星月夜の森へ

─ 46 ─

 それは、ほんのひとしずくの毒。
 あの人が面白く生きたいと言うのなら、それに助力するくらいは許されるでしょう?

◇ ◆ ◇

 莫迦な事を言った、という自覚はあった。
 ここ三日ほど、ティレンは自宅にも帰らず、聖宮の奥、天球石が納められている【薄明の間】籠り、誰と会う事も拒絶していた。
 知らねば気付かぬような扉の向こうにある階段を下りた先にあるそこは、天然の洞窟を利用して作られており、一年を通して一定の環境が保たれている。故に季節の感覚もなければ、朝なのか昼なのかも定かではない。外部とは全く切り離された静謐な空気は、今のティレンにとっては孤独感を募らせるより、安らぎを与えていた。
 あの時、フレイは困惑しながらも冷静で、少し考えさせてくれ、とだけ言った。
 それは甚だ救いだと思う。
 けれど、心の奥底では、余計な理性など砕けていれば良かったのにという、昏い願いは消し去れない。
 泣いて縋れば、あの幼馴染みの事、少なくとも表向きはティレンの願いを受け入れてくれただろうに。
 家同士の付き合いは古く、幼い頃は一緒に過ごす機会の多かったフレイは、年下のティレンの面倒を見るような殊勝な性格では決してなかった。途中でティレンを置き去りにしてひとりでどこかへ行ってしまうこともままあった。けれど、ティレンの母親が亡くなったときだとか、酷い風邪をひいて寝込んでいるのに、父親が王城に詰めていて帰らない日が続いたときだとかは必ず側にいて、季節外れでもティレンの好きな果物を手に入れてくれたものだ。
 燭台の灯りもかそけき薄闇の中、良く晴れた夜空をそのまま結晶化させたかのような、深い闇を湛えた球体を見つめる。
 内包する星々の中で、ひと際目を引く金色の星と、三つの妖星、そして密やかに闇に沈む月。
 ただの鑑賞物であるならば、これほど美しいものもあるまい。
 聖宮の奥に秘された宝玉。
 その存在を知るのは、聖宮内でも一握りに限られている。
 【地の星見】以外の者にとって、天球石は漆黒の球体にすぎない。
 その裡に星々を見ることが出来る者は、【地の星見】以外にもいるのかも知れないが、その称号を持てるのは、天球石によって存在を示された者のみだ。ティレンもそうして聖宮から迎えられた。そして、彼女よりも的確に星を読み、鮮やかな色を見て取る者はおらず、こうして、【薄明の間】に籠る者もいない。
 ふと、天球石の中に、小さな光の揺らぎを見た気がして、ティレンはゆらりと立ち上がった。
 陽菜子を取り戻す事を、彼女はもう諦めてしまっていたし、何より、陽菜子に無理にでも同行しようともしなかった己の不甲斐なさに失望していた。当たり前のように陽菜子の側を離れる事なく、今も一緒にいるだろうソナに、全てを託してしまっていた。
 それでも、何か出来る事はないのかと足掻くくらいには、まだ全てを諦めきってもいなかったのだ。
 ここ数日、まともな食事も睡眠も取っていなかったせいか、身体はふらつき、覚束ない足取りは、天球石を支える台座を軽く蹴ってしまった。
 ことん、と、音がした。
 陽菜子が現れたときの、光の花を模したその台座の花びらが一枚、落ちたのだ。
 軽くつま先が当たっただけだったのに、と、怪訝に思いながら、焦る様子もなくティレンはそれを気怠げに拾い上げた。
 薄明かりの中、微かに浮かび上がったものに、ティレンは目を見張った。

