星月夜の森へ

─ 49 ─

 儚げとまで言えるほどの細く頼りなげになってしまった姿で、ゆっくりと山の道を歩く由井の姿を、少し離れた場から見守るのは、フェンにとって午後の日課になっていた。
 人目につかない為に、散歩出来る場所が足許の悪いそんなところにしかなく、まだ覚束ない足取りでは時折、蹴躓いて転びそうになったり、実際転んでもいた。
 横に並んで、手を貸してやれば良い。
 そうしてやりたい気持ちは有り余るほどあった。
 でも、あの手を今掴んでしまったら、離してやる事は出来なくなってしまいそうで、ただじっと目を閉じてやり過ごした。
 それは、また傷付けてしまうかも知れないという恐れではなく。
 気の根元にある日溜まりに腰を降ろした由井を見つめながら、フェンは何度も反芻している事を、再び脳裏に甦らせていた。

 いきなり現れて、「責任をとってもらう」などとうそぶいた女に、フェンは黙って付き従った。
 そうすべきだと思ったのは、森で遭遇した相手との力関係を瞬時に見極めるのと同じ感覚で嗅ぎ取った、彼女の異様さに気付いたからだ。
 女の外見に目立つところはない。黄味の強い茶色の瞳と、枯れ野原を思わせる薄茶の髪などありふれているし、整った顔立ちはしていても、誰もが振り返るような美しさというのとは少し違う。でも、頭からすっぽりと布を被ってしまっているかのように、彼女が本性を見せていないことを彼は感じていた。
 何の説明も言い訳もせず出て行ってしまったから、後に残された幼馴染みたちは、今頃酷く困惑しているだろう。申し訳ないと思うが、余計な気を回したジェイドには、ちょうどよい意趣返しになった。これで、あの二人が上手く納まってくれれば良いとフェンは思う。
 着の身着のままの彼を連れ出した女は、彼に相応の旅支度を整えさせて、その足で王都を出た。彼の爪に傷付いた由井を連れて行った男たちの館に向かっている事など、わざわざ尋ねるまでもないことで、道中に交わした言葉は少ない。
「あの子が異形なのは、知っているね?」
 それが髪と瞳の色を指すのか、性の曖昧な肉体を指すのかは分からなかったが、彼は浅く頷いた。
「それが何よりもこの世界に拒まれている証だよ。早く、在るべき世界に帰してやらないと可哀想だろう」
 不思議とその言葉は真実として胸の奥に沈んでゆく。
 けれど。
 由井の為になら、一族との関わりを断って、人として生きても良い。そこまで思ったのだ。簡単に頷けるはずもない。
「あんたがあの子を手放さないつもりだったら、事はもっと面倒だったけどね。問題はあの子の方。何か話は聞いてる?」
 彼はゆっくりと首を横に振った。
 ある程度の事情は察している。しっかりと閉じたはずの結び目から零れた砂のように、僅かな言葉の断片からは。
 だがそれは、あくまで由井の独り言の範疇を出ない。
「そう。困ったな。あの子が帰りたがってくれないと、埒が明かないのに。手っ取り早く、あんたに突き放してもらうしかないかもしれない」
 それは容易い事に思えた。
 あの血に濡れた姿を思い出せば。
 いくら獣の姿を捨てたとしても、己の爪が犯した罪は、この世で一番頑丈な鎖となって自身を縛る。
 が、同時に、請うように伸べられた腕と、縋るような瞳を思い出してしまう。
 あの手をとって、森の奥へ攫っていたなら。
 冷たくなってゆく身体をその腕で抱きしめることになったかも知れない。彼の故郷でならいざ知らず、森の中で、あの傷を癒す術を彼は持っていなかったのだから。
 命を取り留める可能性に賭けていたなら、今頃は、どこかで静かに暮らす事が出来ていただろうか。
「……あの子の存在は、この世界を歪めるよ。せっかく【金の小鳥】が降りて、歪みが正されたというのにね」
 まるで彼の思考を呼んだかの如くな言葉が、女の口から紡がれる。
「安定しない気候、繰り返される天災、荒れてゆく大地。そんな世界で、そんな世界にしたという罪を背負って、それでも二人で生きていきたいと言うなら、いっそ止めないけれど」
 不意に軽口めいて揶揄するような口調の中に、ぞくりとする冷たさを孕んでいた。
 ちらと見た女の横顔からは、何を思うのかは窺い知れなかった。

