星月夜の森へ

─ 43 ─

 この春は雨が多いな、とラエルはふと思った。
 先日、王都中のシェリフロルの花を散らす勢いで吹き荒れた嵐の後、薄日が射す日こそあれど、気が付けば雨が降っている。
 種が芽吹こうという時期に……まずいな。
 ちょうど彼が見ていたのは、昨年の作物の出来高に関する報告書だ。
 豊作といって差し支えないだけの実りがあり、今年も平年並みの収穫量があれば、来年からは、一時的に下げていた税額を元に戻しても大丈夫だろうと安堵の溜め息をついたばかりだというのに。
 この雨で、種が腐らなければ良いが。
 雨が多いと、動物にも植物にも病気が出易い。
 まだ、この国は病み上がりに近いというのに。
 憂鬱な気分を振り払うように、ラエルはキリのいいところで報告書に目を通すのを中断して立ち上がった。
 そのまま廊下に出て気の赴くままに庭にたどり着くまで、誰にも遭遇しなかったのは珍しい。そういえば、ルウェルトとグリヴィオラの争いが飛び火する事を想定して、騎士団が合同演習をする日だったか、と思い出した。武官たちだけでなく、文官たちも補給及び輸送路の確保を中心に、立案せねばならないことは山のようにあり、おそらく通常の職務は全て止まっていることだろう。
 本来なら、ラエルもそれに参加して然るべきなのだが、宰相から、まだ若く経験のないことを理由に傍観を求められた。それは彼の矜持を傷つけたけれども、抗う気力も湧かず、その日に至っていた。
 この時期、鮮やかな色彩に満ちている庭は、それを引き立てる陽光もなく、風景は霧雨に滲んでいた。
 いっそ、篠付く雨でも降っていれば、部屋に戻ってお茶の一杯でも言い付けただろう。
 が、ラエルはその中へ足を踏み出した。
 一歩進む毎に、着衣がじっとりと重みを増していくような気がする。
 振り返って見上げれば、サリューと陽菜子が言葉を交わしていた露台が目に入った。
 もしかすると、いや、おそらくは戦場でまみえる事になるだろう二人の事に考えが至ると、胸の奥に苦いものが湧き出て来る。
 子供の頃に読んだ英雄譚のように、全てを薙ぎ払い全てを救えるような力も知恵も自分にはない。
 ラエルは、己の傲慢に嘆息する。
 そのくらいの事、自分にもやれるのだと心のどこかで思っていたことは、子供なら誰しも抱く幻想にせよ。
 もちろん相応の努力はしてきた。学び、鍛え、様々なものを見て触れることを厭わずに。
 いつの間にか、それが過信に繋がっている事に気付きもせず、政務に携わり、それなりの成果を挙げていたことで、さらに増長していたのだと今更ながらに羞恥を覚えていた。
 たかが宰相くらいにでさえ、出し抜かれたくらいだ。
 結局は、子供の浅知恵の域を出てなどいなかったのだと、知らず自嘲が零れる。
 宰相の事は信頼していただけに、己の不甲斐なさが、より苦いものとなって全身を巡る。それをいい薬だと思うのは、やや自虐的な気分であるからかも知れなかった。
 霧雨に周囲の風景がぼんやりと霞む中、四阿にたどり着くと、意外な先客が居た。
「……父上」
 その権威を示すかのように豪奢な礼服ではなく、ゆったりとしたくつろぐ為の衣を纏った父王の姿を見たのは、果たしていつの事だったろう。
「こんなところで、何をなさっておられるのです?」
 四阿の外でラエルが足を止めると、
「濡れるだろう。早く入って来るがよい」
 と、質問に対する応えより先にそう言われて、ラエルは四阿の屋根の下へと入った。
「何をしている。さっさと座れば良かろう」
 父の許可など気にする事もなく、先に腰掛けて笑っていられたのは子供の、それも随分幼い頃のことだ。異母弟のオルティの歳には、既にラエルは父王とは一線を引いていたような気がする。
「……おまえこそ、なにをしている?」
 久しぶりに、近い場所で見た父王の顔は、父というよりは祖父という方が相応しいほどに老け込んでいた。以前は燃え立つ太陽のような色だった髪も、力を失くし色褪せている。
「報告書を読むのに根を詰め過ぎましたので、少し気分転換を。父上は演習をご覧にならなくても良いのですか?」
 実務的な会議に王など不要だ。だが、演習の視察は、騎士団の士気を上げるのには役立つだろうに、父王はあっさりと、