◇ ◆ ◇

   結局のところ、宰相に知り得た情報を伝えたフレイは、騎士団での待機を命じられたまま、無為に日々を過ごしていただけだった。補給路や兵の配置に関して益になる情報の他、グリヴィオラ王が【金の小鳥】を借り受けただけでなく、【闇月】までも手に入れようとしているらしいことを伝えると、見る間に顔色を変えたが、それ以降、何の沙汰もない。
 助力を求めて来るだろうと思われたルウェルトからは、サリューの保護に関する礼状は届いたものの、兵どころか物資の援助すらを匂わせる文は一行たりともなかったのだという。
 それが、急に慌ただしくなったのは、王太子ラエルが積極的な行動に出たことによる。
 フレイは、予告もなくヴァナルガンド騎士団から除名された。
 同時に、王太子の近衛騎士団長という新たな身分が与えられたのだった。
「急な事ですまないな」
 フレイが執務室に入るなり、そう言ったのは、宰相補佐でありティレンの伯父でもあるスクルド・トリンだった。面差しに似たところを見付ける事は出来ないが、基本的に堅物という点で血縁を感じさせる。
「これは王太子の独断だが、【金の小鳥】を迎えに行ってもらいたい」
「……どういうことでしょうか」
 思いもよらぬ命に、さしものフレイも混乱気味だったが、スクルドの方は、淡々と言葉を次いだ。
「もともと、譲渡したわけではなく貸与しただけだ。国内から出す事はまかりならぬと神からの告げがあったとでも言って、まずは返還を求める」
 仮にも、この国に取って大切な巫女である【金の小鳥】を、銅像かなにかと間違えてやしないかという話し振りだが、
「まあ、グリヴィオラ王には鼻先であしらわれるだろうがな」
 と言ってしまうところなど、ああ、ティレンの伯父というだけあるな、と、フレイはなんとなく得心してしまった。
「ということは……それを理由に、ルウェルトと手を組む、と?」
「話が早いな。端的に言えばそういう事だ」
「が、聖宮側はどうでしょう? 神官長は王に協力的だときいていますが」
「我が姪がおる。あれの気質はお前もよく知っているだろう?」
「はい……、ですが王や宰相は……」
「今回の人事が不満か?」
 彼にしては珍しく、しつこく反証しようとすることに怪訝な様子はみせたものの、問い返したスクルドいに咎める色はなかった。
「それとも、王太子のやり方に賛同出来ないか? 王や宰相の方に付きたいというなら、それでもよい。私がお前の考えを勝手に見誤っただけのことだ。すぐにでも今回の件は取り消そう」
「いえっ、そういうことではなく!」
 しおらしく慎重な態度を取らせていた背中の猫は、フレイからあっさりと離れて行ってしまった。
 仮にもティレンの伯父、幼い頃から顔を会わせる機会は何度もあり、唯一フレイに緊張感を持たせたのがこの人物なのだが、苦手意識があるわけではなかった。
「【金の小鳥】が降りて来て以来、いろいろ姪がお前を困らせているようだし、無理は言わない」
 そしらぬ顔をしているようで、どうやらティレンの動向はすっかりお見通しのようである。
「いえ、そんなことは……」
「あれも、頑なだからな」
 スクルドは微かに口許を歪めた。
 厳格というよりは、しきたりを尊び、常識や世間体に好き好んで縛られるというのが、ティレンの両親を含め、ハイフェルド家の人間の生き方というのもであった。それに染まり、特に不自由などしていないような顔をしておいて、ティレンは成人と看做される年齢に達すると、誰に相談する事なく聖宮に身を置き、家を出た。確かに彼女は堅物ではあるのだが、生き方を縛られるという事は良しとしなかったのである。
 三人きょうだいの中で、もっとも勉学に秀でていた彼女に、何をやっても愚鈍というより怠惰な長男に替わって家を継がせようとしていた両親に取っては青天の霹靂で、ひと騒動あった事はいうまでもない。
「聖宮は王の支配下にはない。もともとは並び立つものだ。そういう意味でも、この度の事は、王の権限を逸脱したものでもある。聖宮が【金の小鳥】を奪還するのは当然の事でもあるはずだ。にも関わらず、何を愚図愚図としているのか、我が姪は。なあ?」
 同意を求められても、目の前であれほど思い詰めた姿を見せられていたフレイは、簡単には頷けなかった。彼女とて、単に手をこまねいていたわけではないのだ。
 ようやく、彼女にひとつの道を示せる事に、そこに引っ張り込んでくれたスクルドに感謝しながらも、気持ちはやや複雑なものがある。
 自分の手でなんとかしてやりたかった。
 心の端が微かに痛んだ。
 いくら、ヴァナルガンド騎士団の双璧と謳われる第二大隊長副官とはいえ、王太子近衛騎士団長への抜擢は相当に無理がある。王太子の口添えが──いや、むしろ指示、もしくは命令だろうが──あったにせよ、宰相補佐としての身分を危うくしかねないほどには。にも関わらず、おそらくは必要な手続きを飛ばしてまでそうしたということは、現在の事態が、フレイの想像以上に悪いのだと気付くに充分な事実だ。
「……ティレンの事はまかせたいのだ。あれを御せる者といえば、お前くらいしか心当たりがない」
 そこまで言われて、否やという答えなどありえない。
 フレイは力強く頷いた。
 事は急を要する。
 心が決まれば、無駄に出来る時間など一瞬たりともない。
 深々と一礼すると、フレイは直ぐにすべき事へと意識を向けたのだった。

