星月夜の森へ

─ 56 ─

 まさに今、刃が交えられんとするその場に、陽菜子を乗せた軍馬は躍り入った。
 剣を振りかざす者も槍をつがえる者も、敵味方の区別も無く蹴散らす猛り立った姿は、戦神に憑かれたかのように激しく躍動し、憤怒の炎すら見えるかのようだった。獰猛な嘶きは獣の咆哮を思わせ、草を食むその歯で、立ち向かって来る軍馬の首筋を容赦なく噛み裂く様子は、確かに獣と言う方が相応しい。
 その背にある陽菜子は、振り落とされる事も無く、そこにあった。
 ただ必死にたてがみにしがみついているだけだったが、傍目には小柄な身体でこの怪物の如き軍馬を果敢に操っているように映っていた。
 まるで、この戦いをやめさせようとしているかのように、刃を打ち合う者たちの間に割り込み、勢い余れば、騎乗する人間ごと馬を蹴り倒す。
 奔放に駆け回り、突進して来た者に対して、威嚇の意味も込めて前足を思い切り高く蹴り上げ、後ろ足で立ち上がった。
 そんな激しい動きに、馬に馴れぬ陽菜子が耐えられるわけも無く、軽々とした身体は容易く宙に放り投げられてしまった。
「ヒナコ!」
 喧噪の中に、鋭い声が切り込まれたが、その主を確かめる間もなく、凄まじい衝撃が彼らを襲った。
 それは、天をも割らんばかりに槌が振り下ろされたかのような、耳をつんざく轟音だった。
 肌で直接感じ取れるほどに空気が振動し、一体何事かと天を仰いだ時には、目を眩ます光の瀑布が凶暴な竜を彷彿とさせる勢いで天から流れ落ちていた。それは両軍を引き裂かんとばかりに河の流れへ注ぎ込み、光の奔流は、泥に濁った河の水を黄金に輝かせ、曇天の薄闇を、真夏の黄昏時に染め変えた。
 
 一瞬、時が止まったかのように、全ての動きも、風さえもが凪いだ。
 ぴんと張り詰めた空気の中、耳に痛いほどの静寂が辺りを支配する。

 叩き付けるように降り出した雨が、その衝撃に我を失い立ち竦む者もを正気付かせた。
 それが、落雷でない事は明らかだった。
 まともに光りそのものに打たれたはずなのに、身体の何処にも、熱も痺れも感じてはいなかったのだから。
「……怒りだ、神の」
 誰とも無く呟やかれた、そんな言葉が伝播する。
 グリヴィオラの兵士たちは誰の命も無く、己の陣営へと引き返し始めた。
 その場から逃げ出し始めたと言った方が正しいだろう。
 ──神の怒り。
 彼らには、心当たりがある。
 いくら王の気紛れとはいえ、戦場という不浄の場に【金の小鳥】を、至高の巫女を引きずり出し、酷い言葉までも投げつけた。しかも彼女の慈悲深さに甘え、穢れた傷の手当てまでさせていたのだ。挙げ句の果てに、その命を危険に晒したのでは、神も彼らを許すまいと、身を震わせずにはいられなかった。
 本来ならば、浮き足立ったその隙をついて、そのまま敵陣へとなだれ込むべきであったのに、ルウェルト軍が一斉に引き上げ始めたのは、先鋒を務めるキノアが正気付くなり、この雨、そして風向きと雲の流れを咄嗟に読み取って、撤退の命をあらん限りの声を張り上げ、叫んだからだった。
 その判断がなければ、おそらくはルウェルト軍は好機とばかりにグリヴィオラ軍の後背へと襲い掛かり、戦わずして軍の大半を失う事になったに違いない。
 地響きとともに、津波のように高く盛り上がり、大岩をも押し流す濁流が、何もかもを飲み込もうとする大蛇が鎌首をもたげるが如くにグローディ河の上流から襲い掛かって来たのだから。

 気が付いた時には、身体は放り出されていて、頼りなく手足を宙に泳がせていた。
 ただ、何故か必死で天に向かって手を伸ばしていた。
 誰かに、神に助けを求めたつもりはまるでなかったが、無意識に誰かに、何かに縋ろうとしていたのかも知れない。それに応えるかのように、天から流れ落ちる光が、陽菜子の視界を黄金色で埋め尽くした。
 あんな背の高い馬から落ちたら、痛いだろうなと、落下してゆく感覚を酷く緩慢に感じていたのに、受け身を取る事すら忘れていた。
 空が、遠ざかる。
 身体に衝撃が走ったのは、そう思った直後の事だった。
 想像していた激痛ではなかったが、荷物のように乱暴に引き上げられて、そのあと身体を締め付けて来た力の強さは、息苦しいほどだった。思い切り身体が押し付けられているものの正体が鎧だと気付いて、自分の身体を拘束しているのは、人の腕だと知った。
「お前は莫迦か……!」
 その声に、慌てて見上げれば、不機嫌極まりない顔がそこにあった。
 やっぱり王子様には黄金の光が似合う。
 場違いな事を感じながら、陽菜子の口から零れたのは、素朴な疑問で。
「どう、して?」
 それが悲壮に満ちた声ならばともかく、その場には不釣り合いな、きょとんとした、長閑ともいえる危機感も切実さもない声音に、思わずラエルは苦笑をもらした。
 