 甘やかな罪を背負って生きて行くことに、夢を見るような叙情性をフェンは持ち合わせていなかったし、そんな不幸な世界に由井を留まらせたいとも思えない。
 帰るところがあるならば、帰るべきだ。
 女は、由井が彼を逃げ場にしていると言った。
 それは言葉にされずとも彼自身感じていた事だ。
 けれど、時折零れる言葉には、郷愁とともに、帰りたくても帰れない、帰ってはいけないのだという、そんな響きが常にあった。
 単純に彼が突き放して、帰りたいと思うだろうか。
 また、石か落ちていた枝でも踏んだのか、身体をふらつかせた由井を落ち着かない気持ちで見つめながら、フェンは溜め息をつく。
 どうすれば良いのか見極められないまま、彼はただ見守るだけという、アリューシャに言わせれば逃避に近いことしか出来ないでいた。
 だから不意にもたらされた言葉は、彼の意識を向かせるには十分なものだったのだ。
「だったら、あの子に見せてあげましょう。自分と同じく、この世界に堕ちた少女が、どれほどこの世界に祝福され、必要とされているのかを」
 何の前触れも気配もない囁きに、彼は全身に緊張を漲らせて周囲を警戒した。
 声は、まだ歳若い女のもので、その主とは違う無骨な気配は、まだ遠い。なのに、声ばかりは息がかかるほどの側でする。
「そうすれば、あの子もここに居場所がないのだと悟るわ。ここにいたってあの子は幸せじゃない。だから、帰してあげなくちゃ」

 女が、アリューシャが何か大きな事を隠している、もしくは意図的に話していない事には気付いていた。
 それでも、己の爪の牙が二度と傷付ける事の無い世界へ帰してやりたいとは思う。
 欲を言えば、そこが由井にとって、幸福な場であってほしい。
 帰りたくても帰れない、ましてや帰ってはいけないなどと思い込むような、そんな事情を取り除けるものなら取り除いてやりたい。
 そうでなければ、安心して手放してなどやれないではないか。
 だから、予期せぬ誘惑めいた囁きなど、耳を貸そうとは思えなかったが、由井から意識を引き剥がされたのは確かだった。
 気が付いた時には、不穏な気配に囲まれていた。
 自分の迂闊さを呪うよりも先に、由井の姿を探す。
 何の変哲も無い旅装束を身に着け、行商人を装った男たちに囲まれて、助けを求めるようにフェンの方を見ていた。
 手を伸ばすのは簡単だ。
 けれど、おそらくは手練の者たち数人を相手に、その姿では心許ない。
 相手を確実に退ける姿は、鋭い爪と牙を伴っている。
 ひたすらに、赤い記憶。
 その姿をまた由井に見せるだけでも、胸が軋む。
 僅かな躊躇いが、彼から、由井を奪い去った。
 ふわりと。
 由井を取り囲んだ男たちが、投網のように由井に向けて投げた布が大きく広がり、地に落ちた時、その下に囚われたはずの由井の姿が、何処にもなかった。

「さら……?」
 瞬時にして逃げ去った男を追う事も無く、フェンは広がる布を乱暴にまくり上げた。
 当然、そこには誰もいない。
 何が起きたのか、分からなかった。
 呆然と立ち竦む彼の元に、息を荒らしたアリューシャが掴み掛からんばかりの勢いで駆け寄って来た。
「何があった!?」
「……さらが、消えた」
 彼が掴んでいた布をアリューシャは引ったくり、表情は益々険しくなった。
「アズフィリアの仕業か……」
 苦々しく吐き捨てると、みるみるうちに、枯草色の髪は深い闇を湛え始め、琥珀の瞳も薄明時の空の色へと変化した。
「もう、なりふりかまってもいられないな」
 そう呟いて、彼女はかりそめの姿を捨てた。

2008.11.30


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