星月夜の森へ

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 薄片鎧を身に纏って、サリューは馬上にあった。
 大将らしく、機能性よりも視覚的効果に重視をおいたそれは、出来るだけ軽くは作られていたものの、サリューには両肩に掛かった責務を思い知らせるように、全身にのしかかっていた。
 先鋒は、異母兄のキノアが務める。
 それぞれに、心強い補佐は付いているが、共に初陣だ。
 しかも相手は、大国グリヴィオラとなれば、きりきりとみぞおちの辺りが絶えず痛むのも無理はない。
 戦端が開くかどうかは、実際のところ、まだ微妙なところだ。
 サリュー自身は、出来れば穏便に事を済ませたかったが、使者の首が塩漬けにされて送り返されては、相応の対応をとらねば、虚仮にされ、大国におもねるしか出来ない小国だと見くびられ続ける。
 それだけは避けたかった。
 国の規模の差は分かっている。
 それでも、対等に在らねば国としての未来がない。
 まるで挑発するかのようにグリヴィオラは国境でもあるグローディ河の対岸にある街、タラダインに兵を集結させていた。名目は大規模演習だという話だが、それは建前に過ぎない事は自明の理だ。
 志願兵を募っているが、所詮付け焼き刃の烏合の衆、枯れ木も山の賑わいといったところか。今後の国を支える民の命を、サリューは無駄にはしたくはない。
 グリヴィオラは大型の弩を大量に投入して来るだろう。グローディ河を挟んでの戦闘には有利だ。基本的にルウェルトが得意としているのは長弓部隊を全面に押した戦いだ。巧みな者は騎乗したまま弓を操る。戦い方如何では、さほど不利とは思われないが、いずれにせよ、兵力に圧倒的な差がある。長期戦に持ち込まれれば、勝機など無いに等しい。
 短期決戦で、どこまで王の喉元にまで切り込めるのか。
 その道をキノアは命を賭けて拓く気でいる。
 サリュー自身、一騎士としてなら十分に役立つ技量はある。が、それがどこまで通用するかは不明だ。
 噂によれば、グリヴィオラ王イェグランは偃月刀の希有なる遣い手で、グリヴィオラの将軍をも凌ぐ腕前であると言う。
 最初から負けるつもりなどもちろんない。それでも、小国なりの気概を見せつけられるだけの戦いをしなくては、この少なからぬ犠牲を強いる行いに対する償いの足しにもならない。
 どうしたら、対等に渡り合えるのか。
 国として、国を背負う者として。
 答えは出ぬまま、本陣と定めた国境近くの街、レクサーは目前に迫っていた。