 ゆっくりと光が散って行く。
 
 激しく降りしきる雨の中、河の中央に光の残照の中に、二人の姿があった。
「ラエル殿下!」
 混乱の最中、ラエルに遅れをとったのは、時間にすればほんの僅かな時間ではあった。が、その差が勇猛果敢にして忠義に篤い彼らに果たすべき役割を与えなかった。
 彼らの目の前で、二人は濁流に飲み込まれた。

 視界を塞ぐほどの勢いで降りしきる大粒の雨の中、馬車を降りたティレンは呆然と立ち尽くしていた。
 それは、この場に居合わせた者全てが、そうであったろう。
 やや高台になった場所から、彼女は一部始終を見ていた。
 それでも、これが神の怒り故なのかどうか、彼女には分からない。けれども、グリヴィオラ王から陽菜子を取り戻す良い口実が出来た事は分かっていた。もっとも、このままこのばかばかしい戦が続くとも思えなかったが。
 雨足が弱まり、駆けるように流れていた、分厚い雲が切れ始めた。
 陽光が雲の隙間から一条、射したかと思うと、それは次々と放たれる矢の如くに地上へ降り注ぐ。
 つい数瞬まで、あれほどにうねり荒れ狂っていたグローディ河の水は、急速に引き始めていた。
 流された者は少なからずいたのだが、少し下流のあちらこちらで、泥まみれな姿がむくりむくりとを身を起こしていて、あれほどの激流に攫われたとはとても思えないほどの、暢気な間抜けさがあった。陽菜子を振り落としてしまった軍馬も、さすがに流されてはいたものの、身体に纏いつく泥を振り落とそうと周囲に飛び散る事など当然気にもせず、思い切り身体を震わせていた。その泥を浴びた兵士たちは、
 そして、濁流にのみこまれたはずの陽菜子は、ラエルに抱きかかえられて、降り注ぐ光の中にあった。
 泥に汚れるどころか、まるで濡れた様子も無い。
 ラエルが騎乗している馬もまた、グリヴィオラの軍馬ほどではないにせよ、立派な体格をしており、尻尾を振る姿はどこか誇らしげにも見えた。
 その二人に、聖宮騎士団の者たちが次々と駆け寄り囲んでいる。
 歓喜と安堵に満たされているはずのティレンの表情は硬く、酷く醒めた視線を彼らに向けていた。
 その背を、アズフィリアは見ていた。
 まさか、こんなことになるなど、彼女自身思いもしなかったし、気紛れに訪れる未来の光景にも覚えがなかった。
 凄惨な戦闘の現場を目の当たりにすれば、さすがにこの世界に嫌気がさすだろうという思惑は見事に外れ、【金の小鳥】は奇跡とともに、その戦いを止めてしまった。おそらくはグローディ河上流での激しい豪雨が、あの激流をもたらしたにせよ、あの光の奔流は紛れも無く、奇跡、神の御業というべきものだった。
 自覚の有無はともかくとして、彼女はもう、かつて在った世界こそが鳥籠で、此処こそが羽を思い切り伸ばし、自由に羽ばたける己の森であることを知ってしまったのだろう。もう、どれほど感情を揺さぶり、帰郷の念を呼び覚ましたとて、この世界に在る事を望むに違いない。
 どのみち、【闇月】が虚空の扉を開けなければ、【金の小鳥】がこの世界から飛び立つ事は出来ないのだ。
 蜘蛛が獲物を絡めとるように、ゆっくりと由井の心を捕らえようとしても、由井は存在そのものを拒み初めている。それはまるで孵化を拒む雛のように。
 アズフィリアが目にし、感じていることをそのまま由井の中へと送り込んでみても、感情が揺れない。由井さえ帰りたいと強く願ってくれれば、その場に【金の小鳥】を居合わせるだけで二人ともが元の居場所へと帰る事ができるというのに、そこへどうして導けないのか。
 こんな異郷の地にあることを、どうして受け入れてしまえるのかアズフィリアには分からない。

 ──同じように堕ちて来たのに、彼女だけが、あんなにも満たされている。
   彼女がいるだけで、この世に幸福が満ちる。

 その言葉を拒絶するように、硬く硬く身を縮めて。

 ──妬みなさい、彼女を。
   憎みなさい、この世界を。
   哀れみなさい。
   意思を問われる事も無く、この世界に堕とされた自分を。

 一体、どんな言葉なら、心を揺らがせる事が出来る?
 穏やかに諭す口調はそのままに、アズフィリアの中では苛立ちが募り始める。
 この世界に執着があるわけではない。ただ、帰りたくないという、それは願いでも望みでもない。ただの逃避だ。
 ──この世界にとって災厄というなら、いっそ殺してくれれば良い。
 そんな言葉を戯れ言でなく口にしてしまえる由井を、哀れにすら思うが、こんな、【金の小鳥】などという装置を必要とする世界こそ、本当の意味で哀れだ。
 例え自分の罪に起因しているのだとしても、寧ろそうであるからこそ、二人をこの世界から解放したいのかも知れない。
 最早、陽菜子や由井の意思など関係なく、それはアズフィリアの願いにすり替わってしまっていることに、彼女自身、目を塞ぐ。
 でも、二人ともが解放を望まないのなら。
 アズフィリアは、光注す中で雨に濡れたまま立ち尽くすティレンの背を、改めて見つめた。
 その胸の奥に沈む毒の熱が、彼女を支配する事を願って。

2008.12.31


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