星月夜の森へ

─ 45 ─

 グリヴィオラの王宮に到着した後、案内されたのは、落ち着かないほどに豪奢な部屋だった。続きになっているソナの部屋ですら、やや簡素なくらいで、陽菜子が聖宮で宛てがわれていた部屋よりも遥かに上等だった。
 疲れた身体も心も解きほぐしてくれるような、涼やかな甘さの香料が溶かし込まれた風呂にゆっくり浸かり、用意されていた寝間着に袖を通すと、そのさらりとした肌触りの良さに驚かされた。
 寝室の小さなテーブルには、聖宮でも、眠れない夜にはよくソナが淹れてくれるお茶と同じものと、軽い夜食が用意されていた。
「なんだか、至れり尽くせりですね……」
 陽菜子の侍女として同行しているというのに、自身もまるで賓客のように扱われて戸惑い気味だ。
 少し小腹も空いていたことだし、二人は有り難く夜食に手を付けた。
 三人くらいが手足を存分に伸ばして休めそうな寝台には、軽やかな紗の天蓋が掛かり、シーツも掛け布団も、とても肌触りが良く、ほのかに花の香りがした。
 とても寝付かれそうにないと思っていたが、自分が思っている以上に身体も疲れていたのか、ソナに促されて、手の込んだ花の刺繍が施された軽い掛け布団の中に潜り込むと、たちまち眠りの手に絡めとられてしまった。
「では、お休みなさいませ、ヒナコ様」
 灯りを落として、食器を載せた盆を手に部屋を出て行くソナの声は、とても遠くに聞こえていた。
 翌朝、といっても、とうに日は高く昇っており、昼間に近かったのだが、まるで陽菜子が起き出して来るのを見計らったようなタイミングで朝食が運ばれて来た。旅の疲れが取りきれぬ身体に、干した果物を刻んだものが散らされた粥の、ほんのりとした甘さがしみた。
 特にする事もなく、昼を少し過ぎたあたりに、昨夜の言葉通りアズフィリアが部屋を尋ねて来た。
「ここはカーラスティンとは随分と気候がちがいますでしょう? 試しに、こちらを着てみてはいかがかしら」
 そういって侍女たちに運ばせて来たのは、襟ぐりや袖周りがゆったりとしたつくりの衣装だった。まだ春の終わりだというのに、既にカーラスティンの夏ほどの気温があるここでは、陽菜子が宰相に持たされた衣装は窮屈な上に暑い。
「こういったものの方が、馬に乗ったりする時にも便利でしょう?」
 カーラスティンで着ていたものは、基本的にはくるぶし丈の衣装ばかりで、活発に動くには向かない。けれど、アズフィリアが広げて見せる衣装の数々は、どれもゆったりとしたパンツとセットになっていて、思い切り身体が動かせそうだった。
「数日後には、ここを発たねばなりませんけれど、その前に、一緒に遠乗りにでも行きましょう」
「遠乗り?」
「ええ。馬を駆って、ずっと遠くまで。気持ちが晴れるわ」
 ……人質のはずの自分に、そんな事が許されるのだろうか?
 それが気になって、馬に乗った事がないという事を、陽菜子はすっかり失念していた。
 馬車の窓から見た地平。あれを追って行けたら、さぞかし気持ちがいいだろう。
「そのまま、元の世界にお帰しする事は出来ないのですけれど、今、その為の準備は整えています。間もなく、扉を開く鍵が手に入るわ」
「でも、あたし……」
「何も今、決断する必要はないわ。ルウェルトとの決着が付くまでに、お決めになって。さ、そんな暑苦しい服、なんて言っては失礼かしら。でも、こちらの服にも袖を通してみて。きっと良くお似合いよ」
 若草色の地に、唐草と鳥の模様が入った上着を、アズフィリアは陽菜子の胸にあてて、にっこりと笑った。
 結局、陽菜子が満足に馬に乗れなかった為に、遠乗りへ出掛けるという事は叶わなかったけれども、グリヴィオラ王宮に滞在した数日は、下にも置かぬもてなしを受けた。アズフィリアは日中のほとんどを陽菜子たちと共に過ごして、事細かに気を配り、またクウィルズも、陽菜子たちをカーラスティンから護衛して来た者たちとはまるで異なり、表向きだけの客扱いすることはなかった。少なくとも、その表情や目の色から陽菜子に対する興味本位な物見高さや蔑みは窺えなかった。王の賓客として、過ぎるほど丁重に陽菜子に接し、彼の部下たちもそれに倣ったことで、ここまでの道中で染み付いた居心地の悪さは払拭されていったのだった。
 気が付けば、陽菜子は、人身御供に差し出されるようにグリヴィオラに来たのだという事を忘れてしまうほど大切にされていた。
 それでも、グリヴィオラとルウェルトが正面からぶつかり合おうとしている、その最前線へと向かう日はやって来たのだった。

