星月夜の森へ

─ 50 ─

 春の嵐を境に姿を消した由井の捜索は、何も情報を得られないまま十日ほどが過ぎた。
 リシェの夫ハルウェルは、いかにも理解ある顔をして、リシェがナーダの館に滞在する事を許して先に王都へと帰って行った。その帰路の間中、温厚なはずの彼を従者たちが恐れて、まるで腫れ物に触るかの如くだったのは、言うまでもない。
 そして、実に間の悪いことに、フレイから連絡が来た。
 また、しばらく王都を離れる事になったから、そのまま留め置いて保護しておくようにとく簡潔なもので、直ぐに引き取りに来るというようなもので無かった事にほっとはしたものの、今更姿を消して行方不明になってしまったことを知らせるのは、ひどくばつが悪い。
 書簡には、全くと言って良いほど現在の事情は欠かれていなかったが、ある程度はナーダの許にも情報はあった。  フレイが王太子直属となり、聖宮騎士団なる者の団長に任命された事は知っていたが、まさかグリヴィオラへ遠征に、それも信じられないほどの小規模の部隊で出るなど、彼ですら無謀だと思う。
 もし彼の父が病に伏していなければ、フレイの右肩としてナーダも共に旅立っただろう。今からでも、馳せ参じたい気持ちは逸る。けれどここのところ、調子を崩しがちで床を離れる事が出来なくなった父を置いてゆくことなどできはしないのだ。
 ナーダは、せめてフレイの無事を祈って、返信をしたためた。
 はじめの数日は、由井に懐いていた二人のこどもたちと共に、由井の無事を願い、見付かる事をひたすら祈っていたリシェは、やがて少しずつ諦めの色を見せるようになった。子供たちも好奇心の塊のような時期だ。いつまでも姿を消した人間の事だけに囚われてはいない。
 まるで、精霊が気紛れに現れたみたいだったね。
 そんな兄弟の言葉に、リシェも頷いていた。
 結局。
 由井はリシェにとって抜けない棘の象徴になっていた。
 忘れてしまえば良いのに忘れられない、苦界にいたという、その事実の。
 であれば、泡沫のように由井が姿を消してしまえば、過去を悪い夢にして、現へと目醒めることは容易かろう。
 由井の捜索がまるで進展しない中、森の家に住み始めた異国人がいる、という話を聞いて人をさしむけたものの、寸前まで誰かが生活していた気配が残るばかりで、人影はとうに失せた後だった。
 それを聞いたリシェは、ようやく気持ちに区切りをつけたらしく、ナーダにの返信を携えた使者とともに王都への帰路に付いた。
 そうして、ナーダの館から由井がいた気配は薄れ、消えていった。