◇ ◆ ◇

 ざわざわと、常になく銀月楼の様子は落ち着きを失っていた。
「……そりゃあね、もう借財はないよ。だからって、はいそうですか、と笑って見送るとでも思ってたのかい?」
 ほとほと呆れ果てたように、銀月楼の上臈たちを取りまとめる束頭であり、楼主の妻であるアーウェルは、深々と溜め息を吐いた。
「思っていませんけどね、でも、もう私を縛るものは何もないでしょう?」
 ヴィリスは、卓を挟んだその向かいに、すっと背筋を伸ばして座っていた。
「あんたには、銀月楼を背負う傾城の誇りってものがあると思ってたけど」
「それはもちろん。でも、もう潮時でもありますしね。そろそろ傾城の座を、誰かに譲るのも悪くない時期でしょう」
「それはそうかもしれないけど、あんたの言う事は唐突過ぎるんだよ……」
 こめかみを抑えながら、アーウェルの溜め息は更に深いものになった。
 二人の声は静かなものだったけれど、それをこっそりと見守るものたちは、気が気でない。
 アトールの二大女傑でもある二人が、たがを外したら最後、止めることが出来るのは、おそらく本気になった楼主タランダだけだ。が、普段が普段だけに、今ひとつ心許ないものを誰もが感じてしまうのは、致し方ない事だろう。
 それに、会話の内容は、周囲を動揺させるに十分なものでもあった。
 今年でファーランの年季も明ける。
 銀月楼が誇る傾城が二人も抜けて、あとを支えきれるだけの後継が育っていないのだ。リシェならば、それだけの器量はあったにせよ、それでも、ここ数年、アトール随一の座を譲る事のなかった傾城の跡目を継ぐには、まだ荷が重かっただろう。
「それに、まだユゥイも見付かってないんだよ。気にならないのかい?」
「……あの子は、大丈夫ですよ」
 ふっと目元を緩ませたヴィリスに、アーウェルは怪訝な目を向けた。
「手を尽くしてあの子を探してくれてるのは有り難いですけど、多分、あの子は見付かりませんよ」
 ネペンサを始め、この国にある遊郭の全てに、捜索の手を伸ばしていた。それだけでなく、およそ市井の者には縁のない闇商売の者たちにも、相応の対価を払って情報を集めていた。
「何か知ってるのかい?」
「……ただの勘です」
「なんだいそれは……」
 ほとほと呆れ果てたとばかりに、アーウェルは軽く首を横に振ると、
「とりあえず、まだ決心したわけじゃあないんだろ。もう少し、考えてみておくれ」
 そういって、席を立とうとしたとき。
「ヴィリス、今日の身支度は、特に入念にな」
 楼主のタランダがひょこりと顔を出した。
「なんだい、お客によっては趣向を凝らさなきゃいけないんだからね、もったいぶらないでおくれ」
 酒や料理の用意から、歌舞音曲に至るまで、客をもてなすのに必要な脇の事の一切を取り仕切るアーウェルは、タランダを急き立てた。
 一瞬たじろいだタランダが、直ぐに気を取り直し、いつになく上機嫌に、
「グリヴィオラからの客でな、アルヴ商会の若旦那が来てるんだよ」
 と言った途端、
「どうしてそれをさっさと言わないのさ! 見世を開けるまでにあと数刻もないじゃないか、手配が間に合うかね?」  ぱたぱたとアーウェルは指示を出す為に奥へと駆け込んで行った。もちろん、その間際に、
「ヴィリス、さっきの話はとりあえず棚に上げて、しっかり粧し込むんだよ!」
 と言いおくことは忘れなかった。

◇ ◆ ◇

 雨はさほど冷たくはなかったし、空気は暖かかったけれど、体温を確実に奪っていた。
 莫迦な事をしたなとは思う。
 でも見張りもおらず、この天候なら、直ぐに追っ手がかかる事もないだろう。
 やがて雨足は強くなり、ぬかるんだ地面に足を取られて何度も転んだ。
 朝はまだ遠い。
 暗闇を裂くように降る雨の中、藻掻くように無我夢中で足を進める。
 けれど、どこへ向かっているのか、もう分からなくなっていた。

「なかなか熱が下がらないね……」
 ふう、と女は溜め息を吐いた。
 濡れた衣服を着替えさせ、すっかり冷えきった身体を胸の内に抱き込んで、丸一日暖め続けたのは彼女ではない。
 さっきまで、苦しそうに浅い呼吸を繰り返している由井の髪をそっと撫でていた彼は、臆病にも由井の目覚めを恐れて今は姿を消している。
 音もなく出て行こうとした彼に、無言で「どこへ?」と問い、
「熱冷ましの薬草を探して来る」
 と答えられては、咎めることも出来ない。
「ああ、それがいいよ。この子の様子は見てるから、とっとと行っておいで」
 随分な言い種で彼を送り出す他無かった。
 女は高慢な表情を和らげて由井を見やった。
 頬にそっと手のひらを添わせる仕草は、いたわりに満ちている。
「こんな傷まで……」
 泥に塗れて使い物にならなくなっていた包帯は、とうに外してあった。傷ももう塞がっていたものの、赤くくっきりと残っている傷痕は痛々しい。肩の傷は、何度か無理を繰り返したらしく、未だじくじくとして熱を持っている。患部は洗って傷薬を塗り込んではおいたが、倒れていた状況が状況だけに、膿んでしまうかも知れないと彼女は心配していた。今、発している高熱も、半分はこの傷から来ているのだろう。
「こんな目に遭わねばならない謂れなどないのに」
 アリューシャは胸の内で、由井に詫びた。

2008.11.03


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