星月夜の森へ

─ 47 ─

 なかなか高熱が引かず、夢とうつつを行き来していた由井が自らの置かれた現状を認識したのは、アリューシャたちに保護されて数日後のことだった。
 宿代わり借り受けた家は、人里からはやや離れた森の中にあり、不便で申し訳ないと貸し手に恐縮されたが、彼女らにとっては逆に都合がいい。荒れた雰囲気や家具の痛みなどなかったのは、住人が絶えてさほど間がないらしい。空気を入れ替えてホコリを払ってしまえば、大切に手入れをされていたのだろう、随分と住み心地がよく、馴染むのはすぐの事だった。
「気分は?」
 傍らの椅子に掛けていた女の問いに、どう答えたものか分からなかった由井は軽く首を縦に振った。
 それをどういう意味に取ったのか定かではないが、女は更に問いを重ねた。
「お腹はすいてる?」
 これには首を横に振る。
 本当に空腹など感じていなかったのだが、その反応に女は眉を顰めると、薄茶の髪をぞんざいにかきあげて、女は琥珀色の瞳で由井の顔を覗き込んだ。
 ──夢、だったのかな。
 薄い膜に隔てられたような不確かさではあったけれど、覚えのあるぬくもりを感じて、欲するままにその暖かさと眠りを享受していた。が、目覚めてみれば、見知らぬ場所で見知らぬ女がいるばかりだ。
 視線を彷徨わせる由井に、その意味を察しての事だろう、
「ああ、あれは今、狩りに出ている。夕飯の食材がもうないから」
 と言うと、女はふいと部屋を出て行ってしまった。
 ──じゃあ、夢じゃなかったのか。
 銀月楼を去るときは、気持は上擦っていたけれど、それなりに周到でいられたのに、ナーダの館からは、ただ逃げ出して、森へ帰ることしか考えられなかった。あの嵐の中を着の身着のまま、路銀の足しになるようなものは何一つない状態で、無謀にも程がある。
 身体を起こそうとして、ぐらりと目眩に襲われた。
 肩肘を付いて、どうにか半身を起こし、寝台から足を降ろすだけのことで、じっとりと汗が滲む。立ち上がろうとしても、まるで足腰に力が入らない。そうこうしているうちに、女は湯気の立つ木の器を手にして、部屋に戻って来た。
「大人しく寝ておいで。まだろくに動けないだろうに」
 呆れながらも、由井が楽に上体を起こしていられるように枕の位置を整え、腰のあたりにまで上掛けを掛けてやり、
「お腹が空いてないといっても、体力が戻らないからね」
 器と匙を由井の手に渡した。
 湯気を立てていたのは、根菜と肉が細かに刻まれた粥だった。
「それくらいなら食べられるでしょう」
 こくりと頷いて、由井は匙を口に運んだ。
 ほのかな塩味と香草の風味がじんわりと身体に染み通り、暖めてゆく。
 傍らの椅子に再び腰を降ろした女は、組んだ膝の上で頬杖を付いて、その様子を眺めていた。
 半分ほど食べたところで、由井は匙を置いた。
 さすがに、それ以上を受け付けるほど胃の方が回復していなかったことは分かっていたのだろう、女は何も言わず器と匙を受け取ると、いったん部屋から出て行き、代わりに薬湯を満たした茶碗を持って戻って来たのだった。
「ゆっくりで良いから、全部飲みなさい」
 匂いからして苦そうなそれを渡しながら、嫌そうに顔をしかめる由井に女は釘を刺した。
 恐る恐る器に口を付けて、少し啜っては飲み下す。
 見た目に違わず、舌が痺れそうなほどの苦さのそれは、「いうこときかない子は、アムリのお茶を飲ますよ!」と子供への脅し文句になっているほどのものだと由井は知らなかった。さすがに、ぎゅっと目を閉じ眉を顰めている由井に、
「そういえば、まだ名乗ってもいなかったね。私はアリューシャ。アリューシャ・テ・クーン・セレスト・ヴィスタリア。ツァルト国の片隅で、ほそぼそと長らえている一族の末裔だ」
 と女は名乗った。
 そう言われたところで、由井にはぴんとこなかったし、アリューシャが長ったらしい正式名を名乗った意味も、当然知る由もない。
「あなたは由井如月ね?」
 この世界で口にした事のない氏名で呼ばれて、由井は身体を強張らせた。小刻みな震えが、茶碗に残る薬湯に細波を立てる。
 由井は、ユイという名しか名乗った事がない。その短い名が馴染まないのか微妙に発音し辛いのか、この世界ではいつの間にかユゥイと呼ばれるようになっていた。にも関わらず、彼女は異言語独特の訛りもなく、由井の名を音にした。
「私も皆に倣ってユゥイと呼ばせてもらうわ。さら、とは呼ばれたくないでしょう?」
 それは、ただの確認で布かなかったが、アリューシャの口調は確信を持っていて、その名に、某かの意味がある事などお見通しのようだった。
 そう呼んで良いのは、秋津家のひとたちと、フェンだけだ。
 まじまじと由井は、傍らにいる女を見た。
 いつか見た、一面のすすきの原のように、光に透けてきらきらと輝く淡い茶の髪と、十五歳の誕生日にもらったネックレスのヘッドを飾る琥珀にも似た瞳。歳は二十歳半ばにも四十過ぎにも見える。
 彼女に、フェンは特別な呼び名を教えてしまったのだろうか。
 いや、それが特別だと思っているのは自分だけなのだから、仕方ない事なのか。
 そっと彼女の手が伸び、ほっそりとした指が軽く頬を撫で、由井の髪を梳いた。
「……無茶な事をしなくても、私たちはあなたを迎えに来ていたのに」
 琥珀の瞳から、何も汲み取る事は出来なかったけれど、それは多分、女の独り言なのだろうと由井は、何も返さなかった。
 そんな事は由井には与り知らぬことだし、そもそも彼女の名や出自を教えられたところで、その正体が分かったわけでもない。
 それに。
 諦めていた。
 最後に見た瞳にあったものは、自分の爪が由井を傷つけたことへの哀しみと、その先にも有り得るという恐怖。そして未来への絶望だ。
 傷が癒え始めて、ようやく気持ちが落ち着いて来ると、むしろこのまま彼が迎えに来なければ良いとさえ思った。
 傷つける事を恐れてくれたなら、大切にされていた証だ。
 醜い形ではあるけれど、身体に刻まれたそれは、生涯消えないだろう。
 ならば、良い。
 かつて与えられた熱も痛みも、そういう事なのだろう。
 ならば、良いのだ。
 そう思っていたはずなのに、突然のリシェの訪問は、思いの外激しく由井の感情をかき乱していたのだった。でなければ、いかな由井だとて、嵐の中に何の準備もなく出ていくほどの酔狂なことなどしない。
 まるで熱に浮かされたかのように、本人は酷く冷静なつもりでいて、狂おしいほどの焦燥に支配されていた。
 その源の感情に、由井は名付けられない。