◇ ◆ ◇

 ただでさえ峻厳な外見に、更に眉間に皺を寄せて、クウィルズは窓辺で腕を組んで立っていた。
 不機嫌、と言うわけではないが、思うところは複雑だった。

 本来は、第三大隊長であり国境線での紛争や街道に出没する盗賊の討伐の際の働きから、猛虎将軍という異名さえとるクウィルズだが、何故か王直々に【金の小鳥】の世話役を仰せつけられいた。しかも、王の愛妾アズフィリアからまで「よしなに」と言われてしまえば、もはや断る事はもちろん、他人に任せる事など出来ようはずもない。
 その事自体に、特に不服はない。むしろ光栄な事だと感じていた。
 王宮で過ごした数日間は、アズフィリアが付きっきりでもてなしていた。さすがにその間、クウィルズの出る幕など無かったが、それでも部下たちに、努々【金の小鳥】に対して不快な思いをさせないよう徹底させた。それは言葉ではなく彼自身が執るべき態度を規範として見せれば、言葉にする必要はなかった。カーラスティンからの道中、陽菜子の護衛に付いた者たちの態度はクウィルズから見れば、同じグリヴィオラの軍人として恥ずべきもので、それをどうにか払拭したかったのである。
 幸いにも、陽菜子はクウィルズのそういった気遣いを素直に受け取り、友好的な関係に築くに至っている。
 昔気質で、この国の人間にしては珍しく信心深い彼でも、【金の小鳥】などというのは、眉唾ものだと思う。
 こんな小柄で可愛らしいばかりの娘に、どんな力があるというのか。
 噂では、病や怪我を癒す力があるというが、有り難い巫女が手づから手当てすれば、気分的に良くなったと思い込むのは簡単な事だ。
 鬨の声と共に開かれた戦闘は、クウィルズの想像を遥かに上回り、惨憺たる様相を見せた。
 いや、第三者としてみるなら、決してルウェルト軍が被った被害とて小さくはなく、痛み分けといえるだろう。けれども、グリヴィオラ軍が負った最大の傷は、その高慢な自尊心なのだ。
 それなのに、その場へ出向くなど、無謀にも程がある。
 クウィルズは、陽菜子が戦場へ足を向ける事を、最後まで反対していたが、陽菜子は聞き入れなかった。厳しい顔を見せれば簡単に御せるかと思いきや、少女は意外なほどに頑固な一面を見せたのだった。
 恃みのアズフィリアは、あれほど陽菜子の安全に心を配りながら、ほとんど引き止めはしなかったし、本人もちの匂いのする場所には生きたくないと同道すらしなかった。いや、自分が共に行かないとなれば、陽菜子が断念すると思ってそういったのだろう。逆にそれが徒になって、陽菜子に付いて行けなくなってしまったに違いない、と彼は思った。
 戦場には似合わない可憐な姿を見るなり、兵士たちから陽菜子に向けられたのは、憎悪だろう。
 ──何が幸運の象徴だ
 ──寧ろ禍いだ
 ──影で呪詛でも掛けてるんじゃないか
 それが子供じみた八つ当たりだと自覚することも出来ないほどに、彼らは恥辱に溺れていたのである。
 カーラスティンから持参した堅苦しい衣装ではなく、アズフィリアが贈った動きやすい服を身に付け、ふわりとした髪をきっちりと結いた姿で、陽菜子は看護兵の手伝いを申し出た。
 あからさまな拒絶は出来ない。
 でも、看護兵とて、気持ちは負傷兵たちと同じで受け入れたくなどなく、どうせろくに役立つわけも無いのに、のこのことこんな場にしゃしゃり出て来た小娘に向ける視線は冷ややかになっていた。
 それに気付いていないわけもないのに、陽菜子はやわらかな表情を崩す事無く彼らの手伝いを始めた。
 知識はそれなりにあるらしく、口にする前に手渡される薬草や道具は的確で、包帯を巻く手も慣れていることに、彼らは驚きながらも、無言で作業を続けた。
 それでも。
「【金の小鳥】の手を煩わすなんて、恐れ多い」
 と、手当を拒む兵がひとり出ると、それは次々と伝播した。
 言外に、『親切ごかして呪いでもかけられでもしたら、たまらない』、と。
 そんな声を払拭したのは、
「死者が出なかったのは奇跡だな。【金の小鳥】に感謝しろ」
 という王の一言だった。
 負傷した兵を見舞うにしては、冷ややかな王の目に、床に伏せる兵たちも己の無様さをようやく認めた。
 重傷者は少なくない。応急手当の後、本国へ送還されるだろう。けれど、不思議なほどに、命を失った者はいなかった。
 その事実を王の口から言葉にされたことで、目に見えて空気の色が変わったのである。
 明らかに、陽菜子を【金の小鳥】、幸いをもたらすもの、として。

 その事は、喜ばしいと思う。
 けれど、クウィルズはそこに作為めいたものを感じずにはいられなかった。
 もともと、グリヴィオラ王イェグランには、芝居気がある。
 豪放磊落な王。快活だが怒りは苛烈で慈悲深さとは程遠い。
 その座についたときは、その破天荒さに誰もが眉を顰めたものだ。
 今では、隣国と戦を起こす事態になってでさえ、誰も異を唱えることはない。それでこそ我が王とすら思っている節すらある。
 派手な印象から誤解されがちだが、決して浪費家ではないし、美辞麗句に惑わされることもない。
 実際のところ、施政は堅実で不公正である事を酷く嫌う潔癖な面もある。まだ正妃を娶っていないのが、大臣たちの頭痛の種とはいえ、寵愛するのはアズフィリアただひとりで、歴代の王たちのように、後宮に何人もの妾を侍らせる事を厭っていた。アズフィリアの美しさや慎ましやさと相俟って、周囲には好ましく映る。
 こちら側に見せているのは、万華鏡のように持つ多くの顔のほんの一部でしかないのではないか──それどころか、もしかすると作られた仮面しか見せられていないのではないかと、ふと不安が過ることもある。
 いずれにせよ、イェグランが王という役目を放棄しない限りは、クウィルズにとってはどうでもいいことではあるのだが。
 今、重要なのは、陽菜子と共にいることで、一歩引いた場所からこの戦を見ているせいだろうか、覚える違和感の正体だ。
 果たして、あの程度の事で、ここまで事を大きくするほど、自尊心の低い王だったろうか?
 いつもなら豪快に笑って打ち捨てたであろうに。
 ──唯事では終わらないような気がする。
 戦そのものが、唯事では有り得ないのだが、嫌な予感、という、あまりに漠然としたものを胸の内に蔓延らせたまま、クウィルズはただ事の成り行きを見守るしかなかった。


2008.12.03


inserted by FC2 system