応えておられます。そういう至高の存在であることは、市井の者には叶う事ではありません」
「それが、幸せなことと?」
「少なくとも、ヒナコ様は」
 ティレンは断言するほどに自信があったわけではない。でも、少なくとも陽菜子が自らカーラスティン国の為にと犠牲になることを申し出てくれる程度には、この世界を愛してくれているのだと思うのは的外れな事ではないだろう。
 施療院を訪問するようになった頃から、表情ばかりでなく、取り巻く空気も生き生きとし始めて、誰もが見惚れるほどであったのだから。
「……そう」
 急に興味を失くしたかのような気の無い応えを返すと、アズフィリアは視線を窓の外に向けたきり、口を閉ざしてしまった。

◇ ◆ ◇

 ──ほら、こうして【金の小鳥】には、迎えがきたわ。こんな敵ばかりの中だというのにね。
 そっとアズフィリアは囁きかける。
 ──あなたには、誰も来ない。
 何も見ないように、何も聞かないようにしているかの如く、由井はひたすら身を縮こまらせる。
 けれど、目を閉じる事も耳を塞ぐ事も、アズフィリアは許さない。その球体の中は全てがアズフィリアに支配されている。
 ──ずるいと思わない? ここに堕ちたのは同じなのに。彼女は世界を護る巫女、でも、あなたは災厄として忌まれる。
 その言葉に、由井は身じろいだ。
 ──知らなかったの? あなたがここにいるだけで、この世界は荒れてゆく。
 由井の脳裏に送り込まれたのは。
 咲かぬ花、実らぬ果実、育たぬ麦。痩せ細り肋を浮かせた家畜たち。病に喘ぎ、洪水に家を流され嘆く人々。盗賊に襲われ、鴉が不吉な鳴き声を上げるばかりの村。
 新しく生み出される物が僅か故に、やがては、その争奪戦が国家規模で起こるのだ。
 ──こんな時代が、また来るのよ。
 それでも由井に帰りたいという気持ちを起こさせる事が出来ない。
 震える声で、
 ──消えるから。どこか誰も知らないところで。
 と微かに呟き、全てを放棄したように、くたりと身体から力を抜いた。
 ──違うでしょう? あなたはあなたのいるべき場所へ帰れば良い。暖かな家へ、迎えてくれる家族のもとへ。
 アズフィリアは知らない。由井が大切な家族の和を護りたいが故に、帰りたがっていない事を。

◇ ◆ ◇

 黙りこくったまま、彼方を見つめるアズフィリアが、実は何をしていたかなどティレンに知る由もなく、奇妙な沈黙が落ちていた。
 その時間は決して長くはなかったけれども、緊張感を高める作用は十分に持っていた。
 それに、ティレンは先ほどから肌が擦られるような不快感を覚えていた。耳に聞こえてはいないが、頭の中では甲高い音が響いていて、頭痛がする。
 目眩に目を開けていることも出来ず、身体を横たえたくてたまらなくなって座席に片手を付いた時、ぽつりとアズフィリアが
「雨になりそう……」
 とひとりごちた。
 つられて窓の外を見れば、いつの間にか雲は重く立ち込めて、いつ雨粒が落ち始めてもおかしくないほどだった。
 急いた馬のひずめが大地を蹴る音が近付いて来ると同時に、馬車が止まった。
「……何事かしらね」
 その答えを、知っているのではないか──そうティレンに思わせる、落ち着いた声音でアズフィリアは疑問を口にした。
 こんこん、と馬車のドアがノックされ、馬に乗ったままの近衛が窓越しに、
「失礼いたします。アズフィリア様、このまま街へ引き返します」
 と言った。
「何故?」
「グローディ河対岸にルウェルト軍が集結しており、こちらも応戦の構えに入りました。これ以上近付くのは危険です」
「そんな!」
 悲鳴を上げたのはティレンの方だ。
「ヒナコは? もちろん、退避なさっておられるでしょうね?」
 穏やかにアズフィリアが言うべき言葉を継いだ。
「申し訳ございません。なにぶん急なことで……」
「クウィルズ卿が付いておられますし、彼なら万が一の時にも身を挺してヒナコを護ってくれるばずです」
 蒼白なティレンにそう言うと、
「このまま駐屯地へ向かいます。ヒナコを早急に保護しなくては、カーラスティンからのお客人に申し訳が立ちません。すぐにラエル王太子と聖宮騎士団の方々に事情をお話しし、そうね、馬車では足が遅いわ。先に向かって頂きましょう。あなたが先導なさい」
 さすがは、というべきか、アズフィリアは澱みもなく指示を出した。
「私も、」
 馬車を降りようと扉に手を掛けたティレンの肩に、アズフィリアはそっと手を置いて制した。
「駄目です」
「しかし!」
「失礼ですが、あなたでは足手纏いになります。聖宮騎士団はカーラスティンでも指折りの精鋭なのでしょう? ならば、あなたは落ち着いてヒナコを迎える準備をするべきです」
 毅然と言われては、ティレンも頷くほかない。
 浮かした腰を再び座席に落ち着けて、堅く目を閉じた。
 
2008.12.21


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