「わしなど邪魔なだけだろうさ」
 と言ってのけた。
 霧雨は、やがて樹々の葉を打ち鳴らす雨に変わった。
 誰かが気付かぬ限り、しばらくはこの四阿で雨宿りをすることになりそうだった。
 幸い、湿気った空気は暖かい。
「……どうして、【金の小鳥】を手放されたのです?」
 尋ねるのなら今しかないだろう、そう思った時には、その言葉は口からこぼれ落ちていた。
 自分でも驚いて、その動揺を気取られぬよう、ゆっくりと言葉を継ぐ。
「あれほど可愛がっていらしたのに、あの仕打ちはあまりに薄情ではありますまいか」
 父王は──アルカスは歪んだ笑みを浮かべた。
「あれは、愛でるものであって、愛するものではあるまい?」
「そ、れは……」
「【金の小鳥】への憎悪を聞いて育ったのは自分だけだと思っておったのか?」
 くつくつと喉の奥で笑い声を立てながら、アルカスは面白いものでも見るように息子であるラエルの驚いた顔を眺めていた。
 アルカスがラエルの母親であるディーナを王妃として迎えたのは、まだ二十代であった頃だが、ラエルを授かるまでに長い年月を要した。ようやく誕生した皇太子ならば、王も王妃も溺愛しそうなものだが、不思議なほどに両者は子供に関心が薄かった。現に、ラエルが十五歳になると、ディーナは王族や上級貴族の保養地として名高いメリアーダにある離宮へ居を移してしまった。となると、側室でラウィニアとオルティの母であるパエラが王妃の代わりに権勢を振るいそうなものだが、おっとりとした風情も子供たち以外のことには口を出さない姿勢も変わらぬままだ。
「優しく高潔なあのひとを、母は口汚い言葉で罵っていたものだ。やがてわしが取り合わなくなると、その捌け口はお前に向かったようだがな」
 にっ、っと嗤った口許が、酷く人間くさかった。
 王である事。
 常にそれだけの為に生きているような父王が、ラエルに見せた初めての生々しさであった。
「わしも、自分の【金の小鳥】が欲しかった。あのひとの、アンジェの目は常に父に向いていたからな……、亡くなった時には、ようやく、自分の【金の小鳥】が手に入るのだと、悲しみより喜びが勝っていた……」
 まさか。
 まさか、祖母と父は共謀したのではないか。
 ひたりとラエルの背に冷たいものが張り付き、全身を凍らせた。
 王の寵愛を横取りされたと信じていた祖母、その愛を向けられなかった父。
 そんな疑惑を抱いた事など、易々と見通したのか、
「気付いておったのか、アンジェの死の真相に」
 事も無げに言い、薄く嗤う。
「さすがにわしは関わってなどおらんよ。何が起きたのか知っていながら、黙ってはいたがな。王室の醜聞を隠したがった宰相に……当時はまだ、副宰相だったか、平伏されて口を閉ざすよう頼まれずとも、話す気などなかったが、大きな恩を売っておいた」
 ヒナコをグリヴィオラに渡す事に反対していたはずの宰相も、そのことをちらつかされれば、折れざる得まい。
 王妃が【金の小鳥】を殺めたなど、決して露見してはならない事だ。
 ならば、この世界で生きていてくれさえすれば良いのだから、とでも考えたか。
 では、父王がヒナコを飽きた玩具を捨てるように手放した理由は──
 ラエルは、ぎゅっと目を閉じた。
「……やっと手に入れた【金の小鳥】を……ヒナコを、何故、手放されたんですか」 
 言葉を絞りだしてしまってから、真正面の父王の顔を見据えるべく、ゆっくりと目蓋を上げた。
 想像通り、アルカスの視線はラエルには無かった。
「ヒナコの目はお前にばかり向いておる。目はわしを映していながら、お前の事ばかり気にしていた」
 びくびくとラエルの不機嫌を感じ取って、怯えていただけではないか。
 まるで、我がもののように陽菜子を独占するアルカスの横で、ラエルは自分でも訳の分からぬ苛立ちを覚えていた。それを嫌悪から来るものだと思い込もうとしていたことに、今更ながら気付く。
「そんな【金の小鳥】なら、いらぬ」
 酷く乾いた声は明瞭に告げた。
「わしのものにならぬものなど」

2008.11.01


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