星月夜の森へ

─ 53 ─

 予定通り、夕暮れ前に辿り着いたタラダインの街は、奇妙な熱気に包まれていた。
 厳しく旅券を改められることもなく、祭りの前のような浮き足立った雰囲気の中、三人は適当に宿を決めた。宿屋の主人はおしゃべりなたちらしく、聞いてもいないのに、いかにグリヴィオラ王が雄々しく素晴らしいか、そして伴って来た愛妾の美しさを、さらには【金の小鳥】が大層可憐で、兵士たちばかりでなく、街の人間にもすっかり人気があることを滔々と語った。
「くわしいねえ」
 やや呆れ顔のアリューシャを背に、感心したように相槌を打つクリシュナに、主人は気を良くしたのか、赤ら顔をさらに紅潮させて、
「いやあ、アズフィリア様が逗留されている宿屋は、兄が営んでるとこなんですよ」
 と、自慢になるのかならないのか分からないことを述べ、照れくさそうに笑った。
 まだ話し足りなさそうではあったが、自分が随分と長話を聞かせてしまったことに気付いたらしく、そそくさと二階の部屋に案内し、三人はようやく一息を吐く事が出来たのだった。
 運ばれて来たたらいで足を洗い、旅装を解くと、三人は一階の食堂でこの宿の自慢だという鶏肉の煮込みで夕食を採った。普段は一杯やる為に訪れる客も交えて賑やかであろう、宿屋の食堂が静かだったのは、やはり戦の影響らしい。市内は何処もそうだと聞いて、どうやら出掛けようとしていたらしいクリシュナも、食後はすぐに二階の部屋に戻った。
 アリューシャが風呂へ行ったのを待っていたのだろう、部屋に二人が残された途端、
「さて、ちょっと話そうか?」
 と、クリシュナはフェンの向かいに腰を降ろした。