 夕方になり、夜の帳が降りてもフェンは由井の前に姿を現さなかった。
 その頃にはまた熱も上がり、身体を起こす事すら難儀で、せっかくアリューシャが運んで来た夕食は、ほとんど口にする事も出来なかった。もっともあの苦い薬湯だけは茶碗に一杯、しっかり飲まされたのだが。朦朧とした意識の中で話し声、といってもアリューシャの声だけだが、由井の耳にも届いていたから、家には戻って来ているのに、わざと会いに来ないのだと知れた。
 距離を置かれている事に哀しみはあったけれど、近くにその気配を感じているだけで不思議と安心していて、一刻も早く会いたいという、恐怖にも似た焦りはどこにもない。
 触れ合えるほどではなくても、感じられるほどの近くに居てくれさえすれば。
 とろりとした眠りの淵に、そのまま由井は身を委ねた。
 懐かしい夢を見た翌朝、フェンは食料の調達を理由にとうに出掛けた後だったけれども、気持は十分に落ち着いていた。それがさらに翌日も繰り返され、由井が外を出歩けるようになっても続いていた。
 そのあまりに不自然な行動の理由を、由井は問わなかったし、敢えてかどうかはともかくアリューシャも話さなかった。
 とはいえ。
 確かにそこにいると感じられてはいても、人は貪欲だ。
 物足りなくなる。
 何がかが胸の中で軋み始めている事に、由井は気付かぬ降りをし続けた。
 家の周りを散歩する事はともかく、家が見えなくなるような場所までは行くなと言われていた。かといって、家の中に籠りきりでは、体調は回復しても体力は落ちる一方だ。
 ナーダたちが捜索していないとも限らないし、やはり黒髪黒瞳の目立つ容姿を村人たちに見られて、益になることは何もないというのがアリューシャの言い分だったし、尤もな事だと由井も思う。
 だから、村へ続く道ではなく、裏山の獣道で、出来るだけ緩やかなところを選んで散歩するのが日課になっていた。
 狩りに行くだけでなく、その獲物や採取した薬草などを持って村まで行っては野菜やパンと交換してくるのが、フェンの日常のようだった。まるで行き違うように姿を見る事はないけれど、こうして散歩していると、さほど離れてはいないどこかで見守る目があることを、由井は感じていた。
 ささやかな幸福に似た日々。
 それで十分に満たされているのだと。
 どれほど嘘くさく、かりそめのものでしかないのだと知っていても、ひび割れて砕けそうな結晶を護るように、互いに己を騙していたのだった。
 
2008.11.20


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