星月夜の森へ

─ 52 ─

 ──ああ、全く。
 アリューシャは胸の内で毒付く。
 ──何も考えてないようで、本質をきっちり突いて開き直られるのが一番やっかいだっていうのに。
 よりにもよって、最大の協力者になるはずの男は、最大の障害になろうとしている。
 もうタラダインは目と鼻の先だ。
 日暮れ前には、辿り着けるだろう。
「アリス?」
 幼少時の呼び名を、彼は未だに使う。その甘ったるい響きは幼心にも嫌いだった。
「何を難しい顔をしている?」
「明るく暢気な顔をしていられる事態じゃないだけ」
「ふうん?」
 それ以上追求したところで、彼女を更に苛立たせるだけな事は承知な彼は、しつこく言葉を継ぎはしなかった。
 彼が、アリューシャたちに合流したのは、昨夜の事だった。まるで待ち合わせでもしていたかのように、宿屋の前でちょうど出くわしたのだ。
「クリシュナ・アルヴだ。よろしく」
 アリューシャとは真逆の、友好的な挨拶ではあったが、フェンはほとんど同じ印象しか受けなかった。人当たりの良さはあっても、閉じている。それは、ヴィスタリア一族が持つ独特の雰囲気のひとつなのかもしれなかった。
 そうして、当たり前のように同じ宿に泊まり、道行きを共にして今に至っていた。
「金を落として来るついでに、あの【風聴き】には釘をさしておいた」
「……ああ、あの銀月楼の……」
 さして興味もなさそうに、アリューシャは呟いた。
 かつてはヴィスタリア一族の目となり耳となった者たちの末裔ではあるが、解き放って久しく、既に何の関わりもないに等しい。
「王都での【金の小鳥】の人気はなかなかのものだったよ。なんとか暴虐な大国の手から救えないかと、小さな子供から、強欲な商人ですら口にする」
 道すがら、そんな事を語りながら、さも面白げに笑う姿は随分と人が悪い。
「彼らの懐は潤わせておいたから、王太子一行への寄進も充分あったようだね」
「仮にもグリヴィオラの商人との取引きだっていうのに、易々とやってのけたね」
 アリューシャの方は、やや呆れ気味だ。
「あれ、言ってなかったか? 拠点こそグリヴィオラだけれど、アルヴ商会を興した初代はカーラスティンの片田舎で生まれ育ったって話。先祖の故郷との諍いに心を痛める若旦那に、皆、同情してくれたよ」
 絶句して、彼女は深々と溜め息をついた。
 この従兄は、いつからこんなに軽薄になったのか。
 飄々と。
 そうなるまでには、彼とて数多の傷を、痛みを負っているのは分かっていても、出来上がったのがこれというのも、なんだか情けない気がしないでもない。だが、この世で唯一、背中を預けるほどに信用が出来るのはこの従兄だけなのだ。