◇ ◆ ◇

 アリューシャが、王都で愚図愚図と時を過ごしていたフェンのもとを訪れたのは、人気のある飾り物屋には相応しからぬ、およそ痴話喧嘩としか言いようのない騒動の最中だった。

「ちょっと! その態度はないんじゃないの!」
 腰まで伸ばした金の巻き毛も艶やかな娘が、銀髪の青年に食って掛かっていた。その豊満な身体つきといい、派手な顔立ちとそれに見合った勝ち気な表情といい、その上、旺盛な生命力までもが溢れていて、歩いているだけで人目を惹き付けそうなその娘は、今にも相手の喉頸に噛み付きそうな勢いだった。
「あんたのしけたツラ、わざわざ見に来て上げたってのにさ!」
 銀髪の青年は、うんざりしたような目をちらと向けただけで、相手をするつもりは欠片もないらしく、うんともすんとも言わない。その無関心が娘を酷く怒らせ、酷い言葉を吐かせているようだった。
「何よ、人間の女に現を抜かした挙げ句、逃げられたなんて、いい気味だわ」
 いっそ気持ち良いくらいすっぱりと言い難い事を口にして、娘はつんと顎を上げる。
 これでも、彼らの一族を統べる長の娘だ。そういう態度は実に板についていた。
 まさかこんな事態になるとは思っていなかったらしい、もうひとりの青年が、困り果てた顔で事の成り行きを見守っていた。
 そもそも、銀髪の青年を慰めてもらおうと思って、いや、意気消沈している今ならと思って、こっそりとこの娘を呼び寄せたというのに、事態は希望とは全く別方向へと向かっていたのだった。
 どれほどお膳立てしてみても、この娘の手に、自分の幼馴染みが落ちることはないらしい。
「お父様も、どうしてこんな腑抜けなんかに後を継がせようなんて思うのかしら。あたしは御免だわ!」
「俺も願い下げだ」
 ぼそりとした呟きにも関わらず、それはしっかりと娘の耳に届いたようで、
「なんですって!?」
 耳をつんざく金切り声が響き渡った。
「お取り込み中申し訳ないのだけれども」
 申し訳程度の軽いノックをした後、アリューシャは言葉の隙間に割り込んだ。
「そこのあなた、ちょっと話があるの。顔貸してもらえる?」
 マントのフードを被ったままの訪問者に水を注されて、娘は鼻の頭に皺を寄せた。
「ちょっと、なんなのよ、……」
 それ以上の言葉は、どっかりと椅子に身を預けたまま、彼女の言葉に微動だにしなかった彼が立ち上がった事で、断ち切られた。
 この状況から逃れられるのなら、これ幸い──と彼が思って、その言葉に従ったわけではない。寧ろ、もっと厄介な事に引きずり込まれるような予感さえあった。
「なによ、逃げる気!?」
 きゃんきゃんと吠える娘を、彼は無表情に見やった。
 それは、初めて彼が娘に向けた視線であったのだ。
 それが、この上ない拒絶である事を感じ取ったのか、甲高い声はぴたりと止み、それ以上、彼の背中を追って来る事もなかった。
 先を歩くアリューシャの足は、表通りからほんの少し奥まったところで止まった。
「あんたが、この世界でのあの子の逃げ場になったせいで、状況が面倒くさくなっている。責任をとってもらう」
 銀髪の青年は──フェンは、何一つ問う事もなく、そのままアリューシャとともに王都を後にしたのだった。

