星月夜の森へ

─ 51 ─

 ひとり──といっても、部屋の外には当然、侍女や護衛の者たちはいるわけだが──駐屯地からは離れたタラダインの市内にある宿に残ったアズフィリアは、目を閉じたまま、くすりと口許に微笑を落とした。
 陽菜子は、【金の小鳥】は、否応無く受け入れられ、愛される存在だ。
 その手で介抱された兵たちは、痛みが和らいだ、身体が楽になったと、苦痛に歪ませていた表情を緩ませる。
 そんな光景が、アズフィリアの目蓋の裏に、ありありと映し出されていた。
 と同時に、心の中で問いかける。
 ──あなたとは、随分な違いね?
 怯えたように小さく震えたのが分かり、彼女は忍び笑いを漏らした。
 胎内でたゆたうように、小さく丸めた由井の身体は、その為にあつらえたかのような大きさの球体の中に閉じ込められていた。アズフィリアが、ほんのわずか、自らの内に潜む力を使ったのだ。そこは、彼女もしくはヴィスタリア一族にしか感知する事はできない。もしかすると、かつて一族が外を見る『眼』として世に解き放った者たちならば、分かるのかも知れないが。彼らは分け与えられた小さな力によって、【星見】だとか【風聴き】だとか呼ばれて、流転の運命を送ったようだが、今ではもう、ヴィスタリアとの繋がりを知る者は皆無だ。
 だから、そっと落としたひとしずくは、毒になっただろう。

 望みは、ささやかなものだったのに。
 ただ、外の世界を肌で感じてみたかった。
 それだけなのに。

 ひとつの望みが叶えられれば、次の望みが生まれる。
 欲に際限がないことくらい、とうに思い知り、さんざんに懲りていたはずなのに。

 その愛らしい面立ちには不似合いな、邪悪にも見える翳りを帯びた自嘲を、知らず彼女は浮かべていた。 
 まだ、由井を捕らえた事をイェグランには伝えていない。
 それを躊躇ったのは、まだ準備が整っていないからだ。
 由井が帰還を強く望むことが、なにより必要な条件なのだから。
 その意味で、由井を捕らえる時機を誤ったかも、と思っていた。
 由井を守護していた者から、離別の意志を伝えられてからの方が、事は簡単に進ませられたような気がする。
 些末な問題だけれど、とアズフィリアはひとりごちた。
 もう、手には入っている。
 この世界に拒絶されているだけでなく、荒廃の要因になっていて、それが知れれば憎悪の対象になることを告げれば、この世界に留まろうとは思わないだろうと、短絡的に考えていた。

 彼女は大きな河の流れに、礫を幾つか投げ込んだだけのつもりでいて、それは礫などではなく繁茂する植物の種であることに気付いてはいなかった。時が経てば河の流れを変えてしまうほどの。
 そしてその成長は恐ろしいほどに早いのだ。

◇ ◆ ◇

 早急に攻撃の第二波を仕掛けるべきだと一致した意見にも関わらず、愚図愚図としていたのは、ルウェルト軍の総大将であるサリューが肯首しなかったからだった。
 ルウェルト軍が被った傷は決して小さくないが、望外にも大きな打撃をグリヴィオラ軍に与えた事で、士気は相当に高まっているというのに。
 一日、いや半日無駄にしただけで、勝機が失われていくと、サリューの異母兄であり先鋒を務めるキノアは苛々とした気持ちを隠しもせず、サリューに詰め寄った。
 こんなところで感慨に耽り、民の命を無駄にする事など許されない。
 いくらカーラスティンで親しかったという【金の小鳥】とやらが、相手の陣内にいるのだとしても。
 最後の、平和的な解決を求めて送った使者が持ち帰って来たのは、
『考慮するにも値しない。我が国は、与えられた屈辱に相当する報復を行なうのみだ』
 という、そのまま突き返したくなるような言葉、そして【金の小鳥】のことだった。
 カーラスティンの、最高位の巫女が、何故?
 わざわざ疑問にするまでもない。
 冷静に考えれば、そもそもグリヴィオラの反応は最初から過剰で、こんな事態を引き起こす意図が元よりあったのだろうと分かる。波風の立たぬ関係が長年続いたこともあって、今更侵略の糸口を探していたなどと考えもしなかったのは、日和見な小国だと嘲笑われても仕方がないことかも知れない。
 そして、痺れを切らしたキノアがサリューに詰め寄っていたその時に、斥候からもたらされた情報は、またもルウェルト軍を縛りかねないもので。
「……ラエルが?」
 すっとサリューの面から血の気が引いたのが、端で見ていてもわかった。
 小規模な軍勢を引き連れてタラダインに向かっていること、そして【金の小鳥】がどうやら侍女ひとりを連れたのみでグリヴィオラ軍に居るということだった。
 意味が分からない。
 いや、サリューがカーラスティンで保護されていた経緯を考えれば、【金の小鳥】だけでなく、ラエル王子を呼びつけることはこの上ない牽制ということなのだろう。それだけでなく、長年友好関係を築いて来た両国の関係が破綻した事を知らしめることにもなる。
 ぎり、っとキノアは奥歯を噛み締めた。
 嚆矢は放たれ、後には引けない、引くわけにはいかない。
 北はカーラスティン、東はグリヴィオラ、西と南は海に囲まれたルウェルトは、完全に孤立へと追い込まれたのだと、彼らは目眩にも似た恐怖を味わっていた。