◇ ◆ ◇

 ほんの僅か、アズフィリアは表情に影を落とした。
 陽菜子は今、傷付いた兵士たちの救護に夢中だ。
 求められるままに、その手をさしのべている。
 イェグランの鶴の一声があったとはいえ、さすがにたった二日ほどでかくも人の心を掴んでしまうなどとは思っていなかった。
 いくら民に望まれても、こんな場に連れてくれば、安全で暖かな我が家へ帰りたがると思っていたのは、あまりに短慮だったのか。
 結局、由井に望郷の念を強くさせる為のエサにしか……いや、それにすらならない。由井は由井で頑だ。
 夕刻になり、ぐったりと疲れてはいるものの、どこか満ち足りた様子で街まで戻って来た陽菜子を、アズフィリアは優しく出迎えて、用意させておいた湯に入ることをすすめた。
「ねえ、ヒナコ、いいの?」
 床に入る前の僅かな時間、侍女のソナが部屋に下がる前に淹れていった香草の茶を飲みながら、尋ねてみる。
「何が?」
「こんなところに連れて来られた挙げ句に、いいように使われて」
「だって、何もせずにいられないもの」
「それは……ここにいる役割、理由が欲しいということ?」
 陽菜子は、一瞬きょとんとしたが、すぐに首を横に振った。
「怪我の手当とか、少しは出来るから……手助けしたかっただけ」
「【金の小鳥】だから、なにかしなくちゃいけない、って義務感に駆られているのかと思っていたわ」
 その言葉に、陽菜子はぎこちない笑みを顔に貼付けたまま、小首を傾げた。
 これまで、ひたすら優しいだけだったアズフィリアから感じられる棘に戸惑っているのが手に取るように分かる。
「家に帰してあげるって言っても、はぐらかされてしまうし。この世界は、そんなに居心地が良い?」
 くったりと寝椅子に身体を預けて、上目遣いに見上げるアズフィリアを、陽菜子は困惑に怯えを滲ませた目で見つめる。
「そうよね、【金の小鳥】なのだもの、誰からも愛され、世界から必要とされる。自尊心も満たされるものね」
 優しくいたわるような口調で紡がれる言葉は、じわりと確実に陽菜子を絡めとる。
 特別な存在でいる事に心地良さを感じ、優越感を覚えているのだと言外に言えば、陽菜子の性格なら、容易く自己嫌悪に陥ってくれることは分かっていた。
 慰めるように、そっと陽菜子の肩に手を置いて。
「そうじゃなかったら、勝手にこんなところへ攫われたことを、許し、受け入れる事なんて、出来やしないわ」
 まるで、陽菜子の気持ちを理解し代弁するかのように、アズフィリアは言葉を継いで行く。
「でもね、怒っても良いのよ、家族や友達からいきなり引き離した者たちに。いえ、そんな在り様の世界を、呪うべきなのよ。間違ってるじゃないの、あなたを犠牲にして、成り立つ世界なんて」
「犠牲なんて……」
「ねえ、ヒナコは好きな人はいなかったの?」
 それにはふるふると首を横に振った。漠然と、かっこいいなと思う程度ならともかく、焦がれるほどの思いを寄せる相手などいなかった。
 この世界に堕ちたはじめの頃はともかくとして、今は、懐かしいと思うことはあっても、帰りたいと思うこと願うことがないことに気付いて、陽菜子は何度も瞬きを繰り返した。
 まるで引っ越した先に馴染むと、元いた土地への執着が無くなるのに似ていた。
「きっと、急に姿を消したヒナコを、ご家族はとても心配してると思うわ」
 もちろん、ちょっと帰宅が遅くなったくらいで口煩いことを言う母親を疎ましく思ったり、何かと威圧的な父親に畏れと反発を覚えたことはある。姉のことははやり苦手だ。でも、それはその場限りの感情の波に過ぎず、結局のところ、絵に描いたような幸福な家庭に育っていることを、陽菜子は自覚していた。
 無関心、過保護、執着、依存、不和、暴力。そういったものとは、幸いにも無縁だった。
「とても素敵な家族なのでしょう? ヒナコを見ていれば分かるもの」
 陽菜子に揺らぎを見て、アズフィリアは慈愛に満ちた笑みで自分の思惑を隠した。

 その翌日も、陽菜子は駐屯地へと出向いていた。
 雲行きの怪しい空を見上げながら、一応、念は押した。
 今日にも、再び戦端が開くかも知れないと。
 だが、陽菜子は小さな笑みを作って、唯一連れている侍女のソナに、ここに残るように言うだけで、自身は迷いも無いようだった。
 とはいえ、いつもと変わらぬようでいて、どこか違和感を感じたのだろう、昨夜のやりとりを知らぬソナが、もどかしげな顔で何度も陽菜子の様子を窺っていたが、彼女自身は陽菜子の側を離れる気は欠片もない。アズフィリアは黙って二人を見送った。
 それから程なくして、身支度を整えた。侍女たちは、それを彼女の退屈しのぎの気紛れと受け取ったらしく、艶やかで華美な衣装を次々と彼女の前に広げたが、
「お客様をお迎えするのよ」
 という言葉に、訳の分からないまま、上品な薄紫のものを用意した。一見、質素にすら見えるが、手の込んだ刺繍とレースがふんだんに使われたそれは、見る者が見れば、どれほどの逸品かは一目で分かる。装飾品も虹晶石を繋いだ二連のものと、対の耳飾りだけに留めた。
 あとは、もてなしの為にフォンセ酒、それも当たり年に醸された最高級のものを用意させて、静かにその時を待つ。
 タラダインとレクサーという街に挟まれたグロディ河畔に、何もかもが集まろうとしている。
 まるで雲が渦を巻き、中心へと引き絞られて行くように、ゆっくりと、確実に。
 そして、ドアがノックされ、顔色を変えた近従から、来客が告げられる。
 晴れ晴れと、女王のような微笑を湛えて、彼女は出迎えた。
「お待ちしておりました、カーラスティンの方々」

2008.12.11


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