◇ ◆ ◇

 雅やかな楽の音が、遠くから聞こえているなか、贅を凝らした客間の空気は、酷く剣呑だった。
 アーウェルが見事な手腕で揃えた楽や舞の名手、最高級の食材のみで作られた味だけでなく目にも美しい料理の数々は、彼の従者たちに供されている。申し訳ないと口にしながら、アルヴ商会の若旦那ことクリシュナは、贅を凝らしたもてなしを従者たちに譲り、自分はツァルト国で醸された果実酒を、練り物や凝乳などをつまみにちびりちびりと手酌で楽しんでいた。
 誰も彼もが賑やかしさを好むわけではないし、相応のものは既に受け取っており、アーウェルとしては文句を言う筋合いは無かったが、アトールでこれだけの名手を一同に揃えられるのは銀月楼の名と幸運が揃った結果だけに、楽と舞を肝心の若旦那に披露させてやれない事が残念ではあった。
 一方、ヴィリスは、ごてごてと着飾るのではなく、サルーファ産の花鳥の模様が繊細に織り込まれた、光沢のある薄紫の布地で仕立て上げられたドレスと、小鳥の卵ほどもある緋炎石を中心に、小粒の月虹石をふんだんにあしらった首飾りと、揃いの耳飾り、腕輪という装いで、彼の正面に居た。
 それらは、金茶の髪と相俟って、彼女を王侯貴族のように見せており、さすがはアトール随一の傾城というに相応しかった。
 しかしながら、クリシュナの方は存外にも彼女に関心を示さず、酌を言い付けもしない。
 まるで飾り物の人形のように、ただそこに居る事を強いられているからだけでなく、ヴィリスは不機嫌だった。それを隠しもしないで、目の前の客を睨み据えていた。
「怖いね、そんな眼をされると」
 微塵もそうは思ってもいない口調で、クリシュナは微笑った。
 ふん、と鼻先であしらって、ヴィリスの眼は益々剣呑な色を深めてゆく。
 夕焼けを思わせる橙色の髪は、手入れもいいのだろう、艶やかで、知性的な藍色の目も、そのへんのぼんくらな若旦那とは違い、油断がならない。
「……あんた、何者だい?」
「楼主から聞いているだろう? グリヴィオラから来た商人だ」
「アルヴ商会の若旦那、だそうだね」
「例え偽物だとしても、払いは済ませてあるし、問題はないだろう?」
 軽い調子でクリシュナは言う。
 グリヴィオラ国内だけでなく、その近隣諸国までも商いの手を伸ばしているアルヴ商会の名は有名過ぎて、逆に名を騙るのも憚れるほどだ。いっそそれを逆手にとったのだろうかと思ったが、それはヴィリスにはどうでも良いことだった。
「……何か、あんたからは歪んだものが響いて来て気に触るんだよ」
「ほぅ」
 クリシュナの眼が、面白そうに細められた。
「その姿、偽物だろう?」
 ヴィリスの声は、刃物のように鋭かった。すでにクリシュナを客として看做していないかのように。
 けれど、クリシュナの薄い笑みには、細波ほどの変化も無い。
「さて……それはどういう意味だろうね?」
 脇息にもたれ掛かり、空になった杯に酒を注ぎ足しながら、まるで馴染みの客のようにくつろいでいる。
 ただ、何かおかしい。
 目に映る姿と、感覚として伝わって来るものの違和感があるというだけだから、ヴィリスとしては上手く言葉にして、相手が欺いていることを表側に引きずり出すことが出来ない。彼女にしては珍しく、口惜しそうに口許を歪めていた。
「まあ、腐っても【風聴き】の末裔か」
 杯の中身を一息に飲み干して、ことりと膳に置いた彼は、まるで別人のように表情を変えていた。
 まるでヴィリスを嘲るような眼を、彼女に向けていた。
「……な、」
 咄嗟に何も言えず、ヴィリスは口籠る。
「が、所詮は能力を封じた者だけあって、鈍いな」
 くつくつと喉の奥で笑い声を立てながら、クリシュナはさらにヴィリスを追い詰める。
 ヴィリスが【風聴き】であることを知る者は少ない。噂になどなっていないはずだ。
 なのに、何故この男は知ってるのだろう?
「でも、完全に封じてもないことで、驕ってきたな。ろくに役立ちもせぬくせに。それが証拠に、あの子の正体にも気付かなかったな」
「……あの子?」
「お前たちがユゥイと呼んでいた者のことだ。まあ、ネペンサに売られるよりはマシな境遇を与えて、後はあの者に任せたあたりは正しい判断だったがな」
 に、っと口の端が上がり、薄い唇が三日月のように撓んだ。
 挑むような光を帯びた瞳の藍色が、夜明けの空のように色を変え始めていた。夕焼けのような髪は、逆に夜の帳が降りるかのように深みを増して、見る間に闇色へと変化していった。
「まさ、か」
 引き攣れた声で、ヴィリスは呻いた。
「あんた、ヴィスタリア……」
 クリシュナは、肯定の代わりに昏い笑みを深めた。

2008.11.05


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