◇ ◆ ◇

 二人は、タラダインに向かっていた。
 かりそめの姿を脱ぎ捨てたとはいえ、やはりその姿は目立つ。戦の影響で街道には彼女たちの姿しかなかったが、アリューシャは最初、マントのフードを目深く被っていた。けれど春も盛りを過ぎた陽光に照らされた街道を歩いているうちに、その暑苦しさに辟易して、結局は再びありふれた色素を忌々しげに纏い直していた。
「アズフィリアとは、誰だ」
 不意の問いに、アリューシャは怪訝な顔をしたが、それは、いささか時機の外したものだったからだ。これまで何も問われないことを不思議に思ってはいたのだが。
 隠そうとは思わないが、尋ねられなければ、話す気もない。
 彼が、ようやく核心に触れる気になったらしい事に、どこかほっとしていた。
「私の妹だ。今、グリヴィオラ王の愛妾になっているようだね」
 いつもなら、行き交う人が絶える事も無い街道に、そんな会話を聞きとがめる者はいない。
「何故、さらを攫った?」
 普段は余り感情を見せないフェンが、あからさまな怒りを込めていた。
「悪戯心だろう。あの子は昔っからそういうところがある」
「悪戯心?」
「言葉が悪ければ、好奇心とでも言い換えようか。グリヴィオラ王に【金の小鳥】のことを吹き込んだのも彼女だろう」
「ヴィスタリア一族といえば、叡智を司るものと聞いていたが」
「……神の怒りを受けた、罪人の一族だよ。【金の小鳥】という装置を、この世界が必要としているのは、その罪の一端だ」
 自嘲を含ませて彼女は言う。フェンの一族にもヴィスタリア一族についてのことは、多少伝わっていた。
 曰く、世界を滅ぼそうとした為に神の怒りを受け、永遠の償いを課された一族、と。
 一族の長か、興味を持った者なら、もっと詳しい事を知ってもいるのだろうが、彼にとってはどうでも良いことだったから、記憶の糸を丹念に手繰ってみたところで、思い出したのは精々こんなところだった。
「なのに、この【金の小鳥】に彼女は干渉しているんだ。その上、【闇月】を攫ったと言う事は、【金の小鳥】を虚空に放とうとしているんだろう」
「【金の小鳥】とは、あの、カーラスティンの巫女の事か?」
 さすがに、アリューシャは足を止め、まじまじとフェンの顔を見た。
 冗談が言える質でないことは分かっている。だが、再確認するようなことでもない、常識的なことを聞かれて、驚いたというよりも、やや混乱したと言う方が近い。
「……知らなかったのか?」
「興味が無かった」
 半人半獣とはいえ、獣に近い生き方をしていれば、それも当たり前かも知れないと胸の内で納得し、軽く首を横に振るとアリューシャは歩みを再開した。物理的にも立ち止まっている時間はない。
「【闇月】がこちらに堕ちて来るなんて、滅多に無いことでね。あの子はそれだけ、どこかへ逃れたいという気持ちがあったんだろうけど。【闇月】は虚空への扉だ。【金の小鳥】を逃がすのに必要だから、アズフィリアは攫ったんだと思う。全く、何のつもりだか……」
 最後の言葉は、独り言のように滲んだ。
「それは、好奇心と言うのを逸脱していないか?」
「どうだろうね、【金の小鳥】のいない世界を見てみたいのかも知れないし、いつまでもかつての罪を背負わせる続ける神に、逆らいたいのかも知れない」
「……お前たちのいう神とは、何だ?」
 それぞれの国に、地方に、一族に、神はおわし、神話がある。
 アリューシャは特に考えるでもなく、あっさりと答えてのけた。
「世界の大いなる意志、自然の摂理そのもの、だね」
 それで彼を納得させることが出来ると思ってはいなかったが、彼は存外その答えに満足したようだった。
「さらは、ここにいても幸せになれないと、あの女は言った。ならば、在るべき世界に還れば幸せになるか?」
「それは分からない」
 アリューシャは正直に答えた。在るべき世界に在る事が幸福であると断言する事など、出来なかった。
「そんな不確かさで、あの子は帰せない」
「……え?」
「世界が歪もうが荒れようが、この世界にあの子を堕とした者が、その罪を背負えば良い」
 フェンの目がアリューシャを真っ直ぐに射抜いた。

2008.12.07


inserted by FC2 system