◇ ◆ ◇

 円卓に付いた四人は、誰もが口を誰かが口を開くのを待っていた。
 歓迎の意を込めて極上のフォンセ酒をアズフィリアは勧めたが、やんわりと断られた。故に、旅の疲れを慮り、甘みのある香茶がふわりと香りと立て、沈黙を埋めていた。
 静かにそれを口にしながら、互いに──カーラスティンからの来訪者三人さえもが──様子を窺っていた。
 しばし沈黙が続いた後、
「我々がここにきた理由は、察して頂いている事と思う」
 ようやくラエルが口火を切った。
「ええ、それはもちろん。こちらが相当な無理を申し上げたのは承知しております」
 しれっとアズフィリアは痛ましさを滲ませて答える。
「そちらは聖宮の、【地の星見】の方ですね?」
 神妙な面持ちでラエルの右に座るティレンに、アズフィリアは微笑みかけた。
「【金の小鳥】を手放さざるえなかった苦しみ、お察ししますわ」
 ぬけぬけと言葉を重ねながら、何か言い返したげなティレンの瞳の奥に、期待通りに染み通った影を見てアズフィリアはそっとほくそ笑んだ。
 目論み自体は外れっぱなしだ。捕らえた由井は思いの外、頑なだし、陽菜子は陽菜子で、【金の小鳥】である事をすっかり受け入れ、既に自分をこの世界に在るべきものだと思い始めている。素直すぎるのも考えものだ。
「やはり、神がお許しになりませんでしたか?」
「アズフィリア殿は、よくよく【金の小鳥】の事をご存じのようだ」
 ラエルは、落ち着き払った様子で応えながらも、すっかり話の主導権を握られていることに、焦りよりも不快感を覚えていた。
 真偽を問わずして、それを理由にする事はとうに抜かれていたことは仕方がないにしても。
 直接、グリヴィオラ王の元へ行っても良かったのだ。だが、何も戦いに来たわけではない。事は出来るだけ穏便に済ませたかった。だからこそ、ここで面倒でも段階を踏み、王が寵愛する者にとりなしを求めることにしたのだった。
 緩やかに結い上げられた髪は、世にも珍しい黒髪。やわらかで人を安らがせる空気を醸しながらも、空色の瞳から窺い知れる知性は、その美貌で王を籠絡したのではないことが容易に知れる。だからか、憂いと同情を見せながらも、見えない糸で絡めとろうとしている。そんな気がした。
「ええ、生まれ育った郷は、伝説の宝庫ですから」
 何でもないことのように微笑むアズフィリアに、尋ねればおそらく、隠しもせずにヴィスタリア一族である事も口にするのだろうとラエルは思うが、わざわざ問う気にはならなかった。
「あまり時間もないことですし、私からイェグランには取りなしてみましょう。それでよろしいかしら?」
 想像していた駆け引きの欠片すら無く、望む言葉を与えられて、ラエルにせよティレンにせよ、頷かない理由はない。ただ、ラエルを挟んでティレンの反対側にいるフレイだけは、彼らしくない険しい顔を、終止崩す事はなかった。
 先に伝令を送る時間だけは欲しいと、ほんの数刻の時間がぽかりと空いた。
 それは、強行軍で来た聖宮騎士団にとっては有り難い休息時間となった。ほどよい緊張感は保ってはいたものの、アズフィリアの心づくしで振る舞われた軽食や茶を口にしながら、直ぐに来るであろう目的を果たす時に備えていた。
 同じ女性と言う心遣いからか、ティレンには早速風呂が用意されて、それを彼女も有り難く受けた。騎士団という男所帯の中にいたというばかりでなく、極度の緊張感の中にいて、酷く疲れていた身体には、香草の香りに満ちた湯の心地良さが心の中にまで染み通るようだった。
 王都を出て以来、久しぶりにゆっくりと髪を梳いていると、部屋のドアがノックされた。
「入ってもよろしい?」
 少女のように邪気のない、甘やかな声に、
「どうぞ」
 と返した声は、自分でも嫌気がさすほど、低く素っ気ないものになった。
「間もなく伝令も帰って参りましょう。でも、軽く食事をするくらいの時間はありますわ。ご一緒にいかが?」
 疲れた身体へ負担をかけないようにという配慮だろう、客人に出すにはあまりにも素朴なものでは合ったが、根菜の入った粥が、盆の上で湯気を立てていた。
「ありがとうございます」
 ほとんど食欲などなかったのだが、侍女ではなく、わざわざアズフィリア本人が手ずから運んで来たものを断るわけにもいかない。勧められるままに、それを口にして、初めてティレンは自分が空腹だった事を知った。
 突然の訪問で、昼食を取り損ねたのかアズフィリアもティレンと同じものを、ゆっくりと口にしている。
 仮にも大国グリヴィオラの王から寵愛されているという寵姫が。
 戦などに関わりたくないと、後宮で贅沢三昧の日々を送ることも出来るだろうに。
 市井の者が口にするものを当たり前のように食している姿が、なんとなく不思議な気がして、ふとティレンの匙を口に運ぶ手が止まった。
「どうかなさいました?」
「あ、いえ……」
「ごめんなさいね、やはり戦ですもの、この街の人たちには出来るだけ負担をかけたくないのです」
 食事が粗末で申し訳ないと言外に謝られて、ティレンは慌てて首を振った。
「そんなつもりでは。ただ、アズフィリア様が、わざわざこんなところにまで、と」
「そうね、こんな戦には役にも立たない者に居座られて、この街には迷惑をかけていると思うわ。でも、ヒナコをひとりで放ってはおけませんでしたの」
「……ヒナコ、様を?」
「ええ」
「あんな、本当に小鳥のような可愛らしい方なんですもの」
 グリヴィオラ王が旅の途中で出会い、わざわざ王宮に連れて来たという寵姫の素性は知れないが、王の権威を嵩にきて、居丈高に振る舞う事もなく、逆に優しい気遣いに満ちている。そのひとが陽菜子を庇護してくれていたなら、少なくとも酷い目には合っていまいとティレンは思った。
 椀に一杯の粥を食べるのにさほど時間は掛からない。程なく食後の茶が運ばれて来た。
 清涼感があって、口の中がさっぱりとするそれは、アズフィリアの故郷でもよく飲まれており、わざわざ持参のだという。乾燥させたお茶の葉なんて、ドレス一枚に比べたら、よほど邪魔になりませんものね、と茶目っ気たっぷりに彼女は微笑った。
 二杯目のお茶には手を付けないまま、そろそろだろうかと落ち着きを少し無くしていたティレンに、
「まだ、お友達、とまではいかないかもしれませんけれど、あの方を助けて差し上げたいと思っていますわ」
 アズフィリアは酷く畏まった声音で言った。
 その声にも表情にも、ティレンを安心させようとその場限りの言葉を口にしたとも思えず、
ありがとうございます、と口にしようとして、絶句した。
「そう、こんな世界から解き放って、暖かな家族の元へ返して差し上げなければ。ねえ?」
 何もかもを、【地の星見】が、ティレンが犯した罪を、彼女は知っている。
 その確信はティレンを心底凍えさせたが、その奥で凝る毒に熱を送った。
 目を見開いたまま、問う言葉すら失ったティレンに、
「さあ、参りましょうか。伝令も帰って来たようですわ」
 アズフィリアは鮮やかに微笑みかけた。

2008.12.18


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