◇ ◆ ◇

 【薄明の間】は、本来、【地の星見】以外の者が足を踏み入れる事は許されていない。が、それが破られたのは、ひとり籠りきりになっているティレンを、他の星見たちが余程持て余していたという事なのだろう。
 案内された部屋の扉を開けると、薄闇の中、黒々と底知れぬ闇を結晶化させたような石の前に、静かに佇む彼女の姿があった。その横顔は穏やかで、冬の湖を思わせた。
「何か?」
 おもむろにフレイに向けた顔に、驚きはない。まるで彼の来訪を知っていたかのようだ。
「頼みがあって来た」
「頼み、ですか」
 彼のよく知ってる、彼女の顔。
 薄い微笑に似たやさしい色の仮面はそこにあるのに、まるで別人のような錯覚にフレイは囚われた。
「ああ、その前に、先日のことはなかったことにしてください。いくら混乱していたとはいえ、酷いことをお願いしてしまいました。申し訳ありません」
 ──どうか、【闇月】を殺してください。
 その言葉が撤回された事に、フレイは胸の内で安堵する。
 ひとり【薄明の間】に籠っていると聞いて、思い詰めているのだとばかり思っていたが、むしろ自分を諌め、落ち着かせる為の時間だったのなら良かったと、ほっとしたのだった。
 彼がこれから話す内容を聞けば、自ずとそうなる事は分かっていたにせよ、ティレン自身が、その愚かさに気付いてくれる方が良い。
 彼女の伯父でもある宰相補佐から預かった文書を彼女に手渡し、自分もまたそこで重い役目を担う事になったことを伝えると、彼女は得心が言ったとばかりに、顔をほころばせた。
 けれど。
 そこに、フレイは違和感を覚えた。
 【金の小鳥】を迎えにゆくのだ。彼女が喜ばないわけがなく、鉄壁の無表情が崩れるのも当たり前だ。
 正体の分からない不安は、言葉として形にならない。
「ヒナコ様を迎えに行けるのですね」
「王太子自らが動いてくださることだしな」
「では、早急に体裁を整えましょう。【地の星見】が、この天球石から何を読み取ったのか、神官長には分かりませんしね」
 いかにも彼女らしい人の悪い笑みを口の端に浮かべて、ティレンはそっと天球石を撫でた。
 何もおかしなことはない。
 ならば、今は些末な事に気を取られている余裕はないと、フレイは胸にくすぶる不審の念を封じ込めた。

2008.